約四ヶ月後、スティグマ神霊会による地下鉄毒ガス散布事件が発生。

 五月、スティグマ神霊会教祖である影蔵・シヴァジット・獄煉が、教団施設であるガランへの強制捜査に踏み切った警視庁により、毒ガス散布事件の首謀者として逮捕される。

 罪状は殺人罪、殺人未遂罪、殺人予備罪、死体損壊罪、逮捕監禁致死罪、武器等製造法違反、薬事法違反、麻薬及び向精神剤取締法違反、並びに覚せい剤取締法違反。

 逮捕から一年後の東京地方裁判所での初公判で、弁護側は信者たちの暴走であり影蔵は一切の関与がないと無罪を主張したが影蔵自身の不規則発言や奇行を繰り返した事により責任能力の有無が争点となり、死刑判決が言い渡されるまでは約一〇年を要する事となった。






 雨が降っていた。鉄のように重々しく被さった雲から、霧のようにこぼれ続ける嫌な雨だ。肌に張り付いて骨の内側にまでじっとりと浸透する。

「お世話になりました」

 志村は数年の刑期を終え、久し振りに娑婆の空気を吸う事が出来るようになった。高校を中退して東京に出て来たは良いが、何をやっても良い事がなく、挙句の果てにはやくざの鉄砲玉みたいな事をして人を殺して捕まり、臭い飯を食って過ごした。もう戻って来るなよと言われたが反省はしていない。故郷を出た何の取柄もないクソガキが、青春を食い潰して独りで何が出来るだろうか。何のかんのと底辺ではあるが大学に行った三田と同じで、少しでも一緒に勉強をすれば良かったか。

 M市にはもういたくなかった。“妖怪マンション”の爆破事件の時も、マスコミが大勢やって来て鬱陶しく取材をして来た。町の外では妙な事が連続する呪われた町と話題になってしまった。仲の良かったシホは殺されたし、メグは病院にばら撒かれた毒ガスの後遺症に苦しんでいる、後遺症と言えばアキコも家を爆破された時の怪我と心的外傷トラウマで今も大変だそうだ。そんな陰気になってしまった町で死ぬまでのんびりと暮らしてゆく事など、出来ない。

 だから東京に出たのだが、知り合いもいない乾いた街で何をすれば良いのかも分からなかった。その点、刑務所暮らしは悪くない。やる事が頭から尻まで決められている。それを機械的にこなせば辛さはあるが同じ程度は楽をする事が出来る。何なら、もう一度何かをやって入ってしまおうか。どうせ自分なんか、社会にとっては何の役にも立たないゴミ虫みたいなものだ。

 よれよれのシャツのまま傘も差さずに町を歩いていた志村は、電器屋の前を通りがかった時、その内容に耳を傾けた。スティグマ神霊会について特集している。丁度今の頃に、あの事件が起こったのだ。スティグマの事、教祖影蔵の事、当時の映像や証言が次々と並べられた。しかし“妖怪マンション”の爆発については触れられても、シホが殺害された事を始めとする事件に言及される事はなかった。画面の隅に表示された被害者数の内の一つでしかない。

 志村は舌を鳴らしてその場を去る。あの男の所為だ。あの男がスティグマ神霊会なんてものを興さなければ、嫌な目に遭わずに済んだんだ。友達や仲間の死に直面して、その所為で人生を狂わしてゆくなんて事、なくて済んだのに。

 不機嫌に吊り上がってゆく眼で、すれ違う人たちを睨みながら歩いていた志村だったが、ふと眼の前に並んだ男たちを見上げて小さく呻いた。スーツをぴしっと着こなした強面の男たちだ。ムショの飯は旨かったか? 薄ら笑いを浮かべて訪ねて来たのは、志村が乗り込んで行った組の男たちである。

 志村は、五人の男と共にひと気のない公園に連れてゆかれた。そこで彼らに殴られ、蹴り転がされるなどの暴行を加えられた。

 志村がやった鉄砲玉というのは、その名の通り、敵対する組織に対して身一つで乗り込んでゆく役割である。鉄砲玉が相手組織のメンバーを怪我されるなり殺すなりして、その報復として殺害された場合、鉄砲玉を放った組織は仇討ちの大義を得る事になる。志村は重傷を負ったものの生き延び、抗争が終わるまでは刑務所で安全に過ごしていたのだが、抗争の結果、志村が味方した組織は敗北して潰されてしまった。抗争に勝っていれば出所した志村は凱旋する事になる訳であったが、そうはならなかったのである。

「お前が殺したのは俺の可愛がっていた弟分おとうとでな」

 ふちの細い眼鏡を掛けた男は、濡れた地面に寝転がった志村の胸に革靴の踵を落とした。胸骨が軋み、肺が圧迫される。眼鏡の男は志村を強く踏み締めると、襟を掴んで立ち上がらせ、顔面にパンチを見舞った。歯が飛び、血が眼鏡の男のスーツを汚した。

 ふらつく志村を二人の男が左右から抱え、別の男が前蹴りを喰らわせる。志村は腹の中のものを盛大に吐き出した。雨に濡れた全身が、火を点けられたように熱くなる。志村の脳内を今までの事が駆け巡った。どうにか生き延びる方法をシミュレーションしたのだがどうにもならない。志村は自分の吐瀉物に額を擦り付けて命乞いをした。

 格好悪いぜ、小僧、眼鏡の男が志村の顔を蹴り上げる。仰向けに転がった志村に歩み寄ると、眼鏡の男は懐から拳銃を取り出した。

「山と海、捨てられるならどっちが良いか選ばせてやる」

 眼鏡の男はその場にしゃがみ、志村の口の中に拳銃を突っ込んだ。脳幹に掛けて撃たれれば即死である。志村はいやいやをするように頭を左右に振った。口の中で歯が拳銃に触れてかちかちと音を鳴らす。舌先に鉄と火薬の匂いが触れていた。

「川だな」

 志村ではない。霧雨の中から男がやって来た。その男が言ったのだ。

「誰だ!?」

 やくざたちが反応する。現れたのはくすんだ色のジャケットを羽織った男だった。眼の下に隈が色濃く浮かび上がっている。身長は一八〇センチ程で、捲った袖から覗く腕には引き攣れたような痕が幾つも残っていた。

「山か海なら、俺は川が良い。川魚の方が好きだからな。俺は海に行った事がないし山は俺の故郷だ。だから行くなら川が良い」

「何を言ってやがる!」

 やくざの一人が男に殴り掛かって行った。男は顔を狙ったパンチを掌で受けると、その左手でやくざの右手首を掴み、右腕で襟を掴んで腰を切る。やくざの男は簡単に放り投げられ、地面に頭を強く打って失神してしまう。

「野郎」

「良い度胸してるじゃねぇか」

 やくざたちは男に襲い掛かった。だが、男は驚く程強かった。パンチを躱し蹴りを受け刃物を出される前にやくざを蹴散らしてしまう。顎を拳で殴り抜かれ、ボディに足の爪先をねじ込まれ、片手で頸を絞められてブラックアウトする。

 残った眼鏡の男が銃を向ける。隈の男は眼鏡の男にゆっくりと歩み寄り、トリガーに指が掛かったと見るや手を跳ね上げて眼鏡のやくざの手首を圧し折った。眼鏡のやくざの手から銃がこぼれ、低い悲鳴が上がる。逃げようとした眼鏡のやくざから自慢の眼鏡を取り外すと、そのお陰で怖そうに見えていた男の顔は、眼が左右に離れたどうにも間抜けなものに変わった。

 男は間抜け面のやくざのこめかみを鉄槌で叩いて気絶させると、地面に落ちた銃を拾い上げた。

「お……尾神!」

 志村は自分を助けた男が、尾神雅也だと気付いた。どうしてこの男がここに? 雅也が眼を覚ますより前にM市から去った志村は知らなかった。雅也が真里と辰美の記憶に苦しみ、自らの生命を絶とうとした事を。しかしそれに失敗し、以降も何度も自殺を図っては生き延びてしまい、とうとうM市から放浪の旅に出た事を。

「志村か……」

 雅也も志村との再会は意外なものであった。志村という同郷の仲間だからやくざの前に立ったのではない。襲われているのが他の誰でも、雅也はこうしていただろう。昔からそうだ。尾神雅也はそういう男だった。

 違っていたのは、雅也が眠らなくなった事だ。眠る為に眼を閉じると、雅也の瞼の内側には辰美と真里が浮かび上がる。自分を殺そうと手を伸ばす辰美、真里を殺そうと手を伸ばす自分、起きている間は幻覚に襲われる事が少ない。だから雅也は眠る事を忌避するようになった。自分の肉体の中で代謝を繰り返し心臓から呪われた遺伝子を排除する為に大量の食事をし、悪夢を見ないよう睡眠を拒絶する内に、食欲が睡眠欲を凌駕するようになったのだ。

「どうして俺を助けたんだ……?」

 自分を見上げる志村を一瞥し、雅也は拾った拳銃を口の中に突っ込んだ。そうして引き金を引こうとする。志村は思わず飛び掛かっていた。銃身を雅也の口の中から引き抜いた。撃ち出された銃弾が志村の掌の端を貫通した。左手の小指がぶらんと垂れる。肉の焼ける痛みも気にならなかった。それよりも雅也が自ら死のうとした事に気が動転していた。

「何してんだよ……!? てめぇ、何考えてんだ? 何だって死のうとなんてするんだよ!」

「構わないからな」

 雅也は言った。

「死んでも、構わないから……」

 意味が分からなかった。何故、そんな事をするんだ。どうしてこの尾神雅也が自身の命を軽んじなければならないのだ? それを見てどうしてこんなに心が痛むのだ。どうして尾神雅也はここまで痛ましい男になってしまったのだ。余りにも哀れだった。

 雅也はいつも志村の邪魔をした。エロ本を万引きしたとなれば叱り、無銭飲食をしたとなれば頭を小突き、女子にしつこく言い寄ればその子の前で軽くぼこぼこにされた。しかし、雅也は志村の友人であった。本当は悪い奴じゃないんだ、俺の仲間なんだ、友達なんだぜ。悪い事は悪いと言い、けれどいつか分かる日も来るだろうと、同い年のくせにやけに大人びた事を言うむかつく奴。そして大人たちが諦める中、同じ町に生まれたと言うだけで信じてくれる奴。大きな優しさを持つ男であった。それがどうしてこんな風になってしまうのか。俺のようなはぐれ者がやくざに殺されるのは良い、だが、尾神雅也のような男が自ら死を選ぶなどあってはならない。

「恩を返させてくれ……」

 志村は手の怪我など気にした様子もなく、雅也の手を握ってその場に座り込んだ。志村がそう言ったのは、雅也が哀れまれる事を嫌うであろうと思ったからだ。だからもう一つの理由だけを告げた。今、助けてくれてありがとう。今まで信じてくれていてありがとう。これからは本当に心を入れ替える。あんたの為に何でもする。だから生きてくれ。俺に恩を返させてくれ。そんな痛ましい姿を見せないでくれ。強くあってくれ。一方的な誓いであった。それと同時に願いであった。

「ああ……」

 冷え切った志村の手から、じんわりと熱が伝わって来る。雅也は頷いた。まだ生き延びた理由は分からない。その理由を探して雅也は生きる。志村の体温が伝わり、雅也の中の熱が蘇って来た。死ぬ為にする旅が終わった日だった。

 雨が上がる。雲が裂けて、太陽が現れた。

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