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“妖怪マンション”は戦後の高度経済成長期に計画された大型のマンションであるが、その為に森を切り拓く事を反対する運動が長く続いた事、反対を押し切って森に重機を入れた責任者が完成前に辞めさせられた事、建築会社の不手際による建物の欠陥が発見された事、バブル経済の崩壊でそれ以上の資金を捻出する事が出来なくなった事――などの理由によって、外壁を作る前の段階で放棄されてしまった。
町を出るとすぐに田畑や山林が広がる事になるが、その先へゆくと申し訳程度に整備された砂利道があり、立ち入り禁止の立て看板の向こうにその姿が現れる。上空から見ると“く”の字に折れ曲がった背の高い建物で、やがてドアが取り付けられる筈であった無数の部屋への入り口が蜂の巣のようにぽかんと口を開けている。
看板の傍にバイクを止めて“妖怪マンション”に向かって歩くと、カバーを被せられた大きな何かが置かれていた。カバーを捲ってみれば、それは黒塗りのバンであった。覚えがある。アキコの家の前に止まっていた、辰美が真里を連れ去った車だ。
雅也は風を浴びて今にも崩れそうな“妖怪マンション”の中に足を踏み入れた。建築基準法に違反していたという理由も、工事の中止には関係をしている。コンクリートの壁が剥がれている所に眼をやると、発泡スチロールが埋め込まれているような部分もあった。中に入ると風が蜂の巣の大きさに無理に身体を縮められた痛みを訴える。ひゅぅ、ひゅるるるぅという悲鳴だ。風の泣き声を感じながら雅也は足跡を見付けた。長年、この場所に打ち捨てられていた建物だ、埃は幾らでも溜まる。その埃を払う無数の靴跡があった。明かりの類はないが、雅也の眼は暗がりに慣れ始めていた。自分では気付いていないが、雅也の瞳はトラのように拡大し黄金色を帯びている。妹が危機に晒されており、その相手が友人と思っていた辰美であった事への怒りが、雅也のホルモンの分泌を活性化させているのだ。
雅也は階段を見付け、最上階まで上り詰めた。ぱちぱちという火花の弾ける音が粗悪なコンクリート越しに聞こえて来る。最上階はフロア全てが繋がった広いスペースになっており、階段を上り切るとすぐに彼らの姿を捉える事が出来た。
「辰美!」
雅也は声を張り上げた。
「尾神くん……」
静かな声が響く。白い、頭をすっぽりと覆うフード付きのマントを羽織った数名がそこにはおり、広い空間の壁際――蜂の巣の間を内側から縫うようにして燭台を並べ、風に吹き消されないように火を灯していた。辰美は白いフードの一団の一人であり、雅也の大声に驚いた者たちを手で制して、一歩前に歩み出た。フードを外すと、あの少女のように美しく弱々しかった少年の顔が、蝋燭の明かりと夜の暗さとのコントラストで、堪らなく酷薄な表情に成り代わっていた。
「真里は何処だ――」
雅也は訊いた。辰美は雅也の眼の前で愛する妹をかどわかした。真里を連れ去った車がここにあり、その犯人である辰美がここにいるならば、真里もこの場所にいる筈だ。若しいないとなれば、どのような理由があったとしても辰美を、その仲間らしき連中を縊り殺してしまわねばならない。
「彼女ならばここにいるよ」
辰美は踵を返し、雅也を導くようにして歩き出した。その辰美を中心にして他の白いフードたちが道を開ける。雅也は強く踏み抜けば簡単に割れてしまいそうな地面を一歩ずつ進んだ。進んでゆく内に、地面に奇妙な紋様が描かれているのに気付く。赤黒く、所によって掠れ、表面から剥離しそうになっている。血だった。血で描かれた幾何学模様が紡ぎ出す大きな円……魔方陣のようなものであった。スティグマ神霊会の特集が組まれたテレビで、この魔方陣を使った瞑想を影蔵がやっている様子を放送していた。
魔方陣の中央に歩を進めるに連れ、妙な香りが漂って来た。あの匂いだ。雅也はまだ知らない、この匂いが非常に強い毒性を持った“伊舎那”のものである事を。そして志村が倒れ伏した一方、この匂いで充満していた辰美の家を訪れても雅也に何の異変も現れなかった理由を。
しかし“伊舎那”の香りばかりではない。それ以外の何らかの匂いも混じっているようであった。それが何であるか分からない。その匂いを隠す為に“伊舎那”の香りを焚いているようであった。蝋燭に“伊舎那”が練り込んである。スティグマ神霊会の信者以外を殺す薫風だ。彼らは儀式の際に“伊舎那”を焚き、それ以外の感覚を麻痺させる。
雅也の靴が金属質なものを踏んだ。じゃりと音が鳴ってしなる。鎖だった。足元を見ればその通り鎖で、中心にゆく程に模様が細かくなってゆく魔方陣の上に重なるようにして置かれている。雅也が踏んだのは、ぴんと張り詰めた鎖、地面に埋め込まれた杭と杭との間の鎖だった。
それまで前を歩いていた辰美がつぃと横に動く。その動作を追った雅也であったが、すぐに正面に眼を戻した。
まり
酷く遠い所でその呟きが聞こえた。単に“ま”の音と“り”の音を組み合わせただけのもののようだった。愛しい妹、真里の事を呼んだのではなかったように思う。それも仕方がないだろう。何故なら雅也の知っている真里はこんな姿をしていない。大の字に身体を開き首と腕と手首と太腿と足首とに枷を嵌められ鎖を杭で繫ぎ止められ全身を赤黒く染め抜かれて乳房に幾つもの咬み痕を付けられ花のように割り開かれた胴体の中身を抜き取られて代わりに白っぽく濁った磯の香りのする液体を詰め込まれ黄色い眼をぎょろぎょろと剥き出した土気色の顔を血液と精液と尿でぐちゃぐちゃにされたものが真里である筈がないのだった。真里は兄である雅也から見ても美の付くような可憐な少女で元は丸顔なのだがスポーツのお陰でしゅっと細く小さな顎をしておりいつも笑顔で特に照れた時には隠すように悪戯っ子のような表情になり元気いっぱいなので捲し立てるように話すのが癖で舌から生まれたと言っても不思議ではないがそれでも鬱陶しいとかうざったいとかは感じさせない女の子の筈だ。こんな風に黙っているのは真里ではないしこんなに惨めな姿になったのも真里ではない。辰美はどうしてこれを真里と言うのだ。お前の眼は狂ってしまったのか。お前にはこれが真里に見えるのか。だとしたら――
「辰美!」
雅也のパンチが辰美を襲った。マントが拳の巻き起こす風圧で揺らめく。蝋燭の火で照らされた雅也の顔が鬼のように歪んでいた。辰美は眼を瞑って祈った。彼自身の神に。神であり悪魔であり人の似姿であると教祖影蔵から念入りに教えられたものに。その祈りが届いたのかは分からないが辰美はそうであると信じている。雅也の拳は辰美の顔面に触れる寸前に逆方向に身体ごと吹っ飛んでいった。直前に響いた無数の破裂音は、辰美の耳に入っていない。後から脳に届いた。
雅也の身体が転がった。真里の遺体の傍に。真里とは思えない骸の傍に。白いフードの信者たちがマントの下に持っていた圧縮ゴムを発射する銃が、一斉に雅也の身体を撃ち抜いた。
「た……助かったよ……」
辰美の声は震えていた。全身にべっとりと汗を掻いている。一〇分程度蒸し風呂に入ってもここまで発汗はしないだろうと思えた。そして寒空の下で水垢離をしてもここまで全身が冷える事はないだろう。
「ハデス」
白いフードの一人が言った。ハデスというのは冥界の王の名前だ。スティグマ神霊会では信者に対して何らかの洗礼名を与えている。割礼を受けさせ、身体に聖痕を刻み込むと共に、スティグマの信者としての名前を授けるのだ。辰美の場合はそれがハデスであるという事だった。
「その男は、我々の計画を知っているのか」
「多分」
「ならばすぐに、ネメスィを」
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