パート2
夕希は、そこに触れる事が出来ない。その深淵を覗く事は、自分の深淵を覗かれる事と同義だからだ。尻の孔を見せる事よりも、そちらの方がずっとずっと嫌だった。自分ですら回想するだけで身悶えるものを、どうして他人に見せられようか。モザイクを掛ければそれで済むようなものではないのである。実際に見えるものならばいざ知らず、手で掴み、指を引っ掻ける事さえ出来ないものだ。
そうした闇の発露を隠すように、千恵が笑顔を取り戻した。
「そろそろ、ちらし配りに行こうか」
「は、はい」
千恵にビラを返し、看板を掲げて歩き出す。そこで傍と、
「千恵先輩は、佐藤先輩と、知り合い……というか、その」
「そりゃ、同級生だからね」
千恵はカリナの事を名前で呼んでいた。カリナもそうであった。険悪な雰囲気はあったものの、昨日今日の付き合いではないようである。
「それに、佐藤先輩、試割りの事も分かっていたみたいですし」
「中学で部活が同じだったんだよ」
「って事は、空手部に?」
「うん」
「東堂さんとも……」
「そういう事になるね。ま、カリナはすぐに辞めちゃったけど」
「――」
「後は、同じ苗字のよしみ、かな」
「苗字?」
「うん。親が去年、再婚してね。それで、今の苗字……朝香になったんだ。うちも色々と複雑な家庭でね。小さい頃から離婚だ、離縁だ、自己破産だ、でね」
「そ、それは……」
「カリナも……まぁ、詳しくは言えないけど、ちょっとね。やくざがバックにいるって事で、後は、お察しって奴でよろしく」
「はい」
「ああ、それと」
「はい?」
「あの木村瑞穂って子の事、よろしくやって上げてね。クラスメイトだったでしょ?」
「あ……」
そうではあるが、ゴミ捨て場の前でカリナに絡まれていたあの時以来、夕希は瑞穂と喋っていない。瑞穂の方も、夕希が救急車を呼んだのではないかと思っているだろうが、カリナとの事もあって、それについては触れようとしなかった。
「ぜ、善処します」
多分、これからも彼女に話し掛ける事はあるまい――そう考えながらも、夕希は言った。
一ヶ月が経った。その間、週四日のバイトも、週二日の稽古も、一度も休む事なく、夕希は過ごしていた。
それまでは体調不良で学校を休む事も少なくなく、授業の半分近くは居眠りをして過ごす事も多かった夕希ではあるが、それまでが嘘のように快活に過ごしていた。
妹からは天変地異の前触れと嘆かれ、両親からはもう死んでも良いという不吉な言葉さえ飛び出す程であった。
更には、稽古の邪魔になるからと、眼鏡を外し、髪を切ったのも良かった。普段は眼鏡だが、稽古の時はコンタクトにしている。瞼に掛かるくらいであった前髪は、こめかみのラインまで切り、ぱっつんではなく左右に分けた。地味で目立たなくはあるものの、言い換えれば、一定水準以上の容姿は持っている訳であるから、それを公開したと言うだけでも、雰囲気がかなり変わって来る。
身体付きも、食生活と運動量の変化でだいぶシェイプされた。もう半年もそれまでと同じ生活ペースであったらば、段になっていたであろう腹の緩みが少なくなり、モデルのようとまではいかなくとも、括れがよりはっきりして来た。
それでいて、補強トレーニングによる胸筋の発達が、ただでさえ規格を越えていたバストをより押し上げてしまう。尻の肉は膨らみながらも引き締まり、見事なものであった。女性的な丸みを多分に残しながら、運動……格闘の為の身体に造り替えられてゆくようである。
この短期間でそれだけの変化があったという事は、逆に言えば、このままの生活を維持し続けなければすぐに衰えて、以前よりも肉体が劣化してしまうという事だ。が、少なくとも暫くは、空手を中心とした生活へのモチベーションが下がるという事はなさそうだ。
そうした肉体の変化にも伴って精神的にも多少は成長したものの、人との関わりが苦手である点は変わらず、学校では相変わらず独りであった。最初の席替えで巧い事、窓際に行く事が出来たので、余計な人付き合いをせずとも良い事が夕希にとっては救いであった。休み時間には中学の時と変わらず、ライトノベルを読んでいたりするが、力神会女子部の面々から勧められてこれまでは手を出さなかったジャンルも読むようになった。
そうして迎えた、五月の連休――
「むぅ」
千恵が唸った。いつものサブアリーナで、不機嫌そうに胡坐を掻いている。その横に真澄が正座をし、夕希だけが二人の指導員の前に座している。
水曜の夜の稽古であった。しかし、やって来ているのはこの三人だけである。
「まぁ、仕方ないですよ。皆、忙しいんです」
真澄が言った。
年度最初の大型連休という事で、学生たちは自ら遊び、社会人はそれでも仕事をするか、休みが取れても家庭があればそちらに引っ張り出される。
寧ろ有休を使って一〇連休にまでした真澄は、時間があって遊びたい盛りである筈の女子高生二人が汗臭い道衣を着ている事の方が、不思議であった。
「忙しいって?」
「青春に?」
「青春ねぇ……真澄さん、青春って何さ」
千恵が訊いた。
真澄は、少し考えた後、
「恋……ですかね」
「恋、か」
「師範代は、してますか、
「私はいつだって、赤夏さ」
青春という言葉は、道教に於ける五行の思想に関係している。五行とは、世界を構築する五つの元素である、木火土金水の事であり、これは、それぞれ季節や方位、それを表す色と関連している。
「朱夏です……」
「え?」
夕希が小さい声で言った。
「押忍、青春の次は、朱夏です……」
木は、生命の芽吹く季節である春を意味し、色は青。
火は、太陽が熱を照り付ける夏を意味して、色は朱。
一つ飛んで金は、秋、色は白が宛がわれる。
そして水は、その冷たさから冬、色は黒という事になっている。
これら四季の間に土がある。土は季節の変わり目の事で、色は黄色。
「おほん……兎も角、東方は、いつだって赤く燃えているんだよ!」
夕希に訂正され、咳払いで誤魔化した千恵が、拳を握り締めてそう言うと、
「夏は南だった筈ですが……」
夕希が、そろそろと発言した。蒼い春は東、朱い夏は南、白い秋は西、黒い冬は北である。
「……詳しいね夕希」
「ラノベで読みました。五行相克は、アニオタの基礎知識です」
「成程ね……所で夕希は、どう?」
「どう?」
真澄の問いに、夕希が首を傾げた。
「青春、してる?」
「青春……え、恋って事ですか?」
「そう」
「っと、待った真澄」
千恵がストップを掛けた。
「貴女、何て残酷な事を訊くのよ。夕希の闇は深いって事、忘れた⁉」
「闇って……」
千恵が必死になって真澄に言うのが滑稽で、夕希はつい、笑ってしまった。
「大した事ありませんよ。友達がいなかっただけです」
「――いや、それ」
「いない訳でもなかったですし、いたには、いましたよ。小学生の頃は、バスケやってましたから、それなりに。ただ、その人たちの中で、私の優先順位が低かっただけです。例えば、皆でゲームをしようっていう時に、私を入れて五人で、そのゲームが四人までしか出来なかったら、私は呼ばれない人ですから。呼ばれて気を遣われるなら、それこそ、独りでRPGのレベル上げやっていた方が好きでしたし」
「――」
千恵と真澄は、互いに頷き合って、立ち上がった。
「やろう、稽古」
「やろう、夕希」
「え……あ、押忍」
夕希も立ち上がる。
「終わったら、ご飯、食べに行こう」
千恵が、夕希を見つめた。夕希は、その発言の意図がいまいち察せなかったが、師範代にそのように言われては、
「押忍」
と、答えるしかない。無論、それは稽古の時間外の事であるから、断る自由はあるものの、断る理由はなかった。又、今夜、両親は仕事が重なって帰って来ず、妹は友人の所に泊まりに行っているので、帰りが遅くなろうとも構わなかった。
「じゃ、基本稽古から――」
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