ありがとう……御座います

パート1


 近くのファミリーレストランに入った。ドリンクバーを二人分、それと、千恵は夕食だと言ってステーキハンバーグ定食を頼んだ。どうにか泣きやんだ夕希を席に座らせ、千恵が、自分のオレンジジュースと、夕希の烏龍茶を持って来る。


「落ち着いた?」


 千恵に訊かれて、夕希は頷いた。烏龍茶のグラスに口を付けた。


 千恵は、それ以上は何も言わなかった。何を訊く事もしなかった。食べ物がやって来るまではドリンクを飲み、スマフォをいじったりしていた。頼んだ料理がやって来ると、「頂ます」と手を合わせて、早速食べ始めた。

 熱々の鉄板に、分厚い肉の塊と、添え物のジャガイモ、ニンジンのグラッセ、アスパラガスが載っている。それとは別の器に入ったおろしソースを全体に振り掛けると、鉄板の熱で、じゅわぁ、と、音を立てて広がった。先にフォークとナイフで切り分け、割り箸を使って、ご飯と一緒に食べた。

 食べ終えると、もう一度メニューを開いて、デザートに冷たいケーキを頼んだ。夕希の眼の前にも、もう一つ、同じものが出て来たので、夕希もそれを食べた。


「ご馳走さまでした」


 夕希が頭を下げた。


「いーえ」


 千恵はナプキンで口を拭いた。


「所で、どうして、あんな所にいたの?」

「――」


 “いた”事よりも、あそこで泣いていた理由の方が、千恵には気になっていたのだろう。あそこが、瑞穂がカリナに鼻を折られた場所である事を、千恵は知らない筈である。その光景を夕希が見ていた事も知る由もない。だが、仮に知っていたとしても、あの場所で夕希が涙を流している理由が、分かる訳もなかった。


「まぁ、話したくないってんなら、無理に訊く心算はないけど――」

「――」

「でも、話したいって、そういう顔だよ……」

「え――」

「誰かに話を聞いて欲しい。今まで我慢して来た色々を吐き出したい……君より一年ばかり長く生きてるだけだけど、そんな私でもわかるくらい、しんどい顔してるよ」


 夕希を真っ直ぐに見つめて、千恵は言った。夕希にとって、そこまで踏み込んで来ようとする相手は初めてであった。しかも、単にこちらの内側に土足で上がり込んで来ようというのではない。夕希の事を思って、千恵は、夕希の心の扉をノックしていた。


 実際、吐き出したい思いを孕んでいるのは、その通りであった。今まで、そうした経験がなかったので、夕希は戸惑っていた。腹の底に蓄えて来た思いを、誰かの前に素直に曝け出せた事が、夕希にはなかったのである。


「さ、お姉さんに話してご覧。……っと、そう言えば、名前、知らなかったな。私は朝香千恵、君は?」

「ほ……星沢夕希、です」


 考えてみれば、どれだけ長い間、こんなやり取りをしないでいたのだろうか。最後に自分のフルネームを誰かに伝えたのは、一体いつ振りであったか。きちんと言えたかどうかが不安になってしまうくらいには、久し振りの行為であった。


「夕希ちゃんか」

「はい」

「それじゃ、夕希ちゃん。千恵お姉さんに、なぁんでも相談してご覧よ」


 微笑みと共に千恵は言う。実際に妹がいるのだろうか、年下をあやすのに慣れているようであった。夕希にも妹がいるが、妹の方が明るくてしっかりしているので、自分が姉らしい事を出来ているとは思えない。


 しかし、思わず言葉を吐き出しそうになるも、何を言うかは選ばなければならない。瑞穂の事を彼女に伝えれば、そこからどう巡ってカリナに行き付くか。千恵がカリナに対して瑞穂の事を訴えにゆけば、では、何処からその情報を手に入れたかとなる。今日のやり取りから、瑞穂自身が千恵に告げたと思うだろう。そうなれば、瑞穂に迷惑が掛かる。そうではないルートから調べられれば、最後には、夕希に辿り着いてしまう。


 少なくとも、瑞穂の事を、この場で話す事は出来ない。

 それに――聞いて欲しい事とは、実はこの事ではない。


「朝香先輩……」


 ゆっくりと、夕希は唇を震わせた。人の名前を呼ぶ、これも、随分と懐かしい感覚だ。


「ん……」


 千恵は千恵で、夕希が瑞穂について何か知っていると考えていた。だから、夕希が何か言いたい、けれども言い出せない事があるなら、それは瑞穂と、カリナの問題であるように思っていた。その為、夕希から出て来た言葉に、千恵は少し面食らったようである。


「先輩は、その、どうして、あの人の前で、あんな態度が採れたんですか」

「え?」

「さ、佐藤さんの事です……」

「カリナの前で?」

「はい」


 千恵は、カリナがやくざと繋がっている事を知っていた。夕希と瑞穂に、出来るならカリナとは関わらないようにと忠告もしている。それなのに自分自身は、佐藤カリナに対して臆す事なく、瑞穂への嫌がらせをやめるように、堂々と諫言していた。


 想像と違ったその質問に、千恵は、こめかみの辺りを指で掻きながら、


「別に、怖いって訳じゃないし」

「それは、何故ですか」

「何でって言われてもなぁ……」


 夕希から眼を逸らす千恵。その、一瞬外した視線を戻せば、夕希は、自分が夕希を見据えていた時以上に、身さえ乗り出して、千恵の言葉を待っている。冗談や酔狂で訊いているのではないらしかった。


「そうだな……敢えて理由を上げるなら、私が空手をやっているからかな」

「空手を⁉」

「うん。だから、私は、周りよりは多少強いって自負してる。それで、私は強い人間だから、他の人たちが怖がるような人たちでも、怖がっちゃいけない……そう思っているよ。だからって、やくざ相手に喧嘩を売ろうなんて事は考えてないけどね。そもそも、カリナが幾らそっちの人たちと繋がってたって、あの程度のやり取り、子供の喧嘩に出て来るようじゃ、任侠としても終わってるからね」

「――」

「そんな答えで、どうかな」

「――」


 夕希は、千恵の言葉を慎重に呑み込んでから、


「私も……」

「え?」

「私も、空手をやれば、先輩みたいになれますか」

「――」

「私も、空手をやれば、先輩みたいに、あの人を怖がらなくても済むようになりますか⁉」


 血を吐くように、夕希は言った。


「――」


 千恵は、それまで手を付けていなかったお冷のグラスを持ち上げた。氷は殆ど溶けて、口の中に滑り込めば自然と砕けてしまう大きさになっている。グラスの表面の結露で濡れた手を、服の裾で拭いた。


「それについて、私は、人に言う事は出来ないよ」

「――」

「私は、空手をやっているから、強くなった。強くなれたと思ってる。でも、他の人間全てがそうだとは、悪いけど、言う事が出来ない。君が空手を始めたからって、それでどうなるかなんて、私にはっきり言う事は出来ないよ」

「そう、ですか」


 夕希の声が、幾らかトーンを落とした。分かっている事である。例え、拳銃を握っていたとしても、カリナの背後にあるものを考えてしまえば、カリナの事は怖い。ましてや、空手とは素手の格闘技である。少し通えば思う通りの自分に変身出来る魔法などではない。


 それを分かってはいたが、それでも、千恵の口から、自分の質問を肯定して欲しい気持ちはあった。


 夕希は、深呼吸を三回程やって、視線を上げた。自分の言葉を真剣に考えてくれて、その返答に対する反応を待ってくれている千恵が、そこにいるのだ。


「ありがとう御座いました」


 夕希は、そうとだけ言った。これ以上にない答えを、夕希は千恵から送られたのだ。明確な答えは、本人の望むものであろうと、なかろうと、人間をすっきりとさせてくれる。それが出来ない人間を敢えて否定する必要はないが、この場合は、千恵のこのやり方が、夕希にとってありがたかった。


 グラスに残った烏龍茶を飲み干し、席を立つ。財布を取り出して、レジに向かおうとした。


「でも……」


 そこで、千恵が言った。


「結局、それは、やってみなくちゃ分からない事なんだよねぇ」

「――」

「夕希ちゃん、今日、これから時間ある?」

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