パート2
空が、白み始めている。地平線の彼方からは、太陽のフレアが顔を出し、澄み切った空気を蒼く色付けようとしていた。
運動公園の敷地に、一人の少女が、入って来る。履き古したスニーカーが、夜露で濡れた芝生を踏み締めていた。元は白かったであろうズボンの、どれだけ洗っても落ちない程に染みついた汚れで黄ばんだ裾が、芝の露を擦られて、緑と茶色を塗り付けられる。
少女は、芝生のグラウンドの適当な所で足を止めると、大して乱れてもいない呼吸を整え始めた。鼻から、早朝のさっぱりとした空気を吸い込み、唇から吐き出す。息吹――
しゅるしゅると、音を立てて、少女の体内に残留した、古い細胞のエネルギーが吐き出されてゆく。人体は常に代謝と呼ばれる運動を繰り返しており、それは、寿命が訪れた細胞を垢や汗として排出するものだ。この時、死にゆく細胞が皮膚に、筋に、骨に、血液に残していった無念が、息吹によって大気中に溶け出し、空へと還元されてゆく。
腹の底所か、足の爪先にまで新鮮な空気を吸収した少女は、血の巡りを利用して悪性のエネルギーを一ヶ所に集め、外に吐き出した。取り込んだエネルギーが、少女の肉体を、地へ降る龍のように、天へ舞い上がる鷲のように、螺旋を描く上下を繰り返した。
「
全身にびりびりと力を籠める。体内に凝ったものを、全てリフレッシュしたのだ。
すると、少女の肉体の雰囲気が変貌していた。さっきまでは、古いものに隠されて見えなかった鋭利なものが、全身から噴き出している。濡れた銀色の光が、その輪郭に沿って纏わり付いているかのようであった。触れれば切れる月の刃を連想させる。
体を刀と化した少女は、その場で表演を始めた。ナイファンチである。
少女のナイファンチは、素晴らしかった。素晴らしいと言っても、その動きに切れがあるとか、動作の一つ一つが破壊力を感じさせるとか、そういう表面的なレベルの話ではない。動きの速度自体は緩やかと言っても良いし、採点の対象ともなる“極め”がない。見栄えという意味では、さして優れているという訳ではなかった。
だが、そもそも型というのは、形ではない。形に土台を持たせたものが、型である。土台とは、実用性の事だ。実用性とは、実際に戦いの場に於いて役に立つか否かという事である。
実践の場では技が速い事も重用視されるが、最も必要な事は、相手を倒せる事である。敵を倒すには、速度はあってもなくても構わないものだ。
相手の攻めを弾き、こちらの攻めを叩き込む事が出来れば、雨粒が石を穿つ時間が掛かっても、良いのである。
又、表演で見る“極め”などは、不要である。空手は、素手の個人による、武器を持った大人数を相手にした護身術であるから、一人を迎撃したからと言って歌舞伎のようにいちいち見得を切っていては、すぐに次の相手に斬り殺されてしまう。
相手が素手であっても、その動きを止めた瞬間に掴まれたり、組み付かれたりして、袋叩きにされてしまう。そうならない為にも肝要なのは、動きを止めない――死に体にならない事であった。
見栄えよりも実用性を優先し、留まる事なく繰り返される動きは、その肉体に刻み込まれ、事に臨んでは本能的に身を守る事となろう。
少女の動きは円であった。歪んだり、途切れたりする事なく運動し続ける、円やかなる型である。真の意味で完璧な動きであった。円は完璧なものだ。完璧なものは美しい。であれば、少女が行なう型は、美しかった。
少女は、ふと表演を中断した。視線が体育館の方を向いた。その視線の方向へ歩いてゆく。早朝の事であるから、まだアリーナは空いていない。
建物のぐるりを、少女は回った。
そうして、サブアリーナの中を覗き込める窓の前にやって来た少女は、そこに倒れている人物を発見した。
空手衣の少女が、サンドバッグの傍らに倒れている。
夕希であった。
夕希の眼の前に、白い天井が飛び込んで来た。鼻を突くのは薬品の匂いである。身体を起こそうとしたが、全身の筋肉が引き攣れたように痛み、寝返りを打つ事さえ苦痛であった。
眼球だけを動かしてみる。それで、自分がベッドに寝かされている事に気付いた。だが、ベッドに入った記憶がない。最後の記憶を辿ってみれば……
「――眼が覚めたみたいだね」
と、横手から声が掛かった。全く気配を感じなかったので、視線を巡らせる事さえしなかったが、窓際に、一人の少女が立っている。射し込む朝日の中に佇む少女は、そのまま空気に溶けてしまいそうであった。しかし、それは存在が希薄という事ではなく、彼女自身が持つエネルギーが強過ぎる為、周辺の空気が霞んでしまっているのだ。
その顔を、夕希は知っていた。その身体を、その声を、その空気を、テレビの画面越しにとは言え、見ていた。
「東ど、う、……まき、さん……?」
声が巧く出なかった。咽喉が砂漠のように乾燥している。頸の内側の粘膜を、蠍が這っているかのようであった。
「あれ、知ってるの? 私の事……」
少女――東堂真橘が、眼を丸くした。彼女は、夕希の事を知らない。自分が知らない相手が、自分の名前を知っている事に驚いたようであった。
「な、何で……」
状況が呑み込めなかった。何故、自分は東堂真橘と対面しているのか。記憶もないのにベッドに入っているのか。知らない天井を眺めていたのは何故なのか。
その疑問に答えようと、真橘が口を開き掛けた時、部屋の外から、ぱたぱたと駆けて来る足音が聞こえて来た。すぐに、引き戸が勢い良く開かれ、
「夕希ちゃん!」
千恵の声が届いた。
千恵は、頭は寝癖でぼさぼさ、服装はパジャマというものであった。しかし、その頬は紅潮し、汗をだらだらと流していた。
「夕希ちゃん、だ、大丈夫だった⁉ い、いや、っていうか、その、ご免ね! 昨日は気付かないで……ってか、夕希ちゃんも電話に出ないのが悪い……いや、責めてる訳じゃなくて!」
「どーどー、落ち着いて、佐藤さん」
一気に捲し立てる千恵を、真橘が抑えた。佐藤というのは、千恵の親が再婚する前の姓である。千恵の苗字が佐藤から朝香になったのが去年の事であるから、中学時代の同級生であった真橘にとって、千恵はまだ“佐藤さん”なのだ。
「はぁい、深呼吸、深呼吸」
真橘に言われるまま、鼻から吸って、口から吐くを、数度、繰り返す千恵。それで少しは安定したらしく、パジャマの裾で顔を拭って、夕希のベッドの脇にパイプ椅子を持って来て、座った。
「平気、佐藤さん?」
「どうにか。……それと、今は、朝香、ね」
千恵に、真橘がペットボトルの水を渡した。千恵がそれで咽喉を潤している間に、なんとかして、夕希が上体を起こした。全身が痺れを孕んでおり、顔を横に向けるのも一苦労であった。
「で、何があった訳?」
千恵が訊いた。
「何が、って……」
「昨日、ご飯食べようって言ったのに、来なかったからさ……」
「あ――」
「で、家に帰っちゃったのかと思って」
「――」
「そしたら、さっき、真橘から電話があってさ」
「東堂さんが?」
「うん」
と、頷いたのは真橘である。
「今朝、ちょっとこっちまで走っててね。アリーナの方から物音が聞こえたような気がしたんで、見に行ったら、誰かが倒れてるんだもの」
「私が……⁉」
「そう。それで、警備員さんに言って開けて貰って、着ていたのが力神会の道衣だったから、佐藤……朝香さんに連絡入れたんだ」
「――そう、ですか……」
朝まで夕希が発見されなかったのは、夕希が倒れていた位置が、敢えて覗き込まなければ外からでは見えない位置だったからだ。
しかし、アリーナの施錠をする警備員は昨夜もいた筈であるから、その見回りの際には既に夕希は倒れていたという事になる。
その今朝まで倒れていた夕希を見付けた真橘が、彼女をこの医務室まで運んだのだ。
「でも、どうして?」
訊いたのは、夕希であった。
「どうして、私、倒れていたんですか?」
そう訊かれた千恵は、
「はぁ?」
と、顔を歪めた。
「そ、それはこっちが訊きたいよ。って事は、あれだよね、昨日、夕希ちゃんはずっとあそこで倒れてたって訳?」
力神会女子部がいつもしっかりと清掃や施錠をしている為、アリーナの運営からも信頼されており、夜の見回りはきちんと中まで見ない事が多い。電気も点けずにちょっと扉の隙間から覗き込んで、それで何事もなかったと判断されてしまったのだろう。
千恵と真澄は“エネルギッシュマン”を出た後、運動公園の用務員に夕希の事を問い合わせたが、施錠は済んでいるから誰かが残っている事はないとの返答を受けている。その為、夕希が食事には来ず、家に帰ってしまったのだと思ったのだ。
見回りをしたのと千恵たちに応対した用務員が同じ人物であれば、或いはもう一度サブアリーナの様子を見に行ったであろうが、千恵たちが戻って来た時には見回りをした警備員は先に上がっていたので、彼の報告を受けていた用務員は残っている者はいないと思い込んでしまったのである。
「そうみたいです……でも、何でだろう」
夕希は、自分の状況を理解したものの、自分がこの状況になった理由を、分からないでいる。
すると、真橘が横から口を挟んだ。
「星沢さんだっけ? 貴女、水溜りに倒れていたんだよ」
「水溜り?」
言われてみれば、何となく寒気がする。声も、掠れているだけではなくて、鼻声っぽくなっていた。頭がぼぅっとしているが、微熱があるらしい。
「汗だよ」
「汗……?」
「自分の汗の水溜りに突っ伏してたの。サンドバッグの前でね」
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