パート4

 カリナが振り向いた。彼女と同じリボンの女子生徒が、カリナの後ろに立っている。夕希が見た、空手部の生徒だ。


……」

「そ、朝香あさかの千恵さんだよ」


 朝香千恵はブレザーのポケットに手を突っ込んで、カリナを真っ直ぐ見据えている。


「何の用?」

「用って程じゃないけど、同じ中学おなちゅうのよしみで忠告したげる。下級生を虐めるなんて、格好悪いよ」

「虐め? あははっ、勘違いしないでよ。私は、この子の事を心配して上げたの」

「心配?」

「ほら、見てよ。昨日、転んじゃったらしくてさ。かわいそーでしょ、こんなに可愛いのにさぁ」

「……本当?」


 千恵が、瑞穂に訊いた。瑞穂が、小さく頷いた。


「本当です……」

「ね?」


 瑞穂と肩を組んで、カリナ。こうして見ると、外見は確かにが、気の良い先輩というようにしか見えない。女の口は嘘を吐くとは良く言ったものだ。


「はい」


 瑞穂が苦笑いを浮かべた。表情筋の運動で、鼻が少し痛むらしく、顔を歪めてみせる。


「そう……」


 千恵は、一〇〇パーセント納得した風には見えなかったが、渋々と顎を引いた。


「じゃ、これからは、誤解されないようにしてね」

「誤解も何も、あんたが勝手に勘違いしただけじゃんか」

「私でも勘違いするくらいだからね、他の人が見たら、どうかな」

「疑り深いなァ、あんた。嫌われるよ?」


 呆れたように息を吐いて、カリナは瑞穂から離れてゆく。千恵とすれ違いながら、瑞穂の方を振り向き、


「じゃ、、瑞穂ちゃん」


 と、手を振って、歩いて行った。


 そのカリナを見送り、千恵が、瑞穂に歩み寄る。瑞穂は、まだ千恵がカリナを疑っている事を知っている。その疑いを真実にする為に、千恵が自分に声を掛けようとしているのを察して、


「本当です。本当に転んだんです。佐藤先輩は関係ありません」


 と、涙ながらに訴えた。


「わ、分かった。分かってるよ……」


 困ったように、千恵が瑞穂を窘めた。カリナが何かをしたのかは確定だ。けれども、それをこの場ではっきりとさせてしまうのは、瑞穂にこれ以上の危害が加えられる可能性が増すばかりであった。


 瑞穂から話を聞くのを諦めた千恵が、視線を別の所に移した。その視線を、夕希は真っ直ぐに受け止めてしまう事になった。


「ご、ゴミ……」


 片手に持ったゴミ袋を持ち上げて、どうにか言葉を見付けようとした。声が震えている。今のを見ていた事は、もう、ばれてしまっているだろう。


「捨てに来たんです」


 夕希は素早くゴミを指定の場所に放った。そうして、顔を伏せている瑞穂に、


「大丈夫ですか?」


 と、言ってしまった。鼻の傷の事だ。瑞穂が驚いて顔を上げる。その眼に、若しかしたら、という光が宿ったのを、夕希は見逃さなかった。その光が自分に注がれる前に、この場から消えねばならなかった。踵を返す。その背に、


「待って」


 と、千恵が言った。足を止めて、恐る恐る振り向いた。この人は悪い事なんか何もしていないのに、どうして、昨晩と同じ感覚に陥っているのだろう。夕希は、額から脂汗が流れそうになるのを感じていた。


「あの子には、余り関わらない方が良いよ」

「え」

「カリナだよ。別に、虐めのお誘いとかじゃなくってさ。あの子、裏で人たちと付き合ってるから、余計なトラブルに巻き込まれたくないなら、それをお勧めするよ」


“こういう”と言った時、千恵は、頬に指を走らせた。今時、そうした職種の人たちの頬に実際に傷があるか否かは別として、昔からやくざのサインであるとされている。


「だから、ま……気を付けて」

「――はい」


 夕希は、千恵に一つ会釈をすると、そそくさと校舎へ戻ってゆく。その歩く速さが、小走りになり、やがて、全力のダッシュへと変わっていた。大きな胸が、ブレザーの下で千切れそうな程に揺れている。その胸の痛みなど気にする事さえ出来ずに、夕希は走っていた。


 目尻から、熱い涙がこぼれていた。





 その夜、何故か夕希は、昨晩、瑞穂がカリナたちに絡まれていた場所に向かった。


 昏いアスファルトの上に、黒い染みが残っている。瑞穂の鼻が折られた時に出たものが、時間が経って固まったものである。


 ふらふらと家を出て、何をするでもなく歩いていると、ここに辿り着いた。どうしてここに来たのか、それは分からない。分からないが、自然と足がここに向いてしまった。そして、ここにやって来てしまったのなら、昨日の事を思い出さずにはいられない。思い出したならば、又、今朝から何度も続いていたあの涙を、這い出させてしまうのであった。


 自分が分からなくなっていた。


 この場所に来る理由も、この場所で涙する理由も。何ならば、今日、学校で瑞穂とカリナを無視し切れなかった理由も、夕希には見出す事が出来ないでいた。


 他人に興味を持てない――夕希は、自分をそう評している。人付き合いが苦手だ。苦手と言うよりも嫌いだ。地味で、大して可愛くもないくせに、胸や尻ばかりが育って、周りにセックスアピールが激しいと思われている。そうした事で嫉妬され、仲間外れにされた事が、何度もあった。夕希は次第に人付き合いを避けるようになり、しても最低限のものだけで、その相手の事を信頼しない、深入りしないようになった。


 人を信頼しないという事は、深入りしないという事は、興味を持たない事だ。その人間に踏み込んでゆかないという事だ。何があっても無視するという事だ。その人に恋人が出来ても受験に成功しても喜ばず、その人の家族が死んでも病気が悪化しても哀しまない。その代わりに、自分が莫迦にされても怒って欲しくはないし、自分が楽しい時に一緒に楽しんで貰わなくたって構わない。


 そう思っていた。

 そうやっているのが、自分、星沢夕希なりの生き方であった。


 その筈なのに、どうして、瑞穂とカリナの事を、気にしてしまうのか。普段の自分なら、瑞穂の傷を心配するような事は言わなかった。あの二人の事など気にせずにゴミを捨てて、すぐに帰っていた。いや、それ所か、瑞穂の為に救急車を呼ぶような事さえしなかっただろう。


 だのに、どうして――


 何かが、ずれているような気がした。自分の中で、歯車が狂っているようであった。星沢夕希という機械が、動作不良を起こしているようであった。身体の中を淡々と巡るだけであった機械油が、涙という形になって漏れ出しているのだ。


「う……」


 嗚咽した。


 昨夜の瑞穂のように、その場に蹲った。自分の身体を抱き締めて、額を地面に擦り付けて、噛み締めた歯の間から熱を漏らした。そうしていなければ、叫び出してしまいそうになっている。この胸を、得体の知れない何かで弾けさせてしまいそうであった。


 すると、その肩に、優しく手が置かれた。身体を起こしてみると、涙で滲んだ視界の中に、朝香千恵の姿が映っていた。


「どうしたの?」


 千恵が訊いた。

 夕希は泣き出した。

 大声で泣き出した。

 訳の分からないものが、次から次へと溢れて来た。


 ――強くなりたい。


 そういう言葉おもいが、夕希の中に浮かんでいた。

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