パート3
翌日、学校へゆくと、瑞穂も登校して来ていた。
「ど、どうしたの、瑞穂⁉」
「木村さん、大丈夫……?」
瑞穂が顔に巻いて来た包帯を見て、早速彼女と仲良くなったらしいクラスメイトが訊いた。
瑞穂は、
「ちょっと転んじゃって」
と、言っていた。
救急車で運ばれてからの事を、夕希は知らない。しかし、特にニュースになるでもなく、瑞穂自身があのように言っている事から、警察沙汰という事にはなっていないようだ。
病院でも転んだと告げた事は、夕希にも分かっていた。あの後で病院から電話が掛かって来て、瑞穂との関係や、何があったのかなどを聞かれたのだ。
夕希は、自分は顔から血を流して蹲っている少女がいたので電話したが、何があったのか、彼女が誰なのかは全く知らない。電話をした時に動揺していたのは、あれだけの量の血を見て驚いてしまったからだ。現場で待っていなかったのは、同じ理由で気分が悪くなってしまったからであると、言って置いた。
それで病院側が納得したかどうかは分からない。若しかしたら、密かに警察に連絡を入れているかもしれない。
夕希は、瑞穂に電話番号を教えても良いかと聞かれたが、その必要はないと言った。それでも、瑞穂がお礼をしたいとでも言ったのならば、もう一度、そうした旨の電話が掛かって来るかもしれなかった。それでも教える心算はない。そんな事を考えないでいてくれる事を、願っていた。
昨日まであった、東堂真橘という少女の事を知った時の熱は、何処かへと消えてしまっていた。
高校デビューなどもう出来ない。そんな事をするには、余りにも昏い場面を、この眼に焼き付けてしまった。なかなかお眼に掛かれるものではない。大の男が、自分と同じ歳の少女を押さえ付けて、鼻を無理やりに引き千切る所など。その時の、繊維が裂け、軟骨がみりみりと剥がされる音など、そうそう聞けるものではない……
「――ぅ……」
気分が悪くなった。あの音が、耳にこびり付いていた。暗闇の中で、赤黒く月光を照り返す血の色が、眼の前にフラッシュバックする。夕希は席を立って、トイレに向かった。個室に入って、何度か、朝食を戻した。ペーストされた食事が、酸っぱい匂いを伴って、白く清潔な便器の中に渦巻いていた。
呼吸が激しかった。胃液の匂いが、口から出て鼻に戻って来る。その内に、鼻の奥が、吐瀉の匂いではなくつんとして来た。涙が出て来た。訳の分からない涙だった。あの血の匂いと、血の色と、残虐な男たちの笑みを思い出して、気分が悪くなるのは分かる。気分が悪いから胃の内容物を吐き出すのも分かる。だが、嘔吐の際に、逆流物で食堂が押し広げられる痛みではないものの所為で、涙が出るのは分からなかった。
何……?
何なの、これ。
腹の中のものを、昨日、吐き出さなかった分まで、出し尽くした。HRのチャイムが鳴っていた。すぐに戻らなくてはいけなかった。
教室に戻ると、まだ、担任の先生は来ていない。今し方、校門を潜ったばかりという生徒も確認出来た。
と、その中でふと夕希の眼を惹いたのは、胸に違う色のリボンを付けている女生徒だ。彼女の顔は知っていた。昨日、空手部に勧誘して来た先輩だ。彼女は、夕希のクラスの入り口の前に、邪魔にならない程度に立って、教室の中を覗き込んでいた。その眼が、鋭い光を放っている。画面の向こうにあった東堂真橘のそれと、何処となく同じような色であった。そこはかとなく、東堂真橘と似たような匂いを、彼女は漂わせていた。
夕希は、廊下の向こうから教師が歩いて来るのが見えたので、すぐに教室に入ろうとした。その時に、あの空手部の上級生とすれ違う事になる。
その一瞬のすれ違いの内に、夕希は、全身に刃を突き立てられたような気分になった。無意識の内に空手少女が放つ鋭利な……言うなれば、気を、夕希は敏感に感じ取っていたのだ。
それに驚いて――全身をなます切りにされたような感覚に戸惑っていた夕希に、担任の教師が声を掛けた。「授業開始初日から遅刻?」冗談っぽく笑う教師に、眼鏡越しに下手糞な愛想笑いを見せて、夕希は教室に入った。
偶然、木村瑞穂が、視界に映る。その顔の中心の包帯の白さが、痛々しかった。
血の匂いが、鼻の粘膜から離れなかった。
放課後になった。一日中、嫌な気分で過ごしていた夕希であったが、誰に心配されるという事もなかった。それが、自分が人と付き合う事が下手であるという事実に起因するものだ。
それはそうとして授業が終わると、クラスの半分は掃除に駆り出される。夕希のクラスは、自分たちの教室、トイレ、中庭の清掃に、一班五人程のグループで赴く事になる。夕希は、最初の一週間、口も利いた事のないクラスメイトたちと共に、中庭に向かうのである。
夕希を含めて女子は三人、男子は二人であった。女子同士は同じ中学出身で、男子の片方は積極的に人に話し掛ける性質であったから、もう一人の男子や、女子二人ともすぐに打ち解けた様子であった。
夕希も声を掛けられ、挨拶ぐらいはしたが、積極性が過ぎる相手というのはどうにも苦手であったので、他の四人のように早くも仲良くなれるという事はなかったのである。
中庭には大きな桜の樹が一本生えており、それを囲むように芝生の広場があって、ぽつぽつとベンチが設置されている。大き目の東屋では、清掃当番から外れた生徒たちが、放課後を駄弁って過ごす場合もある。
地面に落ちた花びらや葉っぱを箒で集め、ビニールのゴミ袋に纏めた。誰かゴミ捨て場に持ってゆくかという話になり、じゃんけんで決める事になった。初めに五人でやって、女子二人がパーを出して抜け、次に夕希と男子の一人が敗けた。男子の方が、「面倒だ」とか、「やりたくねぇ」だとか、ふざけた調子で言うので、
「私、やるよ」
と、夕希がゴミ袋を引っ手繰るようにして、運ぶ事にした。女子の片方が後でジュースを奢ると言ってくれたが、恐らくその“後で”が来る事はないだろう。自分が言い出せば話は別だが、その場の勢いだけの発言を、向こうが憶えているとは考えられなかった。
様子を見に来た担任の先生に、ゴミ捨て場の場所を教えて貰い、そこまで袋を運んだ。同じ班の生徒たちは、夕希がゴミ袋を持って行った時点で、教室に鞄を取りに戻っていた。夕希はゴミ捨て場の場所を知らなかったので、担任の先生がやって来て、漸く教えて貰ったのであった。
そうした訳であるから、自分や他のクラスの生徒たちがゴミ袋を捨てるのとは、タイミング的に大きく遅れてしまった事になる。
そうして、周りより少し遅れてゴミ捨て場にやって来た夕希は、しかし、その途中で足を止めてしまった。ゴミ捨て場の前に、木村瑞穂と、昨日の制服を着崩した少女がいたのである。
「佐藤先輩……」
彼女も、ゴミ袋を捨てに来たのか。怯えた様子で、佐藤に言った。
クラスメイトの噂話を聞いて、後で知った事によると、彼女の名前は佐藤カリナ。援助交際や売春の斡旋をしているというのである。自分は身体を汚す事なく、他の少女たちに男を紹介して、マージンとして幾らか荒稼ぎしているらしい。しかもバックには暴力団も付いているとかで、売春をやらせた相手がカリナの機嫌を損ねてしまったら、そのやくざがやっているクラブや風俗店にぶち込まれてしまうという話さえあった。
そのカリナに今度は学校で、瑞穂は絡まれているのであった。
「素敵なファッションじゃん、瑞穂ちゃん。最先端だねぇ」
カリナが、にまにまと笑いながら言った。瑞穂の鼻に巻かれた包帯を見ての事であった。カリナは瑞穂の顔の真ん中を走る包帯に、ちょんと指を触れさせた。瑞穂が顔の真ん中を押さえて後退る。昨日の今日だ、まだ、かなり痛むのであろう。
「どーしたの、それ」
「き、昨日、転んで……」
眼を反らしながら瑞穂。例え事実を知っているカリナの前でも、そういう事にして置かねばならない。若し、この傷がカリナの所為であるなどと言えば、それは、他の人間に対しても同じ事を言いかねないと教えている事になる。
「へぇ、転んだんだ」
「はい、転びました……」
「にしちゃ、随分と、大事じゃない?」
「転んで、鼻骨が折れてしまったので、病院に行きました」
「病院に行ったんだ。へぇ、驚かれたんじゃない?」
「え……」
「随分と派手に転んだんだねぇ、とか。本当は誰かに殴られたりしたんじゃないの、とか」
「いえ、そんな事は……」
「だよね、ただ、転んだだけだもんね」
「はい」
「で、転んだのは良いんだけどさ、病院って、自分で行ったの?」
「は……」
「自分で歩いて行ったの? それとも、救急車とか呼んだの」
「――」
「ね、どっち?」
「き、救急車で……」
「ふぅん……」
カリナは頷いて、声を低くした。
「それは、自分で呼んだの」
「――」
「それとも、誰かに呼んで貰ったの」
「わ……」
瑞穂は、“分かりません”と答える心算であったのだろうか。いや、分からないという答えはあり得ない。自分で行ったのでなければ、誰かが救急車を呼んだのだ。だから、この場で“分からない”という答えをするという事は、自分の為に救急車を呼んでくれた誰かが分からないという事を意味する。
では、その救急車を呼んだミスター又はミスXは誰なのか。カリナはそれを追求するだろう。そして、そのXが、どうして瑞穂の為に救急車を呼んだのか。単に、血を流して蹲っている少女がいたからなのか、それとも、瑞穂が出血したその一部始終を見ていたからなのか……。
夕希は物陰に隠れてその光景を伺いながら、心臓が嫌に鼓動を速めてゆくのを感じていた。カリナが通報者の事を病院に訊いて教えて貰えと脅せば、瑞穂はそうしてしまうだろう。そうなると、病院から夕希に確認の電話が来る。教えないで欲しいと言っても、名前だとか住所は兎も角、電話番号は病院の方で分かっている。携帯電話を使ってしまったからだ。番号だけでも瑞穂が手に入れれば、カリナの手に渡ってしまう。そうなれば……。
昨晩の、血の色と匂いと音が蘇って来た。自分の鼻が、そうした音を立てるのを幻聴した。迸る血を幻視した。予想される痛みに、その恐怖に、夕希の背筋が凍った。
と――
「よしなよ、カリナ」
そのように声が掛かった。
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