第16章 幻の再会 

 雅也は眼を覚ました。嫌な夢から覚めたのだ。全身には汗がべっとりと絡み付いていた。全く掃除をしていない藻の繁殖した池の中に飛び込んだらこんなふうになるのではないだろうか。それにしても本当に嫌な夢だった。友人である筈の辰美が、良く分からない連中と共に妹の真里を拉致し強姦し殺害し、そして雅也自身も殺され掛けた。酷い悪夢だった。

 ともするとあの事さえ夢かもしれない。アキコの家が爆破され、メグが頭を強打されて意識を失い、シホが銃殺された事――要はここ最近の全ての嫌な出来事が、直前に呼んだ小説の内容を夢に見ていただけのような気さえして来た。

 そうだ、そうに違いない。真里は俺の朝食を楽しみにしているだろうし、シホたちはいつもの面子でわいわい騒いでいるだろう。辰美にちょっかいを出すようならば少しお灸を据えてやらなければならない。それで自分たちの行ないを反省する、そういう事が出来る筈だ。俺はあいつらを信じている。

 しかし雅也は、今の自分が何処で眠って夢を見ていたのか分からなかった。自宅にこんな場所はないからだ。白い天井に白い壁、風にはためくクリーム色のカーテンと、鼻を突く消毒液の匂い。ああ病院か、雅也はそう思ったのだが自分が病院のベッドに寝ている理由にまでは思い至らなかった。バイトの最中に倒れたか。それともバイクで事故でも起こしたか。何にしてもこうやってゆっくり出来るのは悪いものじゃない。休む事も必要だ、自分にはそんな余裕がなかっただけで、本当はこうやって寝そべる時間も大切なんだ。

 雅也は眼を閉じてもう一度眠ろうとした。だが、一瞬闇に閉ざされ、光が瞼を通過した時、雅也の眼前に二つの顔が浮かび上がった。真里と辰美の顔だ。真里の顔は恐怖に歪み、辰美はその美しさからは想像も出来ない醜い表情を作っていた。雅也はびくんと身体を跳ね上げた。身体に掛けられていたシーツを吹き飛ばす勢いだ。そうして上体を起こした雅也は、病衣から伸びた両腕に亀裂が入っているのに気付く。縫い後だった。

 これは? 何だ、これは――雅也の問いに応えるように、病室のドアが開いた。部屋は個室だった。雅也のベッドだけがぽつんと置かれている。中の患者の数に合わせるように、やって来たのも一人だった。白衣を着た中年の男性だった。

「眼が覚めたのか」

 男性は雅也のベッドの横に立った。この病院が自分の生活圏にあるのならば、医師や看護師の顔は大体分かっている心算だった。この男の顔は記憶にない。髪はまだ量を保っているが白いものがだいぶ混じっている。四角い顎に鷲鼻と、一度見れば忘れないであろう顔だ。

「緑川という者だ。詳しい事は言えんが医者で、君の手術を担当したものだ」

 大変だったぜ、全身火傷、内臓はぼろぼろ、特に心臓が酷い状態だったな、両眼は煮え立って使えなくなっちまって、替えの皮膚を集めるのに苦労したよ。緑川は窓の外を満足げな表情で眺めている。手術が好きなのだろう、そしてその成果である雅也が意識を取り戻した事で充実感を覚えているのだ。

「何が……あったんだ」

 ざらざらとした声だった。咽喉の内側に猫の舌を縫い付けられたような嫌な感じだ。声を発するたびに肺から口腔に掛けてが焼け落ちてしまいそうになっている。全身に異常なまでの気怠さが纏わり付いていた。もったりとしたタールの海を泳いでいるようだ。

「――聞きたいのかね」

 緑川医師は低く言った。手術をして置いて病状を知らせない医者はいないだろう、雅也のそういう視線を感じ取って、緑川医師は更に続ける。儂は精神科医じゃない、君の身体を治すように言われただけだ、身体の限りは例え心臓が止まろうが何度だって治してやる――実際に今回はそういう手術だった――、だがしかし君の心にまで責任を持つ心算はない、儂は医者として君の身体について説明する義務があるから事実を教えるだけだ、その後の君の精神状態については何ら関わらないという事を覚えて置いて欲しい、尤も儂がここで話さずともいずれ知る事にはなるだろうがね。あれから半年が経って季節は夏から秋、そして秋から冬に変わっている。窓の外を見れば紅葉が鮮やかな赤からくすんだ茶色になって散り落ちてゆくのが見えるだろう。ドラマや小説や詩集なんかでは重病人の寿命と連動しているように扱われており、実際の患者にも影響があるから植え替えた方が良いと言っているのだがそれもなかなか難しいらしい。人によってはそんな事知るかとか人はいつか死ぬのだから葉っぱだっていつか落ちるだろうと悟ったような事を言う者もいる。兎も角、君はあの六月末日から今日までずっと眠り続けていたという訳だ。手術は数日に及んだ。さっきも言ったが君はもう少しで死んでしまう所だった。身体の殆どの部位を移植せねばならなかった。君は随分と友人たちに愛されているらしい、同級生や後輩やバイト仲間が駆け付けて移植をさせてくれたよ。しかしどうにもならないのが心臓と眼だった。

「そういう事が聞きたいんじゃない」雅也は言った。「俺はどうしてこんな怪我をしたのか、それを聞きたいんです」

「覚えていないのか」

「覚えて?」

「君はスティグマ神霊会の爆破テロに巻き込まれたんだよ」

 緑川医師はあっさりと言った。正確にはスティグマ神霊会とは判明していないが、警視庁に届けられた怪文書からするとその疑いが強まっている。この病院で正体不明の毒ガスが散布され、職員や入院患者数名が重傷を負った。その後、町外れの“妖怪マンション”に怪しい集団が集会を開いているという通報があり、警察が駆け付けた所、建物が爆発して崩壊。その時に建物の最上階から飛び降りて来たのが、雅也であったという。爆発物は“妖怪マンション”の各階に満遍なく設置されており、雅也は炎に包まれながら落下する事となった。その為に全身の皮膚の殆どが酷い火傷を負っていたのである。又、雅也は二つの遺体を抱えていた。全身を銃弾で撃ち抜かれた少年のものと、少女の生首だった。緑川医師は流石にその二つの遺体について教える事を逡巡したようであったが、雅也の心に責任は持たない、事実を話す、という自身の言葉に従った。

「少年は朝田辰美、少女は尾神真里、君の同級生と妹だ」

 待ってくれ、雅也は緑川医師の話が納得出来なかった。あれは夢ではなかったのか? 辰美たちに拉致された真里は犯され抜いた後に解体されて殺された、それが嫌な夢ではなかったというのか。仲間たちに裏切られて自分と共に撃ち殺された辰美も、切り開かれた空っぽの腹に悪魔集団の精液を詰め込まれた真里も現実の光景だったというのか?

「そうだ」

「嘘だ!」

 雅也は叫んだ。嘘だ、あんたは嘘を言っている、言って良い冗談と悪い冗談がある。

 嘘じゃない、そう言う緑川医師を雅也は否定した。だって緑川の言葉が本当ならば、自分の眼の前に真里と辰美が並んで立っている訳がない。緑川医師が入って来る前から雅也の前には二人が佇んでいた。右側に真里がおり左側に辰美がいる。緑川医師の話が正しければその光景はあり得ない。俺が信じるのはいつだって自分だ、だから俺は他人の話よりも自分の眼の前に映る景色を信じる。

「それは幻覚だ」

 違う。

 お前たちからも言ってやってくれ。

 雅也の視界で辰美がいつもの微笑みを浮かべ、何事かを喋っていた。しかし声が聞こえない。唇だけをぱくぱくと動かしている。すると辰美はいきなり雅也に向かって両手を伸ばして来た。辰美の細い腕の両手首から先が消え、雅也の首から両腕が伸びている。頸を絞めているのだ。やめろ、辰美、雅也は辰美を振り払おうとした。彼の力ならば簡単に振り払える筈だった。だが辰美の腕は離れない。雅也の頸を絞め上げる。

「やめろ、辰美!」

 雅也は辰美の頸に手を伸ばした。お前がその心算なら俺だってやってやる。しかし雅也の腕が掴んだのはあろう事か真里の頸だった。自分のものとは思えない白い腕が愛する妹の頸を掴み、気道を圧迫する。よせ、今度は自分に言った。どうして真里の頸を絞める? どうして妹の息の根を止めようとする? 雅也は自分の腕を身体の方へ引っ張り戻そうとした。だがその細さに反して雅也の手はがっちりと真里の頸を掴んで離さない。自分で自分の手首を掴んで引き千切るくらいのパワーを込めた筈なのに、細腕は真里の頸に指を喰い込ませ続ける。

「真里、真里! やめろ、やめるんだ! 辰美、やめてくれぇ!」

「落ち着け! 幻覚だ、それは」

 緑川医師が雅也の身体を押さえ込もうとした。しかし雅也の体力と緑川では均衡が取れる訳もなかった。半年もの間眠り続けていたとは思えない力で緑川を跳ね飛ばし、ベッドから転がり落ちた。騒ぎを聞き付けた看護婦たちが駆け付けたが、女性が何人か集まった所で雅也を押さえるのは不可能だ。

「それは現実じゃない、恐らく君に移植した二人の角膜に焼き付いていた映像だ」

 緑川医師は雅也が見ているものが幻だと説明した。雅也の両眼は爆炎で爆ぜて使い物にならなくなった。移植をしようにもM市の病院のアイバンクには予備がなかった。そこで緑川は雅也が守ろうとした二つの遺体からそれぞれ左右の角膜を移植したのである。辰美からは右眼を、そして真里からは左眼を。つまり雅也の左眼には真里が最後に見た光景である、辰美に殺害される瞬間の映像が残っており、雅也の右眼には辰美が真里を殺そうとした時の映像が焼き付いていたのだ。それらが雅也の意思を無視してフラッシュバックし、脳を経由して現実の光景と思わせているのである。

 又、雅也の破裂した心臓の代わりに、辰美の肉体から取り出したものを手術で埋め込んでいる。辰美自身は死亡したが心臓は止まっていただけで蘇生は可能であった。病院に搬送された辰美の遺体から心臓を摘出し、雅也の胸に移植して電気ショックで蘇らせたのである。

 緑川の話を聞いて、ほんの僅かの間、雅也は沈静化した。緑川の話を脳内で整理していたのである。だが、すぐに動き出した。俺の胸には俺の妹を犯して殺した男の心臓が埋め込まれているのか? 雅也の耳には、やがて細胞分裂によって自分の身体に馴染んでゆく、その身体は誰のものでもなく君のものだという説得も届かなかった。雅也は心臓を中心に全身に広がる怖気を感じた。肋骨の中で鼓動する心臓から送り出される血液が全てウジ虫に変わってしまったかのようであった。酷い嫌悪感が雅也を襲う。そして思った。俺は生きていてはいけない、あの男の遺伝子は根絶せねばならない――!

 雅也は緑川や看護婦たちの手を振り切って窓辺に駆け寄った。病室は三階、万全の雅也であれば飛び降りても無事に済ませる事が出来るし、重症でも身体の骨を一、二ヶ所折る程度で済む。しかし、人は巧くやれば一階の窓からでも死ねる。初めから死ぬ気であれば、雅也のような肉体でも死ぬ事が可能だった。

 雅也の身体が窓から舞い上がった。視界の真ん中には避雷針が立っていた。雅也は枯れ落ちる木の葉と共に落下した。殺意に顔を歪めた辰美と、泡を吹いて死んだ真里と共に、雅也は落下した。その心臓を、伸びた避雷針が突き刺した。

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