弐
「運命?」
「言ってるんだろうさ、決着を付けろと」
スティグマとは良く言ったものだ、雅也は唇の端を吊り上げた。スティグマとは聖痕の意味であり、キリスト教に於いては磔刑に処されたイエスに刻まれた傷の事である。何らかの能力を持ちやがて聖人となる人物には、それと同じ傷痕が浮かび上がるとされている。しかしそれ以前に罪人や奴隷への烙印であり、精神的な病や身体的な特異などを持つ人物に対する社会からの人格の否定などを言う事もある。
雅也には妹を殺された精神的なトラウマとその相手の心臓があって自分が生かされているという肉体への嫌悪感がある。ましろ・クラウドも同じく、現代日本でも最も凶悪な犯罪者の一人・影蔵の子供である上に男女の肉体を持つ異質な存在である。そして共に同じ遺伝子を身体に孕ませて生きているのだ。若しも神というような存在があり、それに人の運命を操る力があるのであれば、雅也とましろ・クラウドを惹き合わせてしまうのは仕方のない事であるかもしれない。そしてそれは、何か、一つの決着を付けさせる為なのであるのではないだろうか。
「それはそうと、クラウドがD13と合流したという事は、とうとう彼らの計画が発動するという事でしょうね」
綾部が言った。D13の計画、スティグマ神霊会から継承した日本転覆計画の事だ。二〇年前は地下鉄に“伊舎那”を散布するに留まった。影蔵はその実験を経て、ヘリを使った東京全域への“伊舎那”の散布を目論んだのである。今度も同じ方法を採るだろう、雅也と綾部の共通認識は、とかく宗教というものが形式を重視する傾向にあるからだ。
「ヘリが飛びそうな所を洗うんですか? だとしても……」
志村が不安そうな顔をした。姿を晦ましたクラウドたちの捜索は難しいだろう。かと言って飛び出すヘリを片っ端から調べる事も出来ない。それに、重要なのはヘリコプターを使う事ではない。上空から“伊舎那”を撒き散らせば目的は達成されるのだから、自衛隊に潜伏した信者がいれば戦闘機やVTOLを使う可能性もある。
雅也たちが顔を見合わせて唸っていると、ふと、小さな唸りが聞こえて来た。音は一ヶ所だけから聞こえて来るのではない、様々な方向から大移動する昆虫の羽音のように聞こえて来るのだった。その正体はすぐに分かった。
「ドローン⁉」
その手があったか、麗奈は舌を鳴らした。昨今、良くも悪くも問題になっている遠隔操作式の無人航空機だ。戦時下の危険地帯に於ける偵察や戦闘行為から、郵便物の配達などにも使用される事が検討されており、実際に投入されている国も少なくない。日本ではまだ大々的に飛ばす事は出来ないが、個人使用を超えない範囲では許可が下りている。家電量販店に並んでいるものも余程の金持ちでもなければ手が届かないという値段ではない。
そのドローンが、東京の空に各地から一斉に舞い上がったのだ。ドローンという名称はそもそも蜂などが起こす低い羽ばたきの音を意味する言葉から転ぜられたものである。そのドローンが、まさに昆虫の如く東京の空を覆い尽くそうとしているのだ。いや、流石にそれは言葉が過ぎた、しかし、鈍く曇った空に重低音と共に浮上する機械の群れは、天使がラッパを鳴らした終末の時に放たれるという飛蝗の悪魔(アポルオン)を連想させた。
D13がドローンを使用するという確証はない。しかし、こんな状況で呑気にドローンを飛ばして遊ぶような者がこんなにも大勢いる筈がない。D13の計画を知っている者にとって、空を覆う人工飛翔体が何を意味するかは分かり切った事である。
「や、やばいんじゃないですか⁉」
志村が声を上げる。若し、あのドローンに“伊舎那”が搭載されていたとしたら、既に東京はD13に占拠されている事になる。しかし志村が焦燥を向けた雅也と綾部は涼しい顔であった。二人は小さく目配せを交わし、雅也が近くの信号機に向かって駆け出した。周囲を警戒しながらドローンに戸惑っていた警官の言葉を無視して歩行者用押しボタンのボックスに足を乗せ、ぽーんと飛び上がった。雅也は電気の灯らない信号機の上に立ち、手頃な位置にやって来たドローンを手で掴んだ。プロペラの中心に指を当てて回転を止めた雅也は、そのプロペラを引き千切りドローンを観察した。
「どうです?」
信号機の下から綾部が声を掛けた。毒ガスは積んでいないようだ、雅也はそう言って、しかし、とドローンを放り投げた。地面に落下したドローンはその衝撃で小さな爆発を起こした。小さなと言っても火柱が起こる程度の威力はあった。“伊舎那”は積まれていなかったが、代わりに火薬が仕込まれていたのだ。それに連鎖するように、東京の各所でドローンが爆発を起こして落下し始める。無人の道路や公園の池などに落ちれば良いが、マンションやアパート、スーパー、コンビニ、ガソリンスタンドなどで爆発すれば堪ったものではない。
「“伊舎那”の散布にドローンを使う可能性はゼロではない。が、決行は恐らく今日ではない」
信号機から飛び降りた雅也は言う。でしょうね、綾部が同意した。これは彼らにとって聖戦です。聖戦は格式高くあらなくてはいけない、彼らにとって誇り高いものでなければいけません。彼ら自身の王が自ら陣頭指揮を執り、定められた日に行なわれなければいけない。
「明日――」
「明日?」麗奈が訊き返した。「どうして明日だって分かるんですか?」
「今日が六月三〇日だからですよ」
志村がああと頷いた。麗奈はまだ分からないようで首を左右にひねっている。そうしている間にもドローンは威力に差異はあっても爆発を起こし地上に落下する。雅也たちは志村のミニクーパーに避難し、更に少しでも安全な場所を目指して移動を開始した。
「一九九九年七の月、恐怖の大王が降臨する――」
ハンドルを握る志村が言った。
「何です、それ?」
「ノストラダムスですよ」
助手席の麗奈が訊き、後部座席の綾部が言うと、雅也が説明を始めた。南フランスのサロンで生まれたミシェル=ド=ノートルダム――優秀な医師であった彼は、『百詩編』と呼ばれる著書で未来を予言したとされ、志村が呟いたのはその一節である。正確には、『百詩編』の詩の解釈の一つである。一九九九年の七月に、恐怖の大王の降臨によって世界が滅亡する、その解釈ばかりが一人歩きして、世紀末の頃に人々の不安を煽っていたのだ。
「どういう事?」
「予言というのはとかくそういうものなのですが、正確な未来を告げる事など出来ないのですよ。ノストラダムスだって何百年も先の事なんて知らないし、興味もなかったでしょうね」
「それと、D13の計画と、どういう関係があるんですか?」
「スティグマ神霊会はノストラダムスの予言を真面目に信じていた、そういう説があるのです。一九九九年に人類は滅亡すると。その滅亡から人類を救う為に、彼らの教義を広める心算だった。それを邪魔する者を排除する事は彼らにとっての正義だった」
「そんな、不確かな理由で、あの人たちはあんな事を?」
「そういう面もないではない、って事ですよ。影蔵が幼少期に障害を理由に差別された事への逆恨みだとも聞きますが、まぁ、動機はこの際、何だって構いませんがね」
重要なのは犯した罪と罪に対する咎人本人の意識、我々にそれ以上踏み込む事は出来ません――綾部はそう言って話を戻した。そういう訳であるから、D13が恐怖の大王たろうとするのならば六月の今日ではなく、七月になる明日以降に“伊舎那”を散布する筈であり、爆弾ドローンによる攪乱が行なわれたという事は、これに乗じて一晩で準備を済ませてしまうと考える事が出来る。
「ま、要は一刻も早くクラウドを取り押さえ、計画を中止させねばならないという事です」
「それには、あいつらが使うヘリの出立する場所を特定しなくちゃいけませんね」
麗奈が腕を組んで唸った。その場所が何処か分からないのではどうにもならない。何の手掛かりもないのである。
「――志村」
「はい?」
雅也はとある格安旅行会社の名前を言った。去年の今頃から今年の初めに掛けて利用者と問題を起こしていた会社である。旅先でのホテルやレストランを予約していなかったり、席を取った筈の飛行機に搭乗出来ないと客と添乗員で揉めたり、そのような問題があって訴えられ、破産寸前に陥った。しかしスポンサーの交代と社内の人員入れ替えが行なわれて業務がクリーン化され、どうにか首を繋いだという事を、いつかのテレビ番組で特集していた。
「それがどうかしたんですか?」
「その会社のポスターが貼ってあった」
「え?」
「俺とましろ――クラウドが初めて会った金融会社に、だ」
「何ですって?」志村が声を高くした。「若しかして尾神さん、その二つの会社と、D13に、何か関係があると思ってるんですか?」
怪訝そうな顔をする志村、彼のスマフォを借りた綾部がたどたどしい手付きで文字を打ち込み始めた。雅也が画面を覗き込むと、綾部はその旅行会社について検索している所であった。綾部はふぅんと頷き、唇を軽く持ち上げる。ビンゴかもしれません。あの闇金、広域指定暴力団の白良会と繋がりがあるようです。白良会は関西系のやくざですが、近年、関東にも手を伸ばして、出岡組と揉めているのですよ。あの闇金会社が旅行会社のバックに就いたのもその関係のようです。それで旅行会社ですが、一度失った信頼を取り戻すのはかなり難しいようでして、白良会が金を積んでどうにか一ヶ所の空港と契約を取っただけのようです。綾部は愉快そうに眼を細めて声を上げた。
「これは運命ですか?」
綾部は雅也の耳元に口を寄せると、その空港の名前を囁いた。
M市の空港だった。
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