弐
トランクのロックを外して扉を開いた雅也は、荷物を入れて置くそのスペースに身を躍らせた。巨躯という程ではないが身長のある雅也は身体を丸めるようにしてしかそこにいる事が出来ない。そして決して広くはないトランクの中に、クラウドの白髪が光っていた。
「尾神さん……」
その声はましろと同じだったがやはり少し低く変わっている。小柄な彼でもトランクでは膝を抱えて座らざるを得ない。教祖影蔵を連想させるゆったりとした和風の衣装を身に着けており、その布の内側がどうなっているのかは分からない。麗奈の話では少年と少女の中間の肉体で、股間には男性器が存在しているようだった。雅也が寝た時には確かに淫裂だった部位に男根が生えているとはとても思えない。又、その端正な容貌からは彼が日本全国を巻き込んだテロリスト集団のリーダーだと想像する事も出来なかった。そして中性的な美貌の彼は、やはりあの少年――ハデス辰美を想起させた。
「クラウドか」
雅也は言った。
「お前は、ましろなのか?」
「誰から聞いたの?」
「お前の母親だ」
「ああ、あの、嘘吐きか」
「嘘吐き?」
「僕を騙していたからだよ」
“僕”、一人称がそう変わっている。若しかすると肉体だけでなく、精神もましろとクラウドとに分かれているのではないだろうか。女性の肉体と言葉を持つのが愛川ましろで、男性の身体特徴を持つのがクラウド。
「騙していたとはどういう事だ?」
「あの人は、僕の父親は死んだと言ったよ。でも影蔵は生きている。それだけじゃない、僕が生まれた理由さえ教えてくれなかった。僕に生きる理由をくれたのはホワイトロータス……スティグマ神霊会だ。僕は彼らの、父の理想を理解した。この日本に住む人間にネメスィを与え、僕は新しい王国に君臨するんだ」
「それが正しい事だと思っているのか」
雅也が言おうとした時、暗がりからぬっと伸びて来たものがあった。雅也の頸を掴んだ手は、そのまま雅也を押し倒し、肩から上をトランクから押し出した。雅也の顔面に横から吹き付ける高速道路の風。雅也は頸を掴んだ手を逆に握り返す。フラッシュバックが起こった。頸を絞める為に手を伸ばす辰美の顔が素早く流れてゆく空に浮かぶ。その幻影を掻き消したのは中年の男の顔だった。
「我らがクラウドを独りで隠すと思ったか」
「想定内だ!」
雅也は片足で踏み込む力を使って腰を反らし、右の拳を打ち上げた。パンチは頸を絞める男の脇腹に直撃し、手の力が緩む。雅也は男の身体を逆に押さえ込もうとするが、二人の力は拮抗していた。結局、二人はトランクからアスファルトに叩き付けられ暫く転がり立ち上がる。高速道路のど真ん中で二人は戦い始めた。
雅也のパンチが男の顔面を打つ。男の蹴りが雅也の胴体を弾いた。横からライトが照らした。雅也は男にタックルを仕掛けるようにして路肩にまで弾き飛ばした。男はガードレールに片足をやってタックルの勢いを止め、胴体に組み付いて来た雅也のズボンと上着を掴んで引っ張り上げた。雅也の天地が逆転し、足の爪先が天を睨む。
「尾神さん!」
車を停めて落下した二人を追って来た志村が声を掛けた。その声が届く前に、二人は高速道路に面した山の中に転がり落ちて行った。男は雅也をブレンバスターの要領で投げ落とそうとしたのだが、雅也が相手を離さなかった為、諸共に落下する事になったのだ。
志村は一瞬躊躇ったが、雅也が後で合流する事を信じてクラウドの乗ったバスを追った。
空気を切り裂いて、綾部の手から白いものが飛翔した。今度は暗器ではない。鳥の形に切り抜かれた厚紙だった。単に鋏を入れただけではなく、折り目を付けて立体化し、投げれば飛ぶように作られている。その紙の鳥が、麗奈を取り押さえようとした信者たちの間を駆け抜けた。
信者たちが怯んだ一瞬、麗奈は補助席を飛び越えて前方回転受け身をしつつ素早く立ち上がると、後部座席に逃げたアレスの眼前に立ちはだかり、正拳突きを繰り出した。アレスが両腕ブロックするが、みしりという嫌な音が聞こえた。拳をガードした場所が、麗奈のパンチの一発で激しく内出血を引き起こしていた。麗奈にとって身体を使ったガードはガードにならない。それが肉体であれば防御ごと粉砕する、それが空手だからだ。
一方の綾部一治はふぅと溜息を吐いて何かに落胆したようだった。実際、失望しましたと呟いて紙の鳥に驚いた信者たちに歩み寄ってゆく。
「テロを引き起こす程の熱心な信者でしょうから、見える方々かと思えば、何の反応もなし。全く、神通力が呆れたものですね。やはり、所詮はインチキ教祖の似非超能力……」
貴様、信者の一人が激昂して殴り掛かって来た。相手の腕に外套を絡めて投げ飛ばし、背中を座席に打ち付けさせる綾部。マントを脱いだ綾部は黒いシャツの襟元を緩めて白い肌を僅かに露出すると、左手を持ち上げて指先を小さく手前に引く動きをした。掛かって来い、そう言っている。
運転手を除いて一二名の内、六名は綾部に向かい、アレスを含めた残り六名は麗奈に向かった。バスの進行方向に位置する綾部に対して躍り掛かる信者たちだが、綾部一治は舞でも踊るかのように軽やかなステップを踏んで、それに伴う手の動きで信者たちのこめかみや顎や咽喉などを正確に打撃してゆく。麗奈が転び掛けた補助席の前までやって来る頃には、綾部に飛び掛かった信者たちは脳震盪を起こしたり呼吸を阻害されたりしてすっかり戦闘不能に陥っていた。
「お手伝いしましょうか?」
麗奈はバックブローで一人の信者の顎を砕き、下突きで一人の肋骨を圧し折り、突き付けられたナイフをヘッドレストに手をやって飛び上がって躱すとその男の鼻先に踵を入れ、着地する前にもう片方の足で別な信者の口の中に爪先を突っ込んで歯を撒き散らさせた。アレスの背後に逃げようとする信者の後ろ襟を掴んで引き寄せ振り向かせると斜め下から肘を駆け上がらせて顎の皮膚ごと意識を刈り取った。
「何か言いましたか」
「いえ、別に」
綾部はつまらなさそうに言って拳銃を暴発させた熱で変色した暗器と補助席の下に滑って来ていた紙の鳥を拾い上げ、適当な座席に腰掛けた。麗奈はそれを横目で確認してアレスと向かい合う。アレスは引き攣った笑みを浮かべていた。たった二人の男女に、スティグマ神霊会の蜂起の日に備えて訓練を重ねていた戦士たちが呆気なく全滅させられた事に驚愕を禁じ得ない。
「何者だ、貴様たちは。一体、何が目的だ?」
アレスが訊いた。
「私の門弟にちょっかい出したおたくらが気に入らないだけ」
「貴方たちの所為で、私ら宗教者がどれだけ世に嫌われたか。その意趣返しですよ」
麗奈と綾部はそれぞれ言った。綾部は、尤も私もお金次第では貴方たちとそう変わらない事をやりますが、と呟いた。
「そんな理由で――」
アレスは怒り心頭に達したようだった。そんな理由で我らの神聖なる救済の儀式を邪魔立てしようと言うのか。二〇年も待ったのだ。この試練の時間を無駄にしてなるものか。
麗奈に向かってアレスが走った。パンチが風を切る。麗奈はダッキングで躱してボディに拳をめり込ませた。内臓を打つ感触が拳に伝わる。しかしアレスは怯まなかった。アレスは麗奈の襟を掴むと後部座席に向かって放り投げた。着地した麗奈にアレスが肩から突撃して来る。咄嗟に腕を組んで受ける麗奈だったが、そのまま窓に叩き付けられてしまう。アレスは麗奈の頸を掴んで拳を振り上げた。顔面を狙ったパンチを前腕でパリングする。狙いを反らされたアレスの拳は窓ガラスを割り砕いた。割れた窓から麗奈を外に放り出してしまう。麗奈はガラスに片手をやって身体を支えバスの後方に張り付くが、掌には鋭利なガラスが喰い込んで出血させる。その手をアレスの掌が覆い、更に傷付けようとした。痛みで力を緩ませ、一〇〇キロ近い速度で疾走するバスから振り落とそうとしている。そうでなければ、ガラス片で指を切断する事も考えている。
「落ちろ、不敬者!」
「一人で落ちるかっ、お前も来い!」
麗奈が眼を吊り上げた。普通ならば掌に刺さろうとするガラスを嫌がって手を放したがるのだが、麗奈は敢えてガラスを手に貫通させて身体を固定し、空いた右手でアレスの顔に手を伸ばした。顔を横にやって避けた心算のアレスは、麗奈の真の狙い、耳を掴む事に気付いていなかった。耳朶を掴まれ万力の如くピンチ力で引き寄せられて、肉の千切れそうな痛みに顔を歪めるアレス。麗奈の暴虐はそこでは終わらなかった。アレスの耳の孔に中指を突っ込んで残りの指で蜘蛛の脚のように相手の顔をホールドし、窓の外に引き摺り出したのだ。人体の中で最も比重のある頭部を窓の外に出し、しかも胸の辺りまでを引き出されてしまえば落下しかねない。眼の前に迫る危機に慌てふためくアレスを傍目に麗奈はバスの屋根に上がった。高速道路を疾走するバスの上で地上と同じように立つ事は極めて困難である。麗奈は四つん這いになるようにしてバスの前方まで進んだ。
アレスは上がって来た。左耳から顎の先まで、赤いものが伝っている。麗奈の指が突き込まれて拡張された耳孔から流れる血であった。
「そんな理由で――そう言ったな」
バスの屋根から手を放し、腰をぐっと沈めて重心を安定させ、レスリングのような構えになる。緩く持ち上げた両眼は刃の煌めきを放ち、気の弱い人間であれば睨まれただけで小便を漏らしてしまいかねない。逆風を背に浴びながらアレスと対峙する麗奈の身体から、ちりちりと火花が散るような迫力がある。
「同じ言葉を返してやる」
「我らの信仰を侮辱するか!?」
「人を傷付ける神さまなんてあるもんか。そんな奴らに縋る程、人間は弱くない。人間を舐めるな、インチキ野郎!」
おのれ――アレスは眼を血走らせ、麗奈を打ち倒すべく走り出した。
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