私……本当に

パート1


 金網の上で、赤かった肉が、脂を垂らしながらこんがりと焼けてゆく。


 千恵はタイミングを見計らってそれを引っ繰り返し、充分に火が通った所で、皿に移し替えた。二枚の皿の内、一枚に大きめの肉を載せ、それを、向かいの席にいる真澄に手渡した。


「ありがと。……でも、いつも気を遣わせちゃって、ご免ね」


 真澄が言った。稽古の外では、千恵に対して敬語は使わない。友人同士のように、フランクな会話を心掛けている。


「いえ、平気です」


 千恵の方も道場にいる時とは違って、敬語で接する。道衣を着ている時は、自分が先輩として振る舞うが、それ以外の――例えば、こうした食事の席などでは、年齢に即した行動を執っていた。


「二面性と言えば、二面性よね……」


 真澄が、ビールに口を付けて、ぼそりと呟く。


「鬼の千恵先輩も、所詮は女って事か」

「ちょ、何ですか、鬼って。私なんか、館長や支部の師範代たちと比べれば菩薩ですよ、菩薩」

「貴女が菩薩だから、私たち凡夫には、寧ろ鬼に見えるのよ」

「むむ……」


 千恵が唸った。


 菩薩のような――などと言うと、非常に優しい人物のように捉えられる。しかしながら、実際の菩薩というのは、サンスクリット語でいう菩提薩多ボーディ・サッドヴァ――即ち、悟りにのみ執着する存在の事である。

 この菩薩というのは、煩悩に塗れた人間、凡夫が厳しい修行によって菩提さとりを求める以外の欲望を振り払った存在である。常軌を逸した修行によって煩悩を消し去った果てにある菩薩という境地を、ただ単に優しい人物と表現する事は出来まい。


 そうした菩薩たる為の苦行を凡夫たちに課す訳であるから、真澄らにとって千恵は鬼と言って差し支えないであろう。


「そ、それはそうと……」


 千恵はスマートフォンを取り出し、夕希に何度目かのコールを送った。

 約束の時間になっても、夕希は店に来ず、先に始めてしまい、それから何度か連絡を入れたが返信がなかった。


「駄目?」

「駄目みたいですね……」


 千恵は溜め息を吐き、烏龍茶を注いだグラスを傾けた。


「あの子にこそ、気、遣わせちゃったかな……」

「ん?」

「夕希ちゃん、こういうの、苦手みたいですし……嫌になって、帰っちゃったのかな」


 千恵の眼がうるうるとし始めた。以前、アルコールを入れていない夕希が泣き出した時に、“泣き上戸か”と問い掛けていたが、千恵もそれに近い性質であったらしい。


「そんな事はないと思うけど……」


 皿に載せて来た唐揚げを咀嚼し、真澄。


「こういうのが得意じゃないのは、昨日今日で知った事じゃないけど……」


 夕希が力神会女子部の稽古に参加するようになって、一ヶ月が経っている。最初は、約束組手やスパーリングにおどおどとした様子が感じられたが、今ではミット打ちなどの時も、同門の仲間たちを信頼している気配がある。とは言え、それは稽古中に限った事であり、当初から名前で呼ばせていた千恵以外のメンバーには未だに苗字呼びをし、余り話し掛けようとはせず、稽古外の時間でも殊更に敬語で喋っている。


「流石に、連絡を入れずに帰るって事はないんじゃない」

「いや、分かりませんよ。最近の子は、そういう事、平気でやりそうですから」

「最近の子って……あははっ、私だってまだゆとり世代なんだよ。千恵さん、夕希ちゃんの一個上じゃない」

「一〇代の一年は大きいんですよぅ」

「何ぃ」


 真澄が、ぶつくさと言いながら肉で張り詰めた千恵の頬を、横に引っ張った。


「だ、だ、誰が年増かね!」

「そんな事は言ってないですよぅ――!」


 真澄が腰を落ち着け、千恵が赤くなった頬で更に肉を食べる。


 肉と、他の料理がなくなったので、取りに行こうと千恵がプレートを持って、席を立った。その時に、真澄の分も何かを取って来ようかと、手を差し出した。


「ああ、自分で行くよ」


 真澄と二人、プレートを持って、それぞれ料理を取りに行く。焼きそば、唐揚げ、ローストビーフ、ナムル、ゆで卵、サラダ、寿司……スイーツにはまだ早い。別に持って来た肉の取り皿に、生肉を載せ、テーブルに運んだ。


「焼いてますね」

「あ、それじゃあ、ラーメン作ってくるよ。何味が良い?」

「ありがとう御座います。じゃあ、塩で」


 真澄が戻って来る頃には、肉が焼けている。真澄は醤油ラーメンで、コーンとワカメをたっぷりと入れている。千恵は、それよりもメンマとチャーシューとネギが多かった。


「夕希ちゃんのお家には?」

「今日は、ご家族、皆、出掛けているそうです」


 夕希の両親は、仕事で出張。妹は友人の家に泊まりに行っている。だから、入門の書類に記載して貰った自宅に連絡を入れても、留守番電話にメッセージが残るだけである。夕希が自宅に戻っているなら、電話に出る――そもそも携帯電話に出る筈だ――だろうから、そちらには連絡をしなかった。


「若しかしたら、来る途中で、事故ったとか……」

「うーん、どうだろ……」


 運動公園から“エネルギッシュマン”までの通りは広く、車通りも多い。全く事故がないとは言えないが、そうした情報は入っていなかった。


「やくざと、トラブったかな……」

「あー、確かに、最近、騒がしいからね」


 国道沿いに、出岡組系暴力団の事務所がぽつんと立っている。出岡組は、関東一円に蔓延る広域暴力団であり、幾つもの下部組織が各地に存在している。角鱗会などがそうである。その、国道沿いの事務所が、つい先日、火炎瓶を投げ入れられたというのである。それとは別の場所でも、組員が銃撃されたとか、トラックが突っ込んだとか、そういう事もあった。


「心配だなぁ、やっぱり」

「食事も咽喉を通らない程?」

「いいえ、心配過ぎて、食べなくちゃやっていられない程……」


 もぐもぐと、千恵は、喋る時以外は常に口にものを入れている。白米と炒飯とピラフをちゃんぽんし、同じく甘酢あんかけで味付けした白身魚と鶏の手羽をチェイサーにして食べていた。


「じゃあ、食べ終わったら、見に行ってみようか」

「そうしましょう。何かあったら、大変です」

「指導員として、責任があるからね」

「――よくよく考えたら、私たち、結構酷い事してません?」

「――体育会系には、良くある事よ」

「いや、そーですけど! そうですけども」

「だ、大丈夫よ、きっと。夕希ちゃんも、前はバスケやってたんでしょ? だから、まぁ、何と言うか、こういう事は、その……」

「――」

「――」

「うわぁっ、心配だ、心配だァ!」


 千恵は取り乱したように叫んで、取って来た料理を掻き込み始めた。それに触発されたか、真澄もビールを一気に飲み下した。


「ご免ね、ご免ねぇ、夕希ちゃん!」

「ほんっと、駄目な指導員でご免なさい、夕希ちゃん!」


 やけになったように、二人は、時間いっぱいまで飲み食いを続けた。

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