山の中を、雅也と男が転がり落ちてゆく。もつれ合いながら斜面を転げ、土を舞い上げ落ち葉を散らし突き出した枝で服や皮膚を傷付けながら、漸く二人は平地に到達した。男が雅也の上になろうとした、雅也は相手との間に膝を立てて距離を作り、掌底を打ち上げた。男の鼻を下からかち上げて怯んだ瞬間に抜け出そうとしたが、男は逆に雅也の腕を捉えて関節を極めようと目論んだ。雅也は男の顔面に頭突きを喰らわせ、今度こそ脱出した。

 追撃を恐れた男と同じく、雅也も距離を取る。少しでも体力を回復させる為だった。

 森の中で対峙する二人、陽はすっかり沈んで月が昇り、折り重なった木の葉の隙間からほんのりと光が落ちて来るだけだ。

「変わった眼だな」

 男は言った。雅也の両眼は左右で異なっている。元々の雅也の眼は二〇年前の爆発事件で爆ぜて使いものにならなくなり、左には妹の真里の、右には友人の辰美の眼が移植されている。それは人から見ても分かるくらいであり、些か奇妙に映る。

 雅也は答えなかった。地面に潜り込ませた爪先で土を蹴り上げて眼晦ましを使い、横に動いてこれを避けた男に殴り掛かってゆく。男はバックステップで雅也を誘導して動きを止めた。雅也の前蹴りが唸るが男はジャンプして躱し、すると雅也の足は男が背にした樹の幹を直撃する事になった。男は頭上に伸びた枝を掴み、左右の足を丁度良い所にあった雅也の頭部に向けて繰り出した。普通は身体を反らして避けるなりする所、雅也は逆に樹に向かって飛び込むようにして蹴りを避けた。どん、凄まじい音がして、男が捕まった枝を伸ばす樹が傾いてゆく。雅也がタックルで圧し折ったのだ。

 男は倒れてゆく樹を蹴って地面に降り立つと雅也を振り向いた。すると雅也は驚いた事に、自分が圧し折った樹を振り回して男の胴体を薙ぎ払おうとしたのである。まさかの奇手に男の反応は遅れ、樹の幹でぶん殴られる事になった。身体の横にやった腕ごと、べきべきと肋が数本音を立てる。

「化け物か」

 倒れ込んだ男は血を吐いた。口の中を切ったようだ。

「悪魔め!」

「好きに言え、俺はそれで構わない。貴様らの息の根を止められるのならな。もう二度と、二〇年前のような事はやらせない。この俺が最後の血を流す」

 雅也は樹を放り投げ、深く息を吸い込んだ。肺の中の空気を全て入れ替えると、樹を振り回した時に消費された細胞が新鮮な酸素を取り込んで元気を取り戻してゆく。そうだ、スティグマ神霊会との戦いで流れる血があるとするのなら、それは俺のもので良い。俺の流す血が最後の血だ。スティグマの血を絶やし、この俺の身体に流れる血を出し尽して、全てにピリオドを打つのだ。

「貴様如きの血で、俺たちを止められるものか!」

「止めるさ、俺の身体には奴の心臓が脈打っている。影蔵の息子の心臓がな」

「何――!?」

 男は雅也の言葉に驚き、彼の顔をじぃッと見つめた。そして唇を捲り上げて歯を剥いて、大きな声で笑い始めた。何がおかしい? すると男は、

「貴様、あの時の男か。思い出したぞ!」

「あの時の?」

「ハデスを誑かしたあの男だな――生きていたのか!」

 雅也はぴんと来た。あの時、そしてハデス――ハデスというのは辰美の事だ。教祖影蔵の娘でありながら妻でもあった朝田辰美の弟にして息子にして夫であるハデス辰美。その辰美を誑かした、このように言った少年が、“妖怪マンション”にはいたのだ。影蔵の示す神以外の思想、雅也の信条に触れてよりスティグマへの信仰を深めた辰美を、信仰に背いたとして処刑した少年戦士――

「俺の名前はアポロ。まさかお前が生きていたとは思わなかったぞ」

 アポロは拳銃を取り出した。雅也はその銃に見覚えがあった。辰美を射殺したものだ。アポロは二〇年前の拳銃を未だに持ち続けている理由を説明した。信仰に背いたとは言え影蔵の血を色濃く受け継ぐハデス辰美は自分たちのカリスマ的な存在だった。そのハデスにネメスィを下した事は影蔵に背いた事になるのではないかという不安があった。その罪の証として彼を射殺した銃をお守りのように持ち続け、そしてその贖罪の為に彼の兄弟であり息子であるクラウドを新しいカリスマとして導いたのだ。アポロにとって、雅也はハデスを殺害せねばならない理由を作った大罪人であった。

「良く憶えている。お前の妹は見事に昇天を果たしたぞ。彼女は我々の洗礼を受けながら解脱を達成し、穢れた臓腑を取り出す時にも喚かずに達観した表情であったなぁ……」

 アポロは雅也に銃を突き付けたまま、恍惚とした表情で思い出していた。反対に、雅也の表情は氷のように凍て付いて鉄のように鋭く変わってゆく。それなのに雅也の全身は火に包まれたかのような熱を孕んでいた。細胞の一つ一つが沸々と泡立ち、風を浴びれば燃え上がって灰になってしまいそうだった。燃え立つ身体と凍て付く心、二つを潜り抜けた尾神雅也という存在が刃のように殺意を研ぎ澄ませてゆく。

「お前も妹の所へ送ってやる!」

 アポロが発砲した。型は古いがメンテナンスは欠かしていない。寧ろ外身はそのままだが中身はチューンアップを繰り返して最新式のものと変わりない。威力も照準もこの距離の対象を射殺するには充分以上のものがあった。だが銃弾は雅也の身体を突き抜けてしまう。雅也はまるで銃弾の軌跡を予想したかのように動いてアポロに接近した。大量の脳内物質が雅也の感覚を鋭敏にさせ、止まった時の世界を体験させている。

 ごぅ、風が獣の咆哮をした。雅也の身体がチーターのように動いてアポロに襲い掛かる。アポロが放った五つの銃弾は全て虚空を貫いて樹の幹を穿ち枝を落とし葉っぱを貫いた。雅也は熱された拳銃を毟り取り、アポロの胴体に蹴りをぶち込んだ。アポロの身体が吹っ飛んで別の樹に激突した。雅也はアポロに覆い被さると頸に両手をあてがった。

 めりめりとアポロの頸骨が軋んでゆく。酸素と血液の流入が停止し顔が赤黒く青紫に変色してゆく。喰い縛った歯に亀裂が走り隙間から血と唾液の混じったピンク色の泡が吹き出して来る。充血した眼球が飛び出して不気味な顔付きになっている。

 死ね!

 雅也の中でどす黒い感情が立ち上った。二〇年間、ずっと自分に対して向け続けていたものだ。妹を守れなかった俺など死ね。友人の企みに気付けなかった俺など死ね。肌を重ねた女をむざむざ殺され自分を頼った女を傷付けられ自分が頼んだ女を危険に晒した俺など死ね。妹の肉を喰らって生き延びた俺など死ね。妹の仇の心臓で生きている俺など死ね。俺に生きる価値はない。俺の命はあの時に終わっているべきだった。あれから何度も死のうとした。何度も俺を殺そうとした。何も出来なかった俺を殺そうとした。俺の中の咎人の血を抹殺しようとした。出来なかった。何度も何度も死のうとしたのに殺そうとしたのに死ぬ事も殺す事も出来なかった。高い所から落下しても心臓に杭を刺そうとしても刃物で動脈を切ろうとしても拳銃を口の中に突っ込もうとしても何をやっても生き延びてしまった。何故だ、何故だ、何故俺は死ぬ事が出来ないんだ。俺は死ぬべきなんだ。そういう思いをD13の計画を阻止する為に昇華させていた。しかし一番望んでいたのは自分が死ぬ事だ。銃や爆弾や毒ガスを使われても怯む事がなかったのはそれらと関わってゆけばきっと死ぬ事が出来ると思ったからだ。走っているバスに飛び移り高速道路に転がり落ちて車に轢かれそうになったのも死ぬ事を期待していたからだ。二〇年だ、地獄のような日々だった。眠る事の出来ない日々だった。瞼を閉じれば焼き付いた辰美が俺を殺そうとし真里を殺してしまう。心臓から呪われた遺伝子を代謝によって消し去る為に必要以上のトレーニングと食事をしなければならなかった。俺は眠れない、ずっと闇の中にいるからだ。俺は喰らわねばいられない、空っぽの無価値な身体を満たす為に。そうした黒い感情を、全て自分に向けていたものを、丸切りアポロに対して突き付けていた。

 死ね!

 死ね!

 死ね!

 と――

 雅也が絞め上げる頸の感触が、不意に弱々しいものに変わった。男の頸ではない、少女の細首だ。アポロの醜く変わった顔が歪み、見知った相貌に変化した。真里だ。愛しい妹だ。真里の頸を絞めている。真里に対して黒々とした感情をねじ込んでいる。違う、それは真里ではない、それが分かる。だがフラッシュバックからは逃げられない。例え幻影でも真里を殺す事は出来ない。雅也は力を緩めた。その瞬間、辰美が手を伸ばして来た。辰美の手から逃れる為に雅也は身体を反らす。だが辰美は追って来る。顔を反らしても辰美は雅也の頸を絞めて来た。腕を払おうとするが雅也の手は何も掴まない。

 幻だ、それに気付いた時には雅也はアポロに対する有利を失っていた。アポロは樹の幹を支えにして立ち上がり、奪い取られた拳銃を拾い上げて雅也に向けている。雅也はひりひりとした痛みを感じている。殺意の波動が全身を貫いていた。しかしそれに反応する事が出来ない。かつての友の亡霊と愛した妹の怨霊に付き纏われ、雅也は現実を見失っていた。死と生の境界を長らく彷徨っていた雅也は既に肉の重みを御する術を失くしていたのだ。雅也は今まで超人的な行動を採って来られたのは何の事はない、とうの昔に自らの心臓と共に人間性を打ち捨てていたからなのだ。

「さらばだ、明日のない男」

 アポロがトリガーを引いた。小さなフラッシュと破裂音の直後、光と音に続いて衝撃が雅也を襲った。アポロの銃弾は雅也の心臓を正確に狙い撃った。雅也は胸部を突き射した振動に鼓動がやむのを感じた。これで良い、これで良かった。辰美と真里が迎えに来た。アポロが言った事は本当だった。真里は辰美たちに輪姦され殺害され彼らの言う天国へと旅立った。辰美の血を取り込んでアポロに殺された俺もきっと彼らと同じ場所に逝く事になる。願いは叶った、望みは成就した。もう良い、もう良いんだ。漸くゆっくり眠る事が出来る。俺は、雅也は眼を閉じた。

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