パート3
入門申込書を貰って、その日は家に帰った。
両親にその事を相談すると、少しばかり渋るような表情を見せたが、今まで主体性のなかった夕希が、自分から何かをやりたいと言い出した事を嬉しく思っている様子もあった。
入門費や月謝、道衣、それと保険などについての話では、最初の一ヶ月の月謝は出してくれるという事であった。道衣については、夕希が両親から金を借りるという形になる。アルバイトを始め、そこから後々掛かる費用を工面するという事で、話は決着した。
妹にその事を話すと、とても驚かれた。夕希が自分で言い出したという事もそうだが、しかもそれが、空手であるというのだからだ。その上、人付き合いが苦手で下手な、それ所か人嫌いを公言さえしている夕希が、アルバイトまで始めるというのである。高校デビューを逃したストレスで、気でも狂ったのかなどと言われてしまった。
アルバイトについては不安であったが、千恵も働いているコンビニに面接を受けにゆく事になっている。千恵がいれば、少しは安心であった。
では、空手の方はどうか。こちらにも、かなり不安がある。肉体を危機に晒すという事で、そちらの方面での不安は、バイトを始める事よりも大きかった。けれども、その目的とする所は、アルバイトを始める理由よりも、ずっと高い所にあった。月謝を稼ぐよりも、夕希自身の意思がはっきりとしていた。だから、感じている不安よりも、その目標へ向かって歩き始めた高揚感の方が、強かったのである。
それに、もう一つ、夕希の心を昂らせる理由があった。
力神会への入門を決意した夕希に、その帰り道、千恵は、
「そう言えば、どうして、空手をやろうと思ったの?」
と、訊いた。
「いや、この訊き方は変だな。えーと、つまり、その」
千恵が聞きたいのは、空手をやれば、カリナに怯えないようになるのか――この問いが、夕希の口から出た理由だ。それは確かに、千恵が空手をやっているからだ、と、答えた為であるかもしれない。しかし、そう答えた時、夕希は空手というワードに、少し大きな反応を見せていた。
「テレビを、観たんです」
「テレビ?」
「『Fighting Dreamer』っていう……」
「……成程」
千恵は、それで納得がいった様子であった。
「真橘だね?」
「知っているんですか?」
「そりゃ、空手を……しかも、この町でやっていればね」
それもそうか、と、夕希は思う。テレビの画面越しにしかその姿を見た事はなかった。その名前すらも初めて知った。だからなのか、地元の光景がテレビに映っていても、すぐにそれとは気付かなかったのである。番組で真橘に密着取材を行なっていた時、彼女が生活していたのは、紛れもなくこの町であった。
「中学では部活も一緒だったしね」
「部活?」
「空手部さ。これでも三年間、あの子と一緒だったんだ」
「――」
「それに、私が、君にああ言う事が出来たのは、あの子のお陰……」
「先輩?」
千恵の声の調子が変わったのに、夕希が怪訝そうな顔をした。千恵の声は少し沈み、眼付きが険しくなっている。
「いや、あの子の所為だな」
「所為?」
「あの子、少し変なんだ」
「変……ですか」
「うん。あの子、他の子たちとは違う意識で、空手をやっていた」
「違う意識というと?」
「強くなる……」
「――」
「そういう事に対する執着が、異常だった。独りで稽古をやっていると、限界まで自分を苛め抜いてた。全身がぼろぼろになるまで、補強トレーニングも、サンドバッグ打ちも続けた。ぼろぼろになっても、やめなかった。まるで、自分をぶっ壊そうとするかのように……」
「――」
「それだけじゃないよ。組み手をやる時、あの子は、いつだって相手を殺す心算でやる」
「殺す⁉」
「勿論、本当に殺したりなんかしないよ。危ない技は使わない。でも、あの子を眼の前にすると、私だけじゃない、皆……老若男女問わずって奴かな、誰もが、自分を殺そうとしていると思うんだ。殺される……ってね」
「――」
「武道っていうのは、武術を以て人道を為す事だと、私は思っているよ」
「人道ですか」
「うん。例えば、私は人よりも強い。私は普段から人を殴ったり、蹴ったりする為の練習をしてるんだよ。で、同じくらい、人に殴られたり、蹴られたりしている。だから、人を殴る事、人に蹴られる事、そういうものの痛みとか、怖さという者を、そういう経験がない人たちより、ずっと知ってるんだ」
「……だから、人に優しくなれる、ですか」
人に優しく――誰だって教えられる、当たり前の事だ。
「辛い稽古をやり遂げる事で、他の苦痛を乗り越えられるようになる。いや、乗り越え得る精神を手に入れる事が出来る。それに、身体を鍛えていれば、病気にもなり難いし、健康でいられる時期も増える」
そうした目的で、格闘技を習い始める者も多い。
人に優しく、社会に貢献し、健康に生きる。理想的な人間のあり方であろう。
「それが、人道ですか」
「私はそう思う。その為に、武術を使っているんだ」
「武術……」
「人を殺す術さ。武器を扱う術だからね」
「それを、道徳教育の為に使うから、武道?」
「お、道徳教育か。良いね、それ」
「――」
「そう、特に空手と柔道は、そういうものだな」
空手の起源は琉球にある。琉球に元から存在していた素手の護身術が、中国拳法と合体して唐手が生まれ、これが大正の頃に船越義珍によって本土に持ち込まれて、空手となった。
この空手は、体育の一環として教育に組み込まれる予定であった。体育とは、つまり、少年少女の肉体と精神の育成である。
又、現在言われている柔道とは、明治時代に嘉納治五郎が設立した講道館柔道の事である。別名、嘉納流柔術とも呼ばれるこの柔道は、起倒流・天神真陽流の各柔術を学んだ嘉納治五郎が、欧米列強の文化を取り込んでゆく事で消滅しそうになっていた日本人の伝統や精神を起こす為に興したものだ。
嘉納治五郎は、東京大学で教鞭を振るう学士でもあったから、若者たちの教育という側面も、この柔道にはあったのである。
「それが、世間で思われている武道」
「世間で思われている?」
「真橘は、そうじゃないんだ。あの子は、武道を、
「たたかう……道」
「それ自体を否定する気はないよ。素手であろうと、刀とか槍を持っていようと、それは変わらない。戦う為に発展して来た技術だからね。真橘の言っている事は正しい。正しいけれど、正しい事が絶対に受け入れられる訳じゃない」
「――」
「その時代、その場所、その人たちの価値観によって、受け入れられる事は変わる。人を殺してはいけないという法律がある国では殺人は犯罪だ。でも人を殺しても何も罰せられない場所、そもそも法律なんてものが存在しない場所では、日本が禁じている事なんて一つだって通用しない。こっちが殴りにいかないからって、向こうも殴って来ないなんて事はないように」
「――」
「身体を売る事でしか生きていけない人がいるとして、それを風潮や法律で禁じてしまったら、その人に死ねと言っているのも同義だ」
「――」
「真橘の言っているのはそういう事だね。今の時代じゃ受け入れ難い価値観。だから、あの子は爪弾きにされる。変だと言われる。……ああ、一応言って置けば、別に真橘は、人を殺したいなんて思っている訳じゃないよ。ただ、最悪の場合、そうした事も頭の中に入れて置かなくちゃいけないって、あの子は言ってるんだ」
「最悪の場合?」
「自分が殺されそうになった時」
「――」
「そんな場面に出くわして、逃げられない理由があった時、こっちが死ぬまで相手が殺そうとして来る時、そういう最悪の場合、他に何の手段もない場合……」
「その時は……」
「そういう事だね」
千恵は、それ以上は言わなかった。夕希も、その先を口に出す事はしなかった。
「それで」
と、夕希が話題を変える。
「ん――」
「東堂さんの、所為だって言ってましたけど」
「ああ、それは、私も真橘に共感したって事だよ。さっきから、真橘の考えは受け入れられないとか何とか言ってても、私はそんな真橘に憧れちゃったんだ」
千恵の耳が、赤くなっている。まるで、恋人とベッドの上で交わした睦言を他人に自慢するかのように、千恵の表情がふやけていた。鼻の頭を指で掻いている。
「だから、あの子の所為だし、あの子のお陰」
「佐藤先輩みたいな人を、怖がらなくなった事、ですか」
「うん。怖くたって、空手をやってる人間なら、乗り越えなくちゃって思うようになってしまった事、さ」
本当、良い迷惑だよ――そう言いながらも、千恵は楽しそうな表情であった。やはり、同級生の真橘の事を、夕希に自慢しているような所が、彼女自身にもあるようだった。惚気話と言って差し支えないが、他の人間からされるのと違って、夕希は千恵に対して不快ではなかった。
「で、そうそう……」
千恵は、自分の顔が緩んでいるのに気付いたのだろう、咳払いを一つすると共に、話を戻した。
「その真橘だけど、時々、こっちにも顔を出してくれるんだ」
「こっちって、力神会の……」
「うん。真橘はそういう子だからさ、護身術みたいなのも、良く知ってるんだ。それを、教えに来てくれてる」
空手をやっているとは言え、千恵たちが指導しているのは、彼女も含めて女性である。まだ小さな子供もいる。彼女らが学んでいるのが武道であると言っても、空手は、打撃メイン……つまり、体重が重要になって来る。町で、体躯で勝る暴漢に襲われた時、的確な急所に、冷静に打撃出来るならば兎も角、そうした事が出来なければ、女子供のパンチや蹴りでは殆ど対抗する事が出来ない。そうした場合を見越して、他の武道や格闘技を学ぶ中で吸収していった、身を守る術を、真橘は偶に教えに来てくれるのだ。
「そういう時に、会えると良いね」
と、千恵は言った。
この事が、夕希が千恵の許に通う理由の、後押しともなったのである。
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