弐
――いや。
良い訳がない。
真里は言った、もう良いんだと。
駄目だ。
駄目だよ、真里。
俺はお前に縛られていないと言ったがあれは嘘だ。俺はお前に縛られている。でもそれは束縛じゃない。呪縛だ。だからと言ってお前を悪者にしたりはしない。呪いとは悪い事ばかりではない、呪いは祈りでもあるのだ。自分自身を呪縛する事で、誘惑に打ち克つ事も出来る。呪われた過去があるからこそ、現在を、未来を呪われたものにせぬようにと自らを律する事が出来るのだ。
だから真里。
そんな事は言うな。
我慢しなくて良いとか縛られなくて良いとか、お前の口からそんな言葉を聞かせるな。
お前はそんな事は言わない。だってお前はもうこの世にいないのだから。だからお前の言葉は俺の弱さだ。俺の脆弱で醜悪な心が作り出した都合の良い幻聴だ。
真里、俺はお前に縛られている。お前が俺を呪縛しているから、俺はお前の前では強靭で美麗な人間でいられるのだ。お前が俺に刻んだのは呪いなどではなくて祈りだ。どんな神さまにだって刻印出来ない聖痕だ。
そして辰美。
お前が俺に残した呪いも、俺にとっては聖痕だ。俺は自分の命を省みない、お前という呪いの心臓を手に入れたからだ。辰美よ、お前が犯した罪は俺が背負う。俺はお前と共に罪を贖う。俺とお前は戦い続けなければならない。分かるか、辰美、俺は誰かを裁けないがお前を罰する事は出来る。俺はお前の心臓を持って生きているからだ。俺はお前だけを罰する、お前は俺と共に戦わなくてはならないのだ。
シホ。
お前も来い。
殺されたお前が誰かを怨んでいるなら俺と共に来い。お前の怨みを俺はこの足に込めて立ち上がる。この拳に込めて叩き込む。だがそうではないのなら、お前は往け。何処か遠い所で、俺を見守っていてくれ。それも嫌なら俺を呪え。お前を守れなかった俺を呪い続けろ。俺はその呪いで戦う事が出来る。俺の罪と戦う事が出来るのだ。
志村、お前には悪い事をした。
あの時、俺がお前を救ってしまったばかりに、お前に自分の人生を捨てる選択をさせた。
こんな危険な目にも巻き込んでしまった。
俺はお前を助けなければ良かったのかもしれない。
だが、ありがとう。
こんな俺に、ここまで付き合ってくれてありがとう。
もう少しだけだ。もう少しだけ力を貸してくれ。巻き込んでしまった上に、こんな事を言えた義理ではないかもしれないが、後ほんの少しだけで良いから、手伝ってくれ。それが俺の力になる。お前を解放してやりたいと思う、その為の戦いを俺は今挑んでいるのだから。
分かったか。
分かったか、尾神雅也。
お前がどれだけの人間と契約を結んでいるのか。お前の肉体と精神にどれだけの人間との絆が結び付いているのか。分かったなら立て。眠っている場合じゃない。幸せな夢を見ている場合じゃない。真里よ、辰美よ、シホよ、今、お前たちが何処にいるのかは分からない。だがお前たちの記憶は俺の肉の内に潜んでいる。お前たちの姿は俺の心の中に棲み付いている。ゆこう、共にゆこう。俺について来てくれ、憑いて来てくれ。俺はお前たちを愛し続ける。俺はお前たちを思い続ける。俺はお前たちを愛し思い続けるからあり続ける――
尾神雅也は蘇生した。
「良かった……!」
森の中で倒れている雅也を発見した麗奈は、樹の幹に凭れ掛かって死んだように眠っていた雅也がぴくりと指先を動かしたのを見て胸を撫で下ろした。
「丹波さん」
雅也は視界に飛び込んで来た麗奈に手を伸ばした。頬が昼間と同じように煤けている。土の付着した指先だから、煤は落ちる所か余計に顔を汚してしまった。麗奈はそんな事は気にせずに良かったと繰り返した。無事で良かった、心配したんですよ。
バイクの人物がバスの中の信者たちが抱えていた爆弾を起動させた時、綾部は窓を割って飛び出し麗奈を抱えてガードレールの外に転がった。爆風から身を守る為に外套で身体を包んで落下すると、殆ど火傷を負う事はなかった。外法使いを名乗る綾部の単なる酔狂かとも思ったのだがそうではない、火炎や低温、刃物、銃弾から身を守る為に身に着けているという事だった。
クラウドたちには逃げられてしまったが、志村と合流し、綾部と志村は空港に向かい、麗奈は雅也を捜索する事になった。そして倒れている彼を発見したのであった。
「銃で撃たれたんですか?」
麗奈は地面に転がっていた弾頭を目敏く見付けて訊いた。あの雅也が倒れるとすれば銃を相手にしてしかも余程当たり所が悪かったというくらいしか思い付かない。そうらしいな、雅也は答えて胸の辺りに手をやった。アポロの銃は間違いなく雅也の心臓を貫いた筈だった。だが雅也は死んでいない。胸の違和感から胸骨か肋骨にひびが入っているのは分かるがそれだけだ。胸筋が如何に分厚いとは言え銃弾を防げるとまでは思わない。雅也は撃たれた箇所を服の上から撫でて硬質なものがあるのに気付き、上着の裏ポケットからそれを取り出した。
真里のベルが壊れていた。中心でひしゃげた銃弾が止まっている。
「これ、確か妹さんの――」
「ああ」
「守ってくれたんですね、彼女が」
麗奈の言葉に、雅也は小さく顎を引いた。どうだ、真里。俺はお前に縛られて、いつまでもこんなものを持ち続けていた。だから俺は助かったのだ。自分自身を呪い続ける事も悪くはない。死者に魂を引き摺られるのではない、死者の思い出と共に歩んでゆくのだ。
「時間は?」
「そろそろ日付が変わります」
「まだ間に合う」
「押忍!」
雅也が立ち上がった。胸が痛む。銃弾が心臓を貫く事は防げても、衝撃は雅也の肉体にダメージを与えていた。しかし痛みで立ち止まってはならない。
「こちらへ。下の道にアシがあります」
「アシ?」
綾部と志村は先に空港に向かったと聞いた。では、麗奈はどうやって引き返したのか。その時に使った移動用の車があるのだろうと思った。麗奈に付いてゆき道に出ると、一台のオートバイが停められていた。馬力のあるオフロード車だった。黒と金をメインのカラーにして、紫を差し色に入れている。雅也の好みに合致するマシンだった。
「これは!?」
「志村さんが――」
バスの爆発から助かった麗奈と綾部は、空港へ向かう前にM市に引き返した。そこで志村はこのオートバイを何処からか調達し、麗奈に雅也を迎えに行くように指示したのだった。
雅也はバイクを観察した。跨ってみると、まるで何年も乗り続けたかのように身体が馴染んだ。寧ろ、身体の一部のような気さえして来る。エンジンを唸らせればそれが自分の心臓の鼓動のようだった。
「志村さん、言ってました。尾神さんの為のバイクだって」
「俺の?」
そう言えば、いつか訊かれた事がある。もうバイクは乗らないんですか? 雅也は必要があれば乗るがそうでない限りは乗る事はないと答えた。自分の生活圏は決まっている。それに運転中にフラッシュバックが起これば事故を起こしてしまうかもしれない。雅也が死にたがるのは過去から逃れる為ではなく自分の生命が咎のあるものだからだ。不慮の事故で死ぬ事は自分への断罪にはならない。又、交通事故では他人を巻き込む可能性もある。だから再びバイクのハンドルを握る事は躊躇っていた。今ならば乗れる。乗らねばならない状況だという事もある、しかし、決意を固め覚悟を経た今の自分ならば、もうフラッシュバックに動揺する事はない。それさえも今の雅也の活力になる。
雅也は顎をしゃくって麗奈を後ろに跨らせた。麗奈が被って来たものではなく雅也用のフルフェイスを被ろうとすると、ヘルメットの裏側に何か書いてある。志村とメグとアキコの署名だ。青臭い学生ごっこ、そう思いながらも雅也は感謝の念が胸に満ちるのを感じた。ギアを一速に入れてアクセルを吹かしクラッチを繋いでリアブレーキを緩めて走り出す。スピードが乗った所でギアを上げハンドルをひねった。麗奈が取っ手を握る力を強めた。風を裂きながら夜道を進む。月のない夜、星も見えない暗い空、しかし光はあった。雅也のマシンが放つライトが流星のように煌めいた。
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