3
「ネメスィを」
「ネメスィを」
その場にいた白いフードの信者たちが、読経するように言い始めた。ネメスィを、ネメスィを、ネメスィを、……夜風に紛れる低い合唱には、女の声も混じっているようであった。信者たちは辰美を含めて一三人、大人は一人もいないようで、皆、辰美や雅也と同じくらいの年齢であった。
「ああ」
ハデス辰美が頷いた。辰美は雅也の方を振り向いた。そうして立ち上がっていた雅也を見て言葉を失った。雅也は全身に圧縮ゴム弾を受けた筈だった。肉に当たれば肉を穿ち、骨に当たれば骨を砕く。雅也の頭の右側に赤黒い窪みが出来ていた。ゴム弾に抉り取られ、僅かに白っぽいものが覗いている。若し実弾であれば全身を孔だらけにされていてもおかしくなく、圧縮ゴム弾だからと言って軽傷で済ませられる訳もなかった。少なくとも、何ら特殊な訓練を受けている訳でもなく、防弾服の類を装着しているのでもない尾神雅也が立ち上がる事は不可能であるべきだった。
「何故、殺した」
雅也の声はがらがらと掠れていた。胸の近くに着弾したゴム弾は雅也の呼吸器に損傷を与え、息を吸ったり吐いたりする事でさえ困難になっている。そこを無理矢理に発声したので声に鉄の味が混じってしまうのだ。
「何故、真里を殺した? 何故、シホを殺した。どうしてお前たちは人を殺そうとする」
「ネメスィだ」
ハデス辰美は答えた。僕たちには生きるべき人を生かす使命がある。シホはスティグマの信者でありながらその信仰に背き使命を放棄した。だから天罰が下された。真里はスティグマの教えを謗り洗礼を受ける事を拒絶した。教えを否定しアルヒを否定し我々の神を否定した。だから天罰が下されたのだ。天罰の為には洗礼が必要だ。洗礼を受けた人間ならば天罰によって物質的な肉体を失っても霊的な肉体、つまり魂の救済が約束される。
スティグマの洗礼は割礼だ。男性であれば包皮の切開、女性であれば大陰唇から子宮に至るまでの何段階かに分けての切除。そして、その上でエクスタシーによって大いなる存在との一体感を得る事でスティグマ神霊会の信者として認められる。
洗礼によって真里は輪姦され、そして殺されたのだ。身動きを鎖と杭によって封じられ、顔も知らぬ者たちに身体を穢し尽され、兄の友人の指示で腹を裂かれ臓物を取り除かれた。
ふざけるな、雅也の心が吼えた。
「ふざけるな!」
血を霧のように口から飛ばして雅也は言う。ハデス辰美を目いっぱいの力で睨み付けた。眼球内の毛細血管が弾け、視界が赤く染まる。雅也の頬を伝うのは赤い涙だ。眼尻がぎりぎりと吊り上がり、怒りで紅潮した顔が血涙によってより深い赤に染まる。獣のように唇を捲り上げ、剥き出した歯を鉄のように軋らせていた。
「それがスティグマの教えか。この人殺し共が!」
「貴方が言ったんだ――」
ハデス辰美は静かに言った。何、と怒りの中に訝る色を混ぜた雅也の前で、辰美は頬を薄く染めて眼を反らした。初めて会った時の事です、辰美の言葉が敬語に戻っていた。志村たちが万引きした成人雑誌を取り戻した時、貴方は言っていました。自分の行為は律――或る集団内でのルールに於いては間違っている、けれども戒という道徳観に照らし合わせて自分を律する事が出来るならそれは間違いではないと。僕の迷いが晴れた瞬間でした。アルヒの行動は正しいのか? ネメスィは正義なのか? 僕にもそんな迷いがありました。でも、尾神くんは僕に教えてくれました。自分を信じる力があれば、ルールによって雁字搦めにされる事はない。だから僕は本当の意味でスティグマの教えを理解したんです。アルヒを疑っていた自分を恥じ、真実の信仰者になろうとする事が出来たんです。そのお陰でシホさんや真里ちゃんとも分かり合う事が出来ました。これからも僕はスティグマの信者として多くの人たちを導く手伝いをします。この穢れた世の中から、彼らの魂を解放して救済する、それが、それがアルヒの目的ですから。
熱く語る辰美に対し、雅也の眼は冷めていた。さっきまでマグマの如く噴き上がっていた憤怒は何処かに消えてしまっていた。代わりに雅也の身体の中で蓄えられ始めたのは、氷河のような冷たい憎悪である。乙女のように頬を染め、真里を殺した事を正当化しようとする辰美に対する憎しみ、そして、彼の歪んだ思考回路を形成する事を手伝ってしまった自分自身に対する嫌悪感。莫迦野郎、雅也は呟くように言ってそして叫んだ。莫迦野郎!
人を殺す事に正しさなどあるものか。人を殺す救済などというものがあるものか。命は唯一無二の大切なもの、生命は誰にも平等であるなどという綺麗事のテンプレートみたいな発言はしない。しかし、命を奪う事が正当化されて堪るものか。身勝手に歪んだ教えを押し付け尊厳を奪い取り命を消し去る事など、誰にも許されないのだ。
「莫迦野郎!」
雅也の咆哮は会話の終了を意味していた。ハデス辰美の後ろに控えていた信者たちが持ち替えた銃を一斉に構えた。今度は圧縮ゴム弾ではない。安物と見えるが実弾を込めた拳銃だった。ハデス辰美が抜いたものと合わせて一三の銃口が雅也を狙っていた。一三は死の数、ハデスは冥界の王、即ち雅也の運命であった。
さようなら、辰美の唇が動いた。一斉に銃弾が放たれた。発射された一二発の内、七発が雅也の腕や脚を貫き、もう五発はターゲットの前に立っていた辰美を貫通していた。咄嗟に身体を丸めて頭と胸を庇った雅也は分厚い腕を引き裂いて胸骨に突き刺さった弾頭の、最早感じる事の出来ない痛みを覚えながら、辰美の呆けた顔を見た。
何故、振り返りざまにそう呟いた辰美の咽喉を弾丸が打ち抜く。辰美はぷっと血霧を吐いて大の字に倒れ込んだ。初めの五発の弾丸はそれぞれ右耳を削ぎ飛ばし脇腹に孔を開け左肘を壊し腰椎を傷付けて大腿動脈から噴血させた。膝の皿を割られ腹から焦げ付いた内臓を覗かせ片眼を回転する鉛玉に抉られその場にしゃがみ込んだ雅也の前で、信者の一人が辰美に歩み寄って銃口を少年の頭部に向けた。あんたがやったのは裏切りだ、アルヒ以外を信仰の拠り所とした、よってネメスィを与える。
よせ、そう言おうとする自分が雅也は不思議であった。辰美は真里を殺した男だ。シホを殺させメグを殺そうとしアキコを危険に晒した男だった。明確な雅也の敵であり憎むべき相手である。それなのにどうして彼の助命を考えたのか。それでもやはり辰美は友だったのか。大きく歪んではいたが俺の屁理屈を真っ当に受け止めて感動するような純粋な奴だったからか。違う、誰だって眼の前で人が殺されそうになれば止めようとするだろう。その時に殺されるべきではない相手に狙われているのならば。ただそれだけの話だった。
引き金はしかし引かれなかった。夜風が騒ぎ始めた。パトカーのサイレンの音がしたのだ。一台や二台ではない、一〇台かそれ以上、この周辺のパトカーが全て集結したのではないかと思える程だった。間もなく拡声器を通した声が聞こえた。出て来なさい、君たちは完全に包囲されている。お決まりの文句だった。ほんのりと声が優しいのは、所詮は子供だけで構成された愚連隊程度だと思っているからだろうか。
今捕まる訳にはいかない、逃げるぞ、信者たちは逃走の準備を計った。最上階の広いスペースから荷物を掻き集め、部屋の中心にごろごろと複数の箱を転がした。雅也は後で知ったのだがそれが証拠隠滅の為のダイナマイトだった。突入された時に備えて出入り口に使える場所にはスイッチを仕掛けた。又、そうならなかった時の為に、爆弾に導線を繋いで燭台を倒し逃げ出す頃には爆発するようにした。いざとなれば“妖怪マンション”ごと吹っ飛ばす腹積もりであった。
奴らはどうする? 雅也の事だ。真里と、辰美の事も含まれている。放って置けというのがハデス辰美を処刑して残ったメンバーを纏める事になった信者の決断であった。どうせ爆弾で吹っ飛ぶ。そしてこの町にはいられない。武器などを纏めて逃げ出す一二人の悪の教徒たち。
残された雅也は身体の半分近くを自身の血で赤く染めながら、倒れた辰美に膝でにじり寄った。辰美は虫の息だった。いや虫にしてはまだ呼吸が強い。咽喉を銃撃されて声は出ないが呼吸器は生きており、心臓と肺を弱々しく動かすと咽喉に開いた孔からぼこぼこと血のあぶくがこぼれ出す。雅也は辰美のマントを掴んで彼を引きずり、真里の遺体の傍に向かった。雅也はもう自力で身体を起こす事が出来ない。
雅也は片方の腕を仰向けになった真里の頸の後ろに差し込んだ。もう片方の腕をどうにか持ち上げ、真里の顎の下に入れると、妹の頸を両腕で挟むようにして、両手を組んだ。何かに祈るように合掌した雅也の太い両腕は、真里の細い頸骨を破壊した。今の自分では、愛する妹の戒めを解く事が出来ない、だからせめて真里の顔だけでも持ち帰ろうとした。右腕で辰美を抱え、左腕に真里の頭を抱くと、むぅっと最後の力を振り絞って頸の骨の砕けた妹の頭部を身体から引っこ抜いた。ぶつぶつぶつと筋繊維が切断され雅也の腕には真里の生首が抱え込まれていた。雅也は歩けない、辰美の骸と真里の首を左右に抱いて、ヒルコの如く床を這う。
背後で大きな音がした。それと共に熱風が雅也の背中を焼いた。爆弾が火を吹き上げたのだ。雅也たちの身体がふわりと浮き上がり宙を舞う。爆発の威力は“妖怪マンション”の天井を抜き床を砕き建物を崩壊させた。雅也たちは爆発に巻き込まれて吹き飛ばされ、そして夜の地上へと放り出されて行った。
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