パート5

 夕希はぞっとした。背後から、無言の圧力が襲い掛かって来たような気がしたからだ。振り向いてみれば、他の門弟たちが、


“余計な事を……”


 そういう顔で見ている。


 後で知った事だが、千恵は、独りで稽古をする時は、ストイックを越えてマゾヒスティックに身体を苛め抜くやり方をする。しかし、指導側に回れば、サディスティックに変わり、泣き言も言えなくなる程の厳しい稽古を行なうようになる。


 特に、教わる側が、“大丈夫”とか、“平気”とか、“まだやれる”などの発言をすれば、それを真に受けて、より一層、厳しい指導を行なうようになるのだ。


 尤も、それ以上に酷いのが、“もう駄目”、“限界”といった弱気な発言をした場合であり、こんな弱音を吐こうものなら、


“もう駄目だと思えるなら、まだやれる”

“嫌だなと思った時こそ、我慢する”


 といった、或る種、時代錯誤とも受け取られかねない精神論を展開するのであるから、調子を聞かれた時に、“押忍”以外の返事をすれば、何にしても逃げ道はなくなってしまうのだ。


「それじゃあ今日は、真剣ガチルールでやってみようか」


 千恵が、他の者たちに言った。すると一同は一斉に、“勘弁して下さい”という声を上げたがった。それを言えないのが、完全縦社会の力神会の辛い所である。千恵と同じ黒帯で、彼女と段位の取得時期が近い真澄のみが、


「それはちょっと……」


 と、千恵を諫める事となった。


「初日で辞められちゃったら不味いですよ」

「大丈夫ですよ。夕希はやめないから」

「えぇ……」

「ね、夕希?」


 千恵がにんまりとした笑顔で問うもので、思わず頷きそうになった夕希であったが、それを、既に真剣ルールとやらを経験している緑帯三人組が止めに入った。


「駄目、夕希さん」

「私たち、死んじゃう」

「ってか、夕希さんが死んじゃう」


 ただでさえ今日は、何だか知らないけれど千恵の指導に熱が入っていると言うのに――と、鈴子、あやね、咲が続けて言った。これにはこれで、夕希が困っているのを見て、千恵は対象を、今度は一番年下のマリーに移した。


「マリーはどうする? ガチやるぅ?」

「それはずるいですよ、師範代!」


 絵梨佳と真澄が同時に詰め寄った。マリーは素直な上に、まだ真剣ルールの経験がない。その為、千恵にやるかと問われれば、すぐにやると返事をしてしまいそうであった。


「あの……」


 ここで声を上げたのは、まり恵であった。


「わたくし、まだ、その……ガチrule? というもので、やった事がないのですけれど」


 まり恵は、元は英語の教師をやっていたからか、普通ならばカタカナ英語でされる発音も、本場に近い発音をする。それが、このグループの中ではネタのようにもなっているが、それを取り上げる千恵の反応の方が重要であった。


「もう少し、期間を置きましょう、ね」


 絵梨佳が言う。


「もう少し慣れさせてからでも、良いじゃないですか、ね?」

「……まぁ、それも、そうだね」


 千恵は薄く笑って、了解した。


 という事で、今回は真剣ルールではなく、通常の組み手のルールで、稽古を行なう事になった。使用するのは、正拳と手刀、蹴りという、打撃オンリー。反則は、頭部への手での攻撃や、相手の身体や衣服を掴む事など、というものだ。夕希はすぐには気付かなかったが、このルールからするに、真剣ルールというのは、こうした制限をより削り落としたものなのであった。


 兎も角、一二人であるから、六つのペアが出来る事になり、一対戦一分と、インターバル一五秒で、少なくとも半分のメンバーと当たるように、ローテーションしていった。





 一一時半頃に、稽古が終わった。午後から仕事のある涼子が帰り、夕方に別の習い事があるマリーの母親が迎えに来て、智香と加代子が遊びに行くと言うので出て行き、まり恵が家で昼食の準備をしなくてはならないからと車で帰って行った。


「これから、皆でご飯食べに行きませんか」


 と、鈴子が提案した。


 床にマットを敷いて、その上に寝転び、千恵にマッサージをして貰っている夕希は、すぐに答える事が出来なかったが、千恵がその提案に乗っかった。


「夕希ちゃんも行くよね」

「って言うか、夕希ちゃんの歓迎会だしね」


 あやねと咲が言う。夕希は、その言葉に戸惑いを浮かべつつ、


「よ、よろしければ、ご一緒させて頂きます」


 と、顔を持ち上げて、言った。


 それで、国道沿いのラーメン屋に行く事になった。メンバーは、夕希、千恵、絵梨佳、真澄、鈴子、あやね、咲の七名である。


 昼食時よりも幾らか早かったので、カウンター席に七人が横並びになる事が出来た。入口の所で食券を買い、それをカウンターの向こうに出して注文する。


 夕希と千恵、真澄は醤油ラーメンを頼み、絵梨佳は塩で、千恵と同じように煮卵をトッピングした。

 鈴子と咲は味噌で、鈴子は夕希がチャーシューのトッピングをしたのでそれと同じものと、真澄のようにコーンをたっぷりと載せて貰った。

 あやねはガーリック炒飯を注文したが、後になってから咲にもう一杯ラーメンを注文して貰い、絵梨佳がしているようにもやしを山のように載せて貰って半分こにした。

 又、皆で餃子を一皿ずつ頼んでいる。

 そして、絵梨佳と真澄は生ビールで乾杯していた。それ以外の未成年組は烏龍茶である。


 並び順は、入り口から見て奥から、真澄、絵梨佳、千恵、夕希、鈴子、あやね、咲である。丁度、歓迎会の主役である夕希が真ん中になっている。


「千恵さん、それにしても、初日から飛ばしてましたよね」


 鈴子が、餃子を頬張り、夕希の向こうの千恵に言った。夕希の事である。初心者とは言え、他のメンバーと同じメニューをこなすというのが、力神会のやり方だ。しかし、それにしても、千恵は普段通り――よりも、少し厳しめにメニューを組んでいたように見えた。


「そんな事ないよ」

「いやいや、そんな事あるって」


 と、絵梨佳が口を挟んだ。稽古中は、帯の色が上なので、年下であっても敬語を使うが、プライベートでは年齢に即した言葉遣いをする。


「そうですか?」

「うんうん、いつもなら、初心者にガチやらせようとはしないって」

「でも、夕希ちゃん、やりたかったでしょ?」

「え――」

「こらこら千恵さん、それはずるいですってば」


 あやねが言う。


「だってさ、夕希ちゃん。夕希ちゃんはガチで強く……」


 と、言い掛けて、千恵は言葉を止めた。夕希が、ラーメンを啜りながら、泣いていた。鼻をしゃくり上げながら、麺を啜り上げ、歯を噛み締めながら、チャーシューを噛み千切っている。


「ど、どうしたの夕希ちゃん⁉ 泣き上戸って奴……?」

「お酒入れてませんよ、千恵さん。出来上がっているのは、向こうの二人だけです」


 咲が、箸でカウンター席の奥を示した。見るまでもなく、二人はかなりのピッチでビールを煽り、チェイサーとして焼酎を頼み、飲み比べを始めてしまっている。


「う……」


 千恵から渡された紙ナプキンで涙を拭い、鼻をかむ夕希。その背中を、鈴子が撫でた。


「こ、こんな風にして貰った事、なかったから……」


 今まで――


 人と一緒に、食事に行った事などなかった。少なくとも、誰かが自分の為に、こうした機会を設けてくれた事は、ない。皆でご飯を食べに行っても、自分は決して相手にされなかった。


 友達がいないからだ。

 友達がいないから、喋る相手がいない。

 喋らないから、昏い人間だと思われる。

 昏い人間だから、友達が出来ない。


 だから、こうやって、常に気に掛けてくれる誰かが傍にいてくれるのが、嬉しかった。


 千恵が、真剣ルールでの稽古を提案した理由も、分かっている。それが、強くなる方法だからだ。ガチでやれば、それは怖い。怖いけれども、その怖さを克服する事で、勇気が付く。夕希が空手を始めた理由は、他の誰かに怯えない事、恐怖の影に惑わない事であった。その為に、勇気が必要であった。


「ありがとう御座います……」


 夕希は言った。


「ありがとう御座います」

「ありがとう御座います」

「ありがとう御座います……!」


 何度も重ねて礼を言う夕希の頭を、千恵が撫でた。千恵は、夕希の肩に腕を回して、顔を寄せた。ぷにぷにとした夕希の頬に伝った涙が、千恵の頬も等しく濡らす。


「強くなろうね」


 千恵が囁いた。


「押忍――」


 夕希が、強く頷いた。

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