パート2

 佐倉高校からそう遠くない場所に、市の運動公園がある。陸上競技場や大きな体育館などがあり、地元民の散歩コースとしても利用されている。


 夕希が千恵に連れて来られたのは、体育館の中の、小さめのアリーナであった。そこには、十数名の女性が集まって、ストレッチなどをしている。


「力神会の女子部だよ」


 千恵はそう説明した。


 力神会はフルコンタクトの空手の流派の一つで、戦後の、比較的早い段階から寸止めの試合体系に異を唱え、実戦を重視した稽古を提唱していた団体だ。


東京に本部がある力神会の、市内にある地方支部とは別に、女子部員だけで行なっている稽古であった。この時間に、このサブアリーナを借りて行なっている。契約期間が更新されるまでは、サンドバッグやキックミットなどの備品を、置いたままで良い事になっていた。


「えっと……」

「まぁ、取り敢えず、見学くらいはして行きなよ」


 千恵はそう言うと、更衣室に引っ込んでゆき、暫くして空手衣姿で戻って来た。帯の色は黒であり、他の黒帯や茶帯の門弟と、それ以下の帯の指導に当たる。


 夕希はサブアリーナの隅に正座し――辛ければ脚を崩しても良いと言われた――、その稽古を見てゆく事となった。


 門弟たちは女性ばかりである。上は三〇代から、下は小学生低学年までいる。準備体操をしている時や、休憩時間などには、仲良さげに談笑したりもするが、稽古の時は真剣そのものの表情で、鬼気迫るものさえあった。


 技の確認をやる、基本稽古。

 一定の動作を反復する、移動稽古。

 型を幾つかやった。

 ミット打ちを、ペアを交換しながらやる。

 最後に、組み手をした。

 サポーターを付けて、互いに、実際にパンチや蹴りを当て合う。


 肉が肉を叩く音と、強い気合の声が、アリーナの中に響き渡っていた。その振動が、夕希の身体に染み渡って来た。湿り気を帯びた空気が身体に張り付き、沸々と沸き上がって来る熱を感じている。


 一時間ちょっとで、稽古が一通り終わった。稽古が終わったら、掃除をする。その後は、すぐに帰る者もあれば、マッサージをしたり、居残って各自で型の確認や、サンドバッグを叩いたりする。


 千恵が、門弟たちに少し指導をした後で、夕希の傍へやって来る。


「どうだった?」


 と、問われて、夕希は、


「凄かったです」


 と、答えた。


「凄い?」

「はい。私だったら、出来ません」


 組み手の事だ。サポーターや、場合によってはプロテクターを装着すると言っても、実際に殴り合い、蹴り合うのである。


 バスケでも、ボールを取り合ってぶつかり合ったり、顔や身体にボールが当たったりする事はあるが、基本的にわざとではない。それが目的ではない。ボールを取る、相手を抜くという目的の中で、自然と生じてしまう動きであった。


 だが、組み手の場合は、最初から相手を殴る目的で相手を殴り、相手を蹴る目的で相手を蹴る。他のスポーツのような、目的を仲介して跳ね返って来る敵意と違って、直接的な感情が真正面からぶつかって来るのであった。


 そういう事が、自分には出来ない。

 自分に出来ない事を出来る人たちは、凄い。

 それが、


「凄かったです……」


 そういう感想になった。


 千恵は、腕を組んで、ふぅむ、と、頷き、


「そういう考え方もあるか」


 と、言った。そして、


「でも――」

「でも?」

「私だって、最初は無理だって思ったよ」

「先輩も?」

「うん。あんな風に、ぼこぼこに殴り合うなんて、絶対、無理ってね」

「それは……」


 それは、つまり。

 自分にも、出来るようになると、そういう事を言いたいのであろうか。


 だが、それは、先程の千恵自身の言動と矛盾する。夕希は、空手をやれば、カリナを恐れずに済むかと問い、千恵は、自分はそうであったかもしれないが、夕希が同じ結果になるかどうかは分からないと答えている。


「そうだな……んー……」


 千恵は、夕希のそうした心情も読んだ上で、このように言い始めた。


「因果……」

「いんが?」

「うん。因果応報。知ってる?」

「言葉だけなら……自業自得みたいな、意味でしたっけ」

「そう。どっちにしても、一般的に言う程、悪い意味ばかりじゃないけどね」

「――」

「悪い事をすれば悪い報い、良い事をすれば良い報い、そういう事を全て合わせて、因果応報とか、自業自得っていうんだけどね」


 どちらも、仏教の言葉である。因果とは、原因と結果の事だ。カルマとは、サンスクリット語で行為を意味する言葉だ。つまり、行為カルマを原因とした結果を得る事を、因果応報・自業自得というのである。


「例えば、歩く事だな」

「歩く?」

「私や、君が、普通にやっている、歩くという行為。ここからそこまで、ちょっと歩くというこれだけの行為にも、因果がある」

「それは?」


 夕希に問われて、千恵は、その場から数歩、歩いてみせた。


「この場合、そこからここまで移動した……歩いたという結果が生まれた。それは、そこからここまで歩いたからだ」

「う、うん……?」

「つまり、歩くという行為があったから、歩いたという結果が生まれたんだ」

「――」

「歩かなければ、歩いたという結果は生まれない。これは、分かるね」

「はい」

「これが、因果論さ」

「――」

「更に言えば、歩いたという結果の前段階……歩くという行為にも、因果がある」

「はぁ……」

「この場合の原因いんは、歩こうという意思だ。歩こうと思う事、これが、歩くという行為の因になる」

「はい」

「歩こうという思考が、電気信号となって神経を巡り、運動器官に辿り着く。そうして、足が動く事になる。それが、歩くという事」

「――」

「もっと言うのなら、それ以上に細分化する事だって出来る。歩くと思うから、脳から指令が発せられる。脳から指令が発せられたから、電気信号が神経を巡る。電気信号が神経を巡るから、運動器官に指令が辿り着く。指令が辿り着いたから、運動器官が動く……で、その前に遡ってみれば、何の為に歩くのか。何の為に歩こうと思ったのか。そういう所にまで、因果が発生している」

「――」

「まぁ、要するに……最初の因を起こさなければ、果は絶対に巡って来ないって事だよ」


 千恵は言った。

 彼女の発言に、矛盾などなかった事を、夕希は理解する。


 カリナに怯えなくて済むようになりたい――夕希はそう言った。空手を学ぶようになれば、千恵のようになれるかと、そう思ったのである。


 千恵の答えは、分からないというものであった。これは、夕希が彼女自身の望むようにはなれないと、否定した訳ではない。少なくとも、夕希が、カリナに対する恐怖を失くそうとしなければ、夕希は彼女自身の望みを叶えられない。空手によってそれが為せると考えているのなら、先ずは、空手を始めてみなければ、絶対に叶わない事である。


 思うような結果が出るかは、千恵には分からない。当然、夕希にだって分からない。だが、結果の為には原因が必要なのだ。夕希が、カリナへの恐怖を和らげる、或いは、カリナを恐れる自分を克己するには、その為の行動を起こさねばならないのだ。


 自分から動かねば、どのような結果だってやって来ない。報いがあるとするのならば、それは、自分から動こうとしなかったという、それに対するものだけである。


「勿論、無理にとは、言わないよ。別に、私は君を追い込んでる訳じゃない」


 千恵は言う。自分の言葉が、空手を始めよと、強制しているように聞こえているかもしれないからだ。そうではないという事をきちんと言って置かねば、夕希が空手を始める理由が、夕希自身が望んだからではなく、千恵に言われたからという事になってしまう。


「先輩……」


 夕希は、千恵を見上げた。視界の真ん中に捉えた千恵の姿が、歪んだ。又、泣いていた。今日は、一日中、泣いてばかりであった。


 どうしてこんなに涙が溢れるのか。

 どうして、涙が枯れる事なくこぼれて来るのか。


 それはきっと、胸が高鳴っているからだ。心臓が飛び出しそうな程、激しく鼓動しているからだ。生命のポンプに押し出された熱血が、眼の奥から滾々と迸っているのである。


「私、強くなりたいです……」


 夕希は言った。


「私、強くなりたいです!」

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