弐
「東京にもこんな所があるんだな」
雅也はその村の光景に故郷を重ねていた。高いビルの乱立する町中を横目に見ていたが、いつの間にか景色に緑が多くなっていた。気付けば灰色に曇って見えた空は澄み切った蒼に移り変わり、都市ガス塗れの淀んだ空気は人の手の入っていない爽やかな風に挿げ替えられていた。舗装された道路は砂利道に、側溝の向こうには背の高い草、開けた景色は畑があり土の匂いが漂っていた。
志村のミニが止められたのは、その村の外れにある小さな家の前だ。下手をすれば掘っ立て小屋のようにも見える家だが、周辺は綺麗に整備されている。玄関の引き戸の横に出た表札には、“影山”とあった。朝田辰美はこの村の男と結婚したそうです、志村はそう説明した。
志村がインターフォンを鳴らした。慎ましやかな足音が擦りガラスを淡く振動させている。東京では殆ど聞かない、立て付けの悪さを思わせるスライドの音だった。どちらさまですか、上品な口調と共に顔を出した影山――朝田辰美であったが、志村の顔を見ると表情を引き攣らせ、すぐに扉を閉めようとした。
「帰って下さい!」
引き戸に革靴を突っ込んで門前払いにされるのを防いだ志村は、話を聞いて下さいと叫ぶようにして言った。影山辰美の方も必死になって、もう自分を詮索するのはやめて欲しいと志村を追い返そうとした。貴方に依頼したのが間違いでした、もう関わらないで下さい、お金が欲しいなら差し上げます。
雅也が動いた。志村を押しのけた雅也は朝田さんと声を掛けた。俺の事を覚えていますか。貴方の息子に殺され掛けた男です。
「尾神さん……」
影山辰美の表情が変わった。信じられないものを見るような顔であった。彼女にしてみれば亡霊と出くわした気分であっただろう。その心の隙間を縫うようにして雅也は引き戸を開け放ち、家の中に上がり込んだ。話を聞かせて貰いますよ、俺の中ではあの事件はまだ終わっていない、あんたたちの所為で殺された妹の真里やシホ、肉体と精神にそれぞれ後遺症を患ったメグとアキコ、地下鉄事件の被害者やその家族、そして昨夜の同時多発テロで命を落としたり重傷を負ったりした人々、そしてこれから危険に晒されてしまうかもしれないこの国に住む者たち――その全ての生命を背負って俺は来ています。
影山辰美は観念したように項垂れると、雅也たちを家に招き入れた。
「変な噂が立っては困りますから」
三人は茶の間に通された。内装はシンプルなものであった。布団を外した掘り炬燵を中心に、小さな箪笥と旧式のテレビがあり、ラジオがぽつんと置かれていた。庭に面したベランダから小さな畑が見え、季節の野菜が植えられている。土の張り付いた一輪車にはスコップやジョウロなどが無造作に突っ込まれていた。
「生きておられたんですね」
来客用の座布団を掘り炬燵の周りに敷いて、辰美は下座に端座した。二〇年前よりも痩せて小さくなったが、その分、美しさが増しているように見えた。過去の経験からであろうが常人にはない凄惨さみたいなものが、白い肌の内側から芳しく立ち上って来るようである。
お蔭さまで、雅也は言った。皮肉に聞こえるがそうではない。
「貴女のきょうだい――影蔵の子供として、D13の連中に担がれている人物の事、詳しく聞かせて下さい。それが現状を打破する鍵になる」
影山辰美は、朝田辰美であった二〇年前と同じように、意外な程呆気なく口を開いた。若しかしたら彼女はきっかけを待っていたのかもしれない。あの頃は影蔵を妄信し、自らの行ないに罪の意識はなかった。だが、M市の事件、そして地下鉄事件を受けて影蔵が罷免されスティグマが分解し、世論によって排斥された今、姿を晦まし名前を変えていた事で、或いは自身の過去を悔いていたのかもしれない。志村に対して素っ気なく振る舞ったのは無関係な人間に過去を探られたくなかったからで――志村が自身の過去を明かさなかった事もあるだろう――、当時を知る人間が決意と誠意を示したのならば、初めから全てを話す心算だったかもしれない。
「――クラウド」
あの子の名前です、漢字では“蔵斗”と書きます、影山辰美はメモ帳にペンを走らせた。あの子が生まれたのは二〇年前、影蔵が逮捕されてから暫くしての事でした。ですがその前に貴方たちの認識を正して置く必要があります。あの子は私のきょうだいではありません。いえ、或いはそう言えるのかもしれませんが。あの子は私の子供と言う事が出来ます。何故ならあの子は私がお腹を痛めて産んだ子だからです。しかし同時にあの子は私の甥、又は姪という事が出来ます。何故ならあの子の父親は尾神さん、貴方の友人であった息子の辰美(ハデス)であり、辰美の父親は私の父でもある影蔵だからです。影蔵は私に対して幼い頃からスティグマの教義を教え込み儀式と称して私と肌を重ね、そして生まれたのがあの子――私と同じ名前を持つあの子なのです。私は弟でもあり息子でもある彼とも儀式を行ないました。調合した“伊舎那”を焚くとドーパミンやβエンドルフィンなどの脳内麻薬が大量に分泌され一種のトランス状態に入ります。その環境の中で性交を行なう事で感じる異常な程のエクスタシーが或る種の解脱であるというのが影蔵の教えでした。私と同じく生れながらにしてスティグマの信者であったあの子とも交わりました。そうして私は妊娠したのです、クラウドを。
影山辰美は一息に語った。志村が苦虫を噛み潰したような顔をしている。雅也はメグが残した動画で辰美が母親を“姉さん”と呼んでいた理由を理解し、近親相姦というタブーに対する忌避感を顔に出さないよう努めていたがそれが却ってむっとした顔付きに出てしまっている。淡々と語っていた影山辰美でさえ小さく唇を震わせていた。綾部一治ばかりが普段の薄笑いにも似た表情を整った顔立ちに浮かべている。
知識の量で言えば志村に勝る雅也だが綾部はそれ以上だ。志村が影山辰美――と言うよりスティグマのベースとなった各宗教を苛烈に糾弾すれば雅也には彼の過激な発言をやめさせるネタはあるし、綾部にしても雅也以上に志村を納得させ得る語りをするだろう。しかし志村はその言葉を我慢したようだった。この二〇年で成長したな、雅也は感心しつつ、影山辰美に話の先を促した。
「影蔵が逮捕されてから私は、警察の手から逃れた数名の幹部と共に或る山中に籠りました。そこには裏社会では知られた娼館がありました。売春館……非合法な売春を行なう場所で特殊な性癖を外に晒される事を厭う大企業の要人などが良く通っていました。私はそこで幹部たちに匿われ、クラウドを生みました」
生んだと言ってもどうしても生みたくて生んだ訳ではありません。私もスティグマに対する世間の意見は聞いていました。私は客を取っていた訳ではなく、身重という事で客の受付や娼婦の世話役をしていました、そこで会うお客さまたちも時にはスティグマや影蔵の話題を出していました。そうして次第に私が間違っていたのではないかと考え、お腹が大きくなってゆくにつれ、この子を産んではならないという気持ちが強くなってゆきました。影蔵の子供である私が、私と父の子との間に更に産もうとしているこの子は、悪魔的な狂人である影蔵の血を色濃く引き継いでいます。この子を世に出してはならない。娼館には堕胎のプロフェッショナルが控えています。その老婆に頼み、私はあの子をおろそうとしましたが、幹部たちがそれを喰い止めました。ここにいてはあの子は産み落とされてしまう、あの悪魔の子が――私は娼館から逃げ出し、自分と共にお腹の中の子供の生命を断とうとしました。ですが何も知らない男性が私を助け、この村へ連れて来てしまったのです。私はその男性――影山さんと一緒に暮らすようになり、ここであの子を、クラウドを産む事になりました。それでも初めはあの子の事を許す事が出来ませんでした。どうにかしてあの子の誕生を防がねば、しかし影山さんと暮らす内に私は自分の生命が惜しくなったのです。影山さんは私に良くしてくれました、誰の子とも分からないお腹の子を自分の子供として育てるとも言いました、私は子供の事を愛しいと思い始めました。子供に罪はない、影蔵という男の邪悪な血を引いていても、生まれてもいない子供に罪を背負わせる必要はないと、そして影山さんと一緒に人生をやり直すのだと。でもそれは出来ませんでした。村の産婆さんを頼んでこの家で出産したのですが、お腹の中からあの子が姿を現した時、幾つかの奇妙な事が起こりました。それは産声が聞こえなかった事。その代わりに産婆さんが悲鳴にも似た声を上げた事。痛みで朦朧とする私は、始めはそれを夢かと思いました。仰向けになった私のお腹の上に赤っぽいものが這い上がって来たのです。それは頸の周りに臍の緒を巻き付けた赤ん坊でした。産声がすぐに聞こえなかったのは臍の緒が気道を塞いで自立呼吸を妨げていた為です。生まれたばかりにも関わらず、その上自分の力で呼吸も出来ない筈の無力な赤子は、しかし、いきなり私のお腹を登ってやって来たのです。出産の痛みとその光景の衝撃の余り、私は気を失ってしまいました。
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