第十九章 呪痕

 アレスのパンチを掻い潜り、麗奈は脚タックルを敢行した。スタンドでの攻防はどちらにとっても危険だ、寝技に誘い込んで関節を絞り上げる心算だった。グラウンドの状態に入れば体格差も少しは埋まる、麗奈は空手家だったがその他の武道や格闘技の研究も怠らなかった。自分たちが目指すのは立っても寝ても座っても歩いていても勝てる空手だからだ。

 しかしアレスは麗奈の動きを呼んで上から拳を落として来た。麗奈はそのままアレスの足の間を前転で潜り、鉄槌の一撃を躱した。アレスはバスの屋根を窪ませて振り向く。これで立ち位置が入れ替わった。走行するバスの屋根の前後、不利なのは後方である。

 アレスはじりじりと間合いを詰めた。急ぎ足で迫れば同じように立ち位置を逆転されかねない。巧くバランスを崩してやれば屋根から落下させる事は難しくない。麗奈は重心を低くして足場を固定する。足を左右に広げ爪先を前に向けた。騎馬立ちだ。麗奈は左腕を立てて右拳を引き、迎撃の構えを採った。アレスが何かを仕掛けてきたら左手で受け、後の先を取って右の拳を打ち込む心算なのだろう。アレスは誘いには乗らない。このままM空港に入ってしまえばそれがD13の、スティグマ神霊会の勝利だからだ。麗奈が攻めを打って来ないのならばそれで結構だった。気になるのは車内に残した黒尽くめの陰陽師だった。あの男が運転手を倒してハンドルを握ればバスはここで停止する。今の所、そのような動きはなかったが、懸念である事に違いはない。その不安を払うには麗奈をどうにかしなければならなかった。

 アレスは麗奈に歩み寄る。間合いには入らぬように近付きながら密かに靴を脱いだ。間合いの外からの蹴りを繰り出すと共に靴を飛ばしたのだ。しかも麗奈はバスの上に乗っている都合上、こちらに向かって来る事になる。靴が飛来する体感スピードは倍になる。麗奈は右腕を内側から回転させて靴を弾いた。アレスが駆け寄りパンチを繰り出す――と、見せ掛けてもう一方の靴を蹴り飛ばした。卑劣な二段構え、麗奈も対応し切れずに隙が出来る筈。

 アレスの期待は裏切られた。本命の拳を繰り出した刹那、左の中段受けで靴を弾いた麗奈は何と跳躍したのだった。走るバスの上でジャンプをすれば下手をすれば着地場所を失う事になる。それを恐れずに麗奈はバスの屋根を蹴り、アレスから距離を置く。が、その左手がしゅっと動いていた。指の先から黒いものが滑り出す。ズボンのベルトだった。いつの間にか引き抜かれたベルトが鞭のようにしなってアレスの腕を捉えた。パンチのストライクの瞬間、無防備な一瞬を狙われたアレスはバランスを保てずに足を滑らせた。麗奈はカウボーイよろしくベルトを引き寄せてアレスを転倒させ、落下する勢いでエルボードロップを突き刺した。アレスの後頭部に肘が激突、加えてバスの屋根に顔面を衝突させられたアレスは意識を分断された。

 ベルトを自分の腕にも巻いてアレスの落下を防いだ麗奈は、バスの前方まで歩いてゆくとフロントガラスの上から顔を垂らした。車内の綾部に終わった事を告げようとしたのだが運転席には既に綾部が腰掛けている。綾部はバスを路肩に停めようとした。だがその時、綾部の顔がつぃと歪んだ。バスの後ろから猛スピードで追い上げて来るバイクがある。高速道路から落下した雅也を案じて停車した志村のミニを追い抜き、バスに接近して来るのだった。

 綾部が舌を鳴らしてハンドルを左に切る。バスの左側から肉薄するバイクの狙いは明らかだった。トランクのクラウドを回収する事だ。これを妨げる為に綾部はバイクをバスで押し潰そうとしたのだ。だがバイク乗りはトランクからクラウドを受け止めると車体を横滑りさせてバスの車体の下を潜って右側に飛び出し、すぐさま体勢を戻して走り去ってしまう。クラウドをタンクの上に乗せてスピードを上げるバイク。綾部は追おうとするのだがライダーの手の動きを見て焦りを浮かべた。運転席から飛び出してフロントガラスを叩き麗奈を呼んだ。

「飛びなさい!」

 バイクの人物は左手に握ったスイッチを押し込んだ。するとバスに乗っていた一三名がそれぞれ抱えていた自決爆弾が火を吹き上げ轟音と共に炎上した。クラウドのいないバスなどただの鉄の棺桶だ、役目を終えた信者たちは死人も同然、火葬にするのは理に適っている。

 ほんの僅かに遅れた志村のミニは急ブレーキを踏んだ。眼の前で横倒しになったバスが炎を纏っていた。漏れ出したガソリンに引火し、バスは二度、三度と爆発を引き起こした。車体を構成する鉄が歪みゴムが溶けてプラスチックが爆ぜる。窓から飛び出した黒い影は人間の骸だ。炎を浴びて細胞が炭化し痩せ細ってねじ曲がってゆく。

 天上の月は、地上の混乱を嘆くかのように赤い涙をこぼし、やがて暗雲に覆われて行った。





「お兄ちゃん――もう、お兄ちゃんったら」

 真里が俺の袖を引いていた。ああ、何だっけと返事をすると、真里は丸い顔を余計に膨らませて不貞腐れたように言う。

「どう? この格好、変じゃない?」

 真里は俺の前でくるりとターンをしてみせた。隣町の中学校の制服だ。俺が行った所は、男子は詰襟だったから良いものの女子の制服はダサかった。セーラー服なのは良いが何の変哲もないありきたりで無難なワンピースと上着で、如何にもと言った女子学生というイメージそのままだった。田舎と言ってもテレビは幾らでもあるし女の子向けの雑誌だって売っている。東京のナウいヤングたちのファッションを知っては、とても芋っぽい田舎娘ではいられない。真里はそういう女の子だった。

 そこへいくと隣町の中学はブレザーを取り入れていてお洒落さんだ。明るい紺色のブレザーに、ライトグレーのボックススカート、何と丈は膝上五センチ。今にもヨーヨーを取り出しそうなロングスカートでもパンティが見えそうな短いスカートでもないが、脛の半分くらいを隠す古臭さもない。フォーマルとカジュアルの間という印象だった。袖口には珍しい金刺繍のラインが三本、ボタンも同じように金色で目立つ。胸元を飾るリボンは眼を冴えるような緋色。電車で何駅か、それだけの場所なのにまるで都会の学生みたいだ。

 似合ってるよ、俺は言った。真里は嬉しそうにはにかんだ。陸上の成績が評価されて真里は隣町の中学に進む事になった。推薦で入学したので幾ばくかの学費は免除されるが、それでも流石に私立という事もあって金が掛かる。俺はそれでも真里を学校に入れてやりたくて、奨学金の額を少し多く言った。残りの学費を俺が稼いでいる事を真里は知らなくて良い。真里は自分のやりたい事をやりたいようにやれば良い。真里の笑顔を守る事、それは亡き両親とした約束だった。

「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは、もう、頑張らなくて良いんだよ」

 真里は不意に言った。どうした、真里? 俺が何をしなくて良いって?

「私の為にお仕事して、お金を稼がなくても良いの。もう、私の為にお兄ちゃんが自分の時間を失くす事なんてないんだよ」

 俺は真里の言っている事が分からなかった。それでも真里は続けた。

「お兄ちゃんはお兄ちゃんの好きに生きても良いの。他の誰かに縛られる事なんてないんだよ。もう、お兄ちゃんは自由なんだから」

 自由? おかしな事を言う。俺は今まで不自由を感じた事はない。お前がどうして俺が学費を稼いでいる事を知っているのかは分からない。でも仮にそれを知ったとしてもお前がそんな風に気に掛ける必要はない。俺はお前の為に学費を稼いでいるがそれはお前の為じゃないしお前に縛られているなんて思った事は一度もない。俺はお前の笑顔が見たい、だから俺はお前の為に働いているように見える。

「ううん、お兄ちゃんはずっと我慢していたんだよ。お兄ちゃんはその事が分からなかっただけ。もう我慢する事はないの」

「そうだよ」

 シホが言った。シホは服を着ていなかった。あの時のように一糸纏わぬ姿を俺の前に晒している。括れた細い腰を上下から挟む豊満なバストとヒップ。髪を掻き上げる小麦色の腕がセクシーだ。長い脚を豹のような歩調で進ませて近付いて来る。シホは背伸びをして俺の唇を吸い股間に手を伸ばした。

「あんたは自由になって良いんだ。私とエッチしたいんでしょう? 良いよ、好きなだけやらせて上げる、何度でも気持ち良くなって」

 俺の服はいつの間にかなくなっていて俺は空を眺めていた。シホは俺に跨って乳房を震わせ、熱い吐息と愛液を絡ませて来る。

「尾神、俺が悪かった」

 顔を横にやると地面に頭を擦り付ける志村がいた。志村と言っても粋がっていた頃の志村だ。髪を染めてピアスを開けて自分の周囲のあらゆるものに突っ掛かって行くように尖っていた志村だった。その志村が俺に頭を下げている。

「悪かった、悪かったよぅ」

 分かってくれたのか。俺は嬉しかった。志村がこうして自分の事を反省している姿が。俺は誰かを裁かない、そんな権利がないからだ。俺に誰かを導いたりする力はない。俺に出来るのは罪を防ぐ事だけだ。志村が誰を殴ってもものを盗んでも何をしても、俺は殴られた奴を守り盗まれたものを返すだけで、志村を罰したりは出来ない。大丈夫だよ志村、お前がそう言ってくれるのならば俺たちは友達だ。

「尾神くん」

 辰美。

 辰美は俺の前で美しい顔に微笑を浮かべていた。何か特別に言う事はない。友達のお前がいる、それで良い。これからは志村とも仲良くしてやってくれ。シホも悪かったと思っている。ああ、これは黙っていてくれよ、真里は実はお前の事が好きなんだ。若しかしたらそれは都会から引っ越して来た美少年というお前の属性に対する好意かもしれない、でもそうだとしても真里はお前の事を気に掛けているようだったんだ。だから真里がお前の事を本当に好きになるまで一緒に遊んでやって欲しい。それで良いか、辰美。

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