第十七章 運命の心臓が惹かれ合う

 雅也たちは新宿に戻った。志村の運転するミニクーパーがホテルの前に辿り着くと、周辺には消防車とパトカーと救急車が分厚く壁を作り上げていた。消火活動は終わったようだが、まだ黒い煙が上がっている窓がある。救急車に運び込まれる重軽傷人、無事な者は警官に何が起こったのかを話していた。

「尾神さん!」

“立入禁止”のテープを越えようとして警官に止められていた雅也だったが、麗奈がやって来て退散した。麗奈の顔には煤を払った痕がある。済みませんでした、と麗奈は言った。

「謝罪は後だ、何があった」

 麗奈は志村のスマフォにましろがいなくなったというメッセージを送った。それ以外の情報はなかったが、事件が大きく動き始めたのを感じ、雅也たちは新宿に戻った。そして、朝田辰美から告げられた、彼女の子供でありきょうだいであり甥であり姪であるクラウドの本当の名前が、愛川ましろと同じものである事もそのきっかけである。

「実は――」

 雅也たちが朝田辰美の許へ向かって少しの間、麗奈とましろは冷蔵庫から勝手にドリンクを頂戴しながらぽつぽつと雑談を交わして過ごしていた。するとましろがシャワーを浴びたいと言い出した。そう言えば夜から今までずっとこのままの状態であった。汗が服に染み付いて気持ちが悪い、同じ女の子としてその気持ちは分かるし、既に身体検査は終えて彼女に何の疑いもない事が分かっている。麗奈はましろを独りでシャワールームに向かわせた。

 私も後で使わせて貰おう、そう思ってソファに深く腰掛け直した麗奈だったが、不意に気分が悪くなった。緊張の糸を僅かでも緩めてしまったのが良くなかったのだろうか、麗奈はましろがいるのは分かっていたが顔を洗うか吐いてすっきりしてしまうかしようと、シャワールームに足を向けた。ノックをしてましろに呼び掛ける。しかし返事はなかった。若しかしてあの子も気分が悪くなって最悪倒れてしまっているのではないか? 話を聞くにましろはオッパブに勤めているだけの一般人で、自分のように武道を通じて精神を鍛えている訳ではない。このような非日常に耐えられるだけの胆力は持ち合わせていない筈だ。麗奈は開けるよと声を大きくしてドアを蹴破った。

 シャワールームは洗面台とトイレのある脱衣場とガラスで仕切られた浴場に分かれており、脱衣場のかごの中にはましろの服が入れられていた。擦りガラスの向こうからシャワーを浴びる音が聞こえているが、その擦りガラスが妙な事になっていた。お湯の温度で曇っているガラスに黒い飛沫がぽつぽつと飛んでいるのである。そしてその向こうに映っているましろのシルエットが脱衣場の麗奈を見て焦ったような仕草をした。

 麗奈は擦りガラスのドアをスライドさせると、そこにいたましろに唖然とした。セミロングの髪は色が抜け切って真っ白に変わっている。身体には黒い筋が血のように滴り落ちていた。それだけならば、若くして全ての頭髪が白くなってしまったのを隠す為に染めていた染料が落ちたというだけの事だが、それよりも驚いたのがましろの肉体の事である。身体検査をした時は少し強張りがあったものの女性の肉体であった。だが今は柔らかみを帯びた少年の肉体であった。少し緩んでいたお腹は引き締まって薄く腹筋を浮かべ、ふくよかだった乳房は脂肪が抜け落ちたように大胸筋に張り付いている。顔立ちも垂れ眼で童顔の少女から、眼を吊り上げた鋭いものに成り代わっていた。何より、両脚の間には調べた時にはなかった陰茎が臍の辺りまで立ち上がっていたのである。

 唖然とする麗奈に対して、少年の身体となったましろはいきなりシャワーを浴びせ掛けた。顔にお湯が入るのを防ぐ為、頭部をブロックして横に逃れる麗奈。じゃりん、という音を立てて浴場から出たましろは手に鋭利な破片を持っていた。シャワーヘッドを場内の鏡に叩き付けて割り、それを武器として麗奈に投げ付ける。逃げるようにしてシャワールームから飛び出した麗奈は呼吸を整えて戦う準備を始めた。ましろの身体の不思議はあるが、それは問題ではない。熱湯を浴びせ、ガラス片を投げ付けるという敵対行為、麗奈が戦闘態勢に入るのは当然であった。

 しかし麗奈とましろが直接対峙する事はなかった。窓の外から射し込む光がふと翳り、気にして横目をやると数名のガスマスクの男たちが窓の外に張り付いていたのだ。彼らは何れも防弾ジャケットを身に着け迷彩柄のズボンを穿き、屋上から垂らしたロープを厚手のグローブで握り、鉄板を底に縫い付けたブーツでガラスを蹴破って侵入して来た。麗奈はベッドの横に駆け込むと男たちが抱えていた機関銃を掃射する前にベッドを持ち上げて盾にした。弾丸がベッドを貫通しなかったのは、綾部一治がいざという時に盾として使えるよう、分厚いジュラルミン製の板をマットの下に敷いていたからである。

 銃弾がやむと噎せ返るような硝煙の匂いが部屋に充満し火災報知器が作動してスプリンクラーから雨が降り出した。ベッドの陰から覗いているとシャワールームから出て来たましろがスプリンクラーの雨を浴びながら悠然と男たちに歩み寄ってゆく。

「こういう事を言うのは、どうかと思いますけど――」

 麗奈はその光景を思い出して、言った。

「とても美しかった……」

 ましろが、である。少女の身体から男の身体に変貌し、白い髪から黒い染料をこぼれさせたましろが、人工の雨に浮かぶ虹の光を纏って地上へと歩を進める。天井や壁に跳弾した痕や水の匂いに交じる火薬の香り、疑うべくもない殺意の渦巻く部屋の中で、ましろのみが神々しい存在に思えてしまった。

 ましろはガスマスクの男たちと共に窓辺に向かうと、彼らと共に地上へ向けてダイブを敢行した。麗奈が駆け寄ると彼らはパラシュートを展開してあっと言う間に地上に到達し、やって来ていた黒塗りの高級外車に乗り込み去ってゆく。麗奈は自分のスマフォを掴み上げ志村にメッセージを送ろうとしながらドアに走った。内側から出る時もカードキーが必要であった事を思い出した麗奈はキーを探そうとしたのだがそんな時間はなかった。窓辺にはそれまではなかった四角いボックスが置かれていた。爆弾だ、麗奈は雅也たちの話からすぐに察する事が出来た。キーを使う事は諦め、扉を蹴破ろうとする。しかしさっき不意に襲って来た不快感がぶり返して来て膝から崩れそうになる。どうにか腹の底から気力を絞り出して思い切り拳をぶち込んだ。まるでそれがスイッチだったかのように、箱が光と音を放って爆発した。





「良くご無事で」

 綾部が言った。ホテルを見上げると綾部が借りていた部屋以外にも爆弾が仕掛けられていたようだった。その全てが綾部の部屋よりも上階に仕掛けられ、つまりましろと共に去った男たちは屋上からロープで降下しながら窓に爆弾を張り付けていたのだろう。

 火事場の莫迦力って奴です、麗奈は左の拳を持ち上げた。血の滲んだ包帯を巻いている。パンチでドアをぶち破り、爆発から間一髪逃れたのだ。人間には確かに危機が迫ると通常では考えられないパワーを発揮する事がある。しかし普通ならば生存する事が極めて難しい状況からすぐに事情を説明出来るだけの負傷で済ませた麗奈は、その常態での能力が優れているという事になる。

「すると、やっぱりましろちゃんは――」

 志村が雅也の顔を見た。ああ、雅也は頷く。ましろはクラウドであるという事で間違いないだろう。半陰陽、しかも単に男女の特徴を備えているというのではない、周期によって男と女の肉体をそれぞれ行き来する事が出来るというのである。同じ時代に二人といないと言い切る事は出来ないかもしれないが、この場合はそうであると判断しても構わないだろう。

「しかし、尾神さん、彼女……彼? どう言えば良いのか分かりませんが、奴は、尾神さんの事を知って近付いて来たんでしょうか」

 志村が言った。偶然が余りにも過ぎると言いたいのだろう。どうだろうな、雅也はすぐに頷く事はしなかった。雅也とましろが出会ったのは偶然だ。初めて会った時、ましろはD13の工作員たちに捕らわれた姿で現れた。あのシチュエーションで雅也と遭遇する可能性はゼロに近い。朝田辰美がましろに雅也の事を教えたとは思えないし、あの時に真里と辰美を殺し“妖怪マンション”を爆破したスティグマの少年戦士たちがホワイトロータス・D13を率いる立場に就いていたとしても、雅也について話す事はないだろう。第一、雅也の事はあれだけの事件でありながら報道がされなかったし、そうなるとスティグマの少年戦士たちは雅也を抹殺したと思い込んでいるだろうからだ。

 雅也の件が公表されなかったのは、彼の手術が実験的意味合いを込めていたからである。雅也は詳しくは知らないが、彼の手術には最新の術式が用いられたらしい。緑川が勤めていた会社で開発した技術を試すべく損壊の酷い雅也のような肉体を求めていたのである。この手術には人体実験の要素があった為、定期的な莫大な検査費と引き換えに情報の規制が行なわれたのだった。

「ならばそれは運命だろう」

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