パート4

 力神会女子部に通うようになってから、夕希の生活は随分と変わった。


 体力作りの為に、朝は早く起きて、ウォーキングをする事になった。少しの距離を歩き、その距離を段々と増やしてゆき、ランニングに移行する準備をした。


 食事もバランスを考慮して欲しいと、家族に頼むようになった。今までは好きなものを好きなだけ食べるという食生活であったのを、栄養バランスをきちんと整えて、嫌いなものでも食べ、余計な間食などを控える心算であった。自分よりもしっかりしているが嫌いなものは多い妹は、


“お姉ちゃんの所為で、私までピーマン食べなくちゃいけないよぅ”


などと嘆いている。


 空手を始める、その為にバイトをする――つまり、学業に使う時間を減らすという事なので、成績を落としてはいけないという約束も、両親とした。家では集中して勉強が出来ないので、早起きと早めの食事をして、周りよりも早く登校し、始業前に教室で予習や復習をする事も決めた。


 放課後はアルバイトをする。週四日、夕方から夜に掛けて、千恵も働いているコンビニでの事だ。


 稽古は、水曜日の夜と、土曜日の午前中か午後の、週に二回。バイトのシフトは、それに合わせて入れており、日曜日はゆっくり身体を休める事にしている。


 大雑把ではあるが、こうしたスケジュールを組んだ事を千恵に報告すると、


「日曜は身体を休めるって言うけど、お友達と出掛けたりしないの?」


 と、言われたので、


「私、そういう友達いないので平気です!」


 と、平然と答えた。何故か、千恵には哀しそうな顔をされてしまった。


 中学のいつ頃からか、日曜日は一日中ごろ寝をしながら、撮り溜めていた深夜アニメを消化するというのが習慣付いていた為、そもそも友達と外出するという事がいまいち分からなかった夕希であった。そんななものは、アニメや漫画の世界にしか存在しないとさえ思っている。


 それはそうと――


 早速、次の土曜日から、夕希は力神会女子部に通う事になったのである。





 土曜日、午前中。


 夕希は、初めて空手衣に袖を通した。下ろし立ての真っ白い道衣を、同じように白く、まだ硬さの残る帯で留めている。体育で柔道衣を着た事があるが、あちらよりも生地が薄かった。柔道は掴んで投げるという競技の特性上、試合中に衣が破れては困る。空手は打撃がメインで、ルールによっては相手を掴む事が出来ないので、動きを邪魔しない薄さが必要になって来るのである。


 この日の稽古に参加したのは、夕希を含めて一二人であった。

 指導員は千恵の他に二人おり、大学生の多田ただ絵梨佳えりか、普段は市内のデパートで働いている香坂こうさか真澄ますみ


 門弟側は、緑帯が三人。

 何れも高校生で、曽田そだ鈴子りんこ三春みはるあやね、西野にしのさき


 蒼帯が、同じ通りでやっているヨガ教室のインストラクターの矢切やぎり涼子りょうこと、小学生の安住あずみマリー。


 オレンジ帯の綾瀬あやせ智香ともかいずみ加代子かよこは同時期に入った中学生だ。


 夕希よりも少し早く入った稲野辺いなのべまりは、健康の為に空手を始めた主婦である。


 一〇時から稽古開始であるから、その三〇分から五分前にやって来て、それぞれストレッチをする。身体を温めてほぐす事で、激しい運動の中で怪我を防止する事にもなる。武道・格闘技、こと、打撃系にあっては、身体の柔軟性というのはかなり重要だ。


 夕希は開始二〇分前にやって来て、下半身を重点的にストレッチした。中学の頃は、子供会でやっていた時よりもバスケをやるような事はなかった。殆ど家でアニメを見て過ごしたようなものであり、足腰はだいぶ鈍っている。朝のランニングを始めたばかりだが、すぐに筋肉痛に襲われてしまった。


 そうしている内に人が集まって来て、稽古が始まった。各自のストレッチに加えて、準備運動をやり、整列して基本稽古を行なう。


 基本稽古は、技や立ち方の確認である。三戦立ちでの、突きや手刀技、受け、組み手の構えでの蹴り技などをやる。


 移動稽古は、前屈立ちからの突きを二つ、最後に蹴りというコンビネーションの練習だ。


 ミット打ちは、ペアになって、片方がミットを構え、そこに向かって適切な技を打ち込む。両腕に填めたミットを胸の前で合わせていたら、突きや前蹴り。胴体や頭の横にやっていたら中段・上段の回し蹴り、太腿に当てていればローキック、これは内股への蹴りもある。又、一発ごとにミットの場所を変えて、実際の試合で使えるように、連続した打撃練習もやる。


 休憩を挟みながらでなければ、これだけで壊れてしまいそうであった。


 元から運動神経が悪い方ではないが、鈍り切っていた身体は、基本稽古だけでばらばらになりそうだ。


 拳を打ち出す際の、足から拳に至る螺旋の動きが、全身をねじ切りそうになるのである。手刀はたんに指を揃えるのではなく、猫の手のように指の先端に角度を付けるであるとか、前蹴りの際に中足を返す事であるとか、そうした細かい点にも気を配らねばならなかった。上段への回し蹴り、所謂、ハイキックなどは足を高く上げるのに、勢いを付け過ぎてしまうと股関節から引き千切られそうになったが、ゆるゆると持ち上げていると周りに遅れてしまう。


 今日が、初めての稽古だから。

 夕希は、初心者だから。


 少しなりともそれに関する配慮はあるものの、そういう事は通じない。皆で、足並みを揃えて、同じ事をやる。そうした中で、経歴の浅い者は先達から学び取り、帯の色が濃い者たちは後輩たちの姿を見て初心を忘れまいとする。


 健康の為、身体作りの為、こういった目的の者も、本気で強くなりたいという者も、同じ事をやる。同じ量をこなす。同じだけのエネルギーを使う。このエネルギーが、気合となって迸り、夕希の全身に圧し掛かって来る。これに敗けないよう、夕希も腹の底からパワーを引き摺り出して、突きの一本、蹴りの一本に真剣に打ち込んだ。


 ミット打ちが一通り終わって、休憩に入る。その時に、


「次は組み手をやるから、準備して」


 と、千恵から指示を受けた。準備というのは、手と足に付けるサポーターの事である。組み手の稽古では、頭部を保護するヘッドギアやスーパーセーフ、ボディプロテクターなどは、余り使わない。最低限の装備で行なう。


「押忍」


 指導員や先輩からの指示には、“はい”や”いいえ”ではなく、“押忍”を使う。相手が年下でも、帯の色が上、つまり、経歴が長い相手であれば“押忍”と答える。それがどんなに理不尽な注意であっても、“押忍”と答える。流石は力神会、女子部であっても、この教えは徹底されていた。


 夕希は、長くはない休憩の間に、水分を補給し、マッサージをし、サポーターを用意した。


 拳サポーターは、親指、人差し指と中指、薬指と小指が出る三つの口があり、拳を作った時に拳頭を保護する分厚いクッションが膨らんでいる。

 脛サポーターは、脛から足首までと、足の甲の二つの部分からなり、爪先と踵が露出している。相手を怪我させない為の装備であるが、正しい技の打ち方をしなくては、こちらが足の指などを壊してしまう。


「夕希――」


 と、股割りをやっていた夕希に、千恵が話し掛けて来た。普段は“夕希ちゃん”と呼ぶが、稽古の時は呼び捨てだ。


「は……押忍」


“はい”と言い掛けて、直す。立ち上がろうとしたのを制して、千恵が言った。


「どう、調子は。何処かしんどい所とか」

「押忍。きつくない所はないですけれど、大丈夫です」

「へぇ……」

「――」

「言うねぇ……」


 にやりと、千恵が笑った。

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