第14章 散華する冥王
1
雅也は朝田辰美と向かい合っていた。と言っても、アキコの家から真里を攫った、雅也の友人である所のあの辰美ではない。雅也が辰美と呼んでいた少年が、母と言っていた女である。
雅也と朝田辰美は、朝田家のリビングで向かい合っていた。火傷を負ったアキコを救出した雅也は病院に戻って彼女を預けると、すぐに朝田家に向かった。メグの病室に充満した有害ガスや自決を計った小井出について気になる事もあったが、それらの疑問は朝田辰美が解決してくれるような気がした。無論、彼女に真実を話す気があれば――だが。雅也にはそれが疑問であり、ソファに座らせた朝田辰美が後ろ手に縛られているのも、その為だった。
猿轡を外した途端、小井出のように舌を噛み切ってしまうかと思われた朝田辰美だったが、意外にもすんなりと雅也に対して真実を開示した。それが雅也を油断させる手かもしれない、そう思ったから手足の拘束は緩めなかった。
「私たちです」
朝田辰美は言った。
「彼女を殺したのは」
シホの事だ。メグのカムコーダーが記録していた動画については言い訳が利かないが、これについても真実であると認めた。雅也は彼女に掴み掛ろうとする自分を抑え、飽くまで冷静に対話する心算であった。
「全てを話してくれ」
辰美が真里を何処へ連れ去ったのか、それが分からない今、縋るべきは捉えた朝田辰美ただ一人であった。その焦燥や懇願する気持ちを表に出さぬよう、むっと顔を顰める雅也であった。
「それには、私たちがこの町へやって来た訳から話さなくてはなりません」
「話してくれ」
「はい。私たちは、アルヒの命を受けて、この町へやって来ました」
このM市に――
アルヒというのはギリシア語で“始まり”を意味する言葉だ。スティグマ神霊会では転じて教祖の意味で用いている。つまり、影蔵・シヴァジット・獄煉の事である。
「アルヒはこの町に私たちのガランを建立なさりたいと仰っています。首都圏からは離れていますが決して交通の便は悪くなく、過疎化も進んで物静かで土地の価格も安い……」
「あんたたちは、その下調べに来たっていう所かな」
「下調べはもう終わっています。私がやって来たのは引き継ぎの為です」
「引き継ぎ?」
「この町を中心としたネットワークを形成する事を」
「ネットワーク⁉ ――まさか」
脳裏を掠めたのはシホの事だった。シホは雅也に元スティグマ神霊会の信者であると告白した時、自身の家庭の事情についても教えてくれた。彼女の父はIT系の事業で成功し、在宅ワークのモデルケースとなる為に東京からM市に戻って来た。それは表の理由だとシホは言っていたが、裏の理由を聞く前に彼女は殺されてしまった。それがその理由だろうか。
はい、朝田辰美は頷いた。ですが計画は遅々として進まず、定期的な報告もなくなっていたので、私たちがやって来たのです。そうしていざ接触しようとすると、既にシホの父は事故で死亡し、母親は失踪していた。調べている内にその事が分かり、シホを監視していた所、彼女が雅也に対して父親の真の目的を明かそうとしたのを知り、殺害に踏み切ったのであった。
「この町で、何をする気なんだ」
朝田辰美は答えなかった。不意に視線が泳ぎ出し、何かを気にしているそぶりを見せた。雅也は、彼女の視線の先にあるのが時計だと気付き、時間を気にし出した彼女を不審に思った。
「何を見ている? 誰かと待ち合わせでもしているのか」
「――貴方は……何ともないのですか」
「何が?」
「いえ……」
朝田辰美はそれ以上は語りたがらなかった。無理にでも口を割らせるべきとも思ったが、しかし、彼女が気にしているのは雅也個人の事であるようだった。今、優先すべきは雅也の事ではない。彼女の息子である辰美が、恐らく他にもいるであろうスティグマ神霊会の仲間たちとこの町で何を企み、雅也の愛しい妹の真里を攫い何処へ向かったのか、彼女から情報を聞き出す事だった。
この謎は、二〇年後に解消される事になる。朝田家のリビングには“伊舎那”を活けた花瓶があった。庭で栽培されていたあの植物こそが“伊舎那”だったのだ。そして朝田辰美はメグの病室にも“伊舎那”を持ち込んだ。“伊舎那”を毒ガスとして使用するその実験がM市では行われており、後に東京の地下で非戦争時の国内に於いて起こるべきではないテロ事件として語り継がれるようになった。メグの病室やこの朝田家にはガス化した“伊舎那”が充満し、朝田辰美はこれを用いてメグを殺害しようとし、志村は気分を悪くした。雅也にもその症状が訪れる時間がそろそろだと思って、朝田辰美は時計を見たのだが、いつまで経っても彼の様子は変わらなかった。
この町で何をしようとしている、雅也は再び訊いた。女を殴るのは主義ではないが、いざとなればそれくらいはする。この質問にはどうあっても答えて貰わねばならなかった。影蔵はこのM市に新たにガランを、しかも独自のネットワークを形成するなどと入念な準備をした上で建立しようとしているのは、何故なのか。
「滅び……」
「滅び?」
「この世界はいずれ滅びてしまいます。ですから、その前に、救われるべき人を選ばねばなりません。その為に、アルヒの教えを信じて生きてゆかねばなりません。しかし、アルヒの事を信じない者が余りにも多過ぎます。そうした人たちに対して、アルヒはネメスィを与えなければなりません」
ネメスィとは、ギリシア語の“天罰”を意味する言葉だ。スティグマ神霊会では人間は存在そのものが悪意に満ちたものであると設定する為、神による罰は当然のものとして受け止めなければならず“修行”の意を込めて使われる事もある。神霊会に採用されている階級であるが、これが上位になってゆくにしたがって、ネメスィは厳しいものが課せられる事になっていた。
その罰を、スティグマ神霊会を信じない者たちに与えるとはどういう事か? 雅也はこの疑問が引っ掛かったと同時に、朝田辰美の発言に寒気を覚えた。雅也はスティグマ神霊会がM市にガランを建てようとする理由を訊いた。しかし、朝田辰美が答えたのは世界の滅びだの天罰だの、少しずれた答えだ。雅也にとって宗教は方便で、神話や教説が実際に合ったものと断定する事はしない。彼らが語る事は兎も角、計画する事には実用的な理由がなければならない。ガランの建立は布教の規模を広げる為だ。その答えを経てから語るべき事を、一足飛びに朝田辰美は口にした。
それに語った内容もおかしい。まさかこの女は、いや、影蔵を信奉する者たちは、影蔵の言葉を完全に信じ切っているのか。世界が滅ぶ時、スティグマを信じれば救われると。そして彼らを信じない者に対しては“罰”を与えねばならないと。それを本気で――
考えてみれば、そこまでの信仰があるから、彼らは簡単に人を殺してしまえるのだ。影蔵の言葉が、教えが正しいと熱狂するから、影蔵が殺せと言えば人を殺せるのだ。それは更にネメスィの大義名分を持つ。天罰ではあるが、それは同時に修行なのだ。修行をする人間、信仰する人間には救済が約束される。つまり彼らは、天罰と称して人を殺す事が、被害者を滅びから救う事になると思っている。
「何処だ⁉」
雅也は声を荒げた。辰美は何処にいる。他にも仲間がいるのか。いるとすればそれは何人で何処に潜んでいる。雅也は朝田辰美の胸ぐらを掴み上げた。鬼気迫る表情の雅也に屈したのか、それとも初めから隠す心算はそうなかったのか、朝田辰美は息子の居場所を教えた。町外れの“妖怪マンション”、スティグマ神霊会の支配がこの町に及んだ暁には、そこにガランを建立する予定だった場所だ。
雅也は家を飛び出し、オートバイに跨った。真里が危ない――
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