パート3

 いつも通りのメニューをこなしたが、参加人数が少ない事もあり、いつも以上に濃厚な稽古をする事が出来た。指導員と門弟の数が普段とは逆なので、夕希にとっては特にそうであった。組み手は、どちらと当たっても自分よりも経験と実力のある相手なので、今日の稽古は夕希の中でかなり良い経験となった事であろう。


「じゃあ、何処に食べ行こうか」


 千恵が、真澄と夕希に訊いた。夕希は、


「私は、何処でも」


 と、答え、真澄は、


「バイキングとか、良いんじゃないですか」


 と、提案した。

 国道沿いに、安く食べられるバイキングがある。他にも、中華料理の“偕楽亭”や“宮毘羅”、ファミリーレストランなどの案はあったが、最初に出たバイキングの“エネルギッシュマン”という事になった。真澄がクーポンを持っていた。


「あ、でも、この時間だと混むかもしれないな……」


 真澄が時計を見て言った。


「だったら、早く席を取って置いた方が良いですよね」


 夕希が言う。


「私が掃除と片付けをして置きます。千恵先輩と、真澄先輩は、先に行っていて下さい」

「そう? ……良いの?」


 千恵が、念を押すように訊いた。


「押忍」

「別に、後輩だからって気を遣わなくても」

「平気です、押忍」

「そう。それなら、先に行ってるから」

「押忍」


 そういう事になった。


 夕希がこのように言ったのは、独りで、少しやってみたい事があったからだ。

 掃除を一通り終えた後、夕希は、サブアリーナの隅に吊るされたサンドバッグに眼をやった。

 

 あれを、叩いてみたかったのである。


 いつもは自分以外の者が使っている事が多く、そこに“自分もやらせて欲しい”と言う事が出来なかったので、こうした、独りでサンドバッグに向き合える機会を待っていたのだ。


 真澄はきっと酒を飲むであろうから、二人は徒歩で店に向かった筈だ。そうすると二〇分程掛かる。その二〇分の間に掃除をし、サンドバッグを叩き始める。


 初めて叩く砂を詰めた革袋は、思ったよりも重く、硬かった。何度も打撃された事により、砂がその部分に寄り、硬くなる。これが、全体的に起こっているので、結果、全体が硬さを増してしまう。


 ミットや人の身体を殴り、蹴るよりも、反動が強く返って来た。殴ればサンドバッグを吊るしているチェーンが軋むが、サンドバッグに堪えた様子はない。鎖の軋みと、革袋のゆらゆらとした動きが、そんなものかと煽っているように見えた。


 一五分した頃、千恵から連絡があった。やはり席はいっぱいになっており、空くまではここから三、四〇分は掛かるらしい。店を変えようかとも言っていたが、折角、真澄のクーポンがあるのだから、“エネルギッシュマン”で良いだろうという事になり、二〇分したら店に向かうと連絡を入れた。その間、千恵と真澄は、近くのゲームセンターで時間を潰しているらしい。


 時間が出来たので、夕希は、さっきよりも激しくサンドバッグを叩き始めた。組み手で存分に痛め付けられた全身が、技を繰り出すたびに、打撃した反動を受けるたびに、みりみりと千切れてゆきそうになった。


 それでもパンチを繰り出し、蹴りを打ち込む。痛みと疲れの為、次第に技が雑になってゆく。これはいけない、集中しなくては――と、痛みと疲れに身体が流されてゆくのを堪え、砂袋に描いた人体急所を、出来るだけ正確に、出来るだけ丁寧な技で打ち抜いてゆく。


 人の身体を、サンドバッグの表面に思い浮かべた。顔のない人影が、ぼんやりと浮かび上がって来る。


 その頭部――人中に、上段突きを。

 水月に前蹴りを。

 電光にミドルキック。


 人中とは、鼻と上唇の間の溝の事である。

 水月とは鳩尾、胸骨の下端の先にある部分だ。

 電光とは脇腹の事である。


 そうしている内に、その人影が、更にくっきりとした輪郭を帯びるようになって来た。靄のようであった幻影が、夕希の突きや蹴りでざっくりと削られて、大理石にミノを入れるように形になって来る。歪んだ卵型であった頭部は、シェイプされて人の顔になり、ぼやけた樽であった胴体は、膨らみと括れが明瞭になって、四肢を生やしていた。それを、夕希は男の身体のようであると思ったが、ふと見れば女の身体のようでもあった。


 カリナの顔が浮かんだ。そのカリナの顔に、ハイキックを叩き込んだ、足が着地する。歪んだ筈のカリナの顔が、にぃと唇を吊り上げた。


“くだらない事、やってるね”


 カリナの顔がそう言った。夕希は、まるで自分がやっている事がそう評価されたように感じて、むっとした。その苛立ちが、怒りへと転化され、憎悪へと転身した。苛立ちの踏み込みを、怒りの身体のねじりに載せて、憎しみのパンチを繰り出した。カリナの顔が夕希の突きでひしゃげるが、夕希が拳を引くとすぐに元の形を取り戻した。


“さっきのあれ……まさか、本気で凄いって思ってんじゃないよね”


 カリナの顔がぐにゃりと歪む。歪んだカリナの顔は、瑞穂の鼻を折った長髪の男のものに変わった。いや、その半分は、あのスキンヘッドの男だ。二人の男の顔が混ざり合い、気持ち悪い表情が、サンドバッグに張り付いていた。その不気味な男の唇が動き、カリナの言葉を吐き出したのだ。


 夕希はその顔を殴った。殴ったその顔が、むりむりとこちらにせり出して来る。現れたのは瑞穂の顔であった。瑞穂は、夕希が殴った場所、顔の中心からぼろぼろと血をこぼしている。


“瓶だとか、石だとか、そーゆーものを壊して、悦に入ってるんじゃないかって事”


 瑞穂がカリナの台詞を吐いた。その側頭に、夕希が蹴りを入れた。蹴りを入れた部位が窪んだ代わりに、瑞穂の顔の下、胸の辺りから、あの長髪の男の顔が現れた。夕希はそこに膝を入れた。夕希の膝蹴りに押し出されるように、脇腹の辺りからスキンヘッドが剥き出した。そこに鉤突き、ボクシングで言えばフックに当たるパンチを打ち込んだ。


 夕希がサンドバッグを殴る都度、カリナや瑞穂やあの男たちの顔が、腫瘍のように浮上して来る。その腫瘍は、蹴り潰せど突き破れど、尽きる事なく表出して来る。


 その内、彼らばかりではなく、千恵や真澄などの仲間たち、両親や妹の顔まで浮かんで来て、夕希はそれら親しい人たちにまで拳や蹴りを打ち続けた。にゅぅ、と、サンドバッグから手が伸びて来る。無数の手だ。


 カリナの、瑞穂の、男たちの、仲間たちの、家族の手が、夕希が繰り出す技を妨げようとするかのように伸びて来る。それを弾き、夕希は、何かに憑りつかれたかのように、サンドバッグを殴り続けた。


 何処かで、何かが鳴っている。多分、自分を呼んでいるのだろう。しかし、夕希はそちらに意識を向ける事が出来なかった。今、意識の方向を変えてしまえば、この無数の手に取り込まれそうになってしまう。それは嫌であった。それが嫌ならば、こうして殴り、蹴り続けなくてはならなかった。そんな強迫観念が、夕希の中には生まれてしまっていた。


 どうして、この手に引っ張られては取り込まれてしまうのか、どうして、それが嫌なのか。理由は簡単であった。無数の手を伸ばす無数の顔は、折り重なってある人物の姿を作り上げていたからだ。それは、自分だった。星沢夕希自身の姿であった。夕希は、自分が嫌いだった。人と巧くやる事が出来ず、自分から行動に出る事が出来ない、才能などなく、努力しようとさえしなかった自分が、この世の何よりも嫌いであった。そんな自分から抜け出す為に、空手を始めたのだ。自分という恐怖の殻を破るのに、空手を使っているのだ。だから、自分に取り込まれる訳にはいかなかったのだ。


 まだ、駄目だよね。


 こうして過去の自分が現れるという事は、自分は何一つ成長をしていないという事だ。成長をする為に、こうしてサンドバッグを叩いているのだから、まだ、サンドバッグを叩くのをやめる訳にはいかなかった。

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