「どうしたんですか?」

 丁度、雅也が頼んだ料理と飲み物を持って来たましろが言った。まだ外は危険ですよ、さっきケータイで見ましたけどテロみたいな事が頻発しているようなんです。怪我もしてるし、ここにいた方が安全ですから。

 そういう訳にもいかない、外が危険だと言うのなら尚更だ。志村から影蔵の娘についての情報を得なければならない。それでこの騒動が収まる訳ではないだろうが、その為に必要なピースの一つである筈だった。

「そうですか、でもせめて、栄養だけは付けて行って下さい」

 ましろはテーブルに料理を並べた。テーブルの上いっぱいに広げられた食べ物は、雅也の食欲を刺激した。しかし、今はそれを平らげている時間はない。雅也はまだ熱を持っているスパゲティを素手で掴み取り、口元に運ぼうとした。そして不意にその動きを止めた。

「尾神さん?」

「――何を入れた」

 え、と不思議そうな顔をするましろ。雅也は、このスパゲティに何を入れたのかと訊いた。何を入れるも何も、提供している料理はインスタントで、湯煎かレンジで温めるかしかなく、調味料を入れる必要はないとましろは説明した。ではその後で何かをこの料理に混ぜただろうと雅也は詰問した。そしてその名は“伊舎那”というのではないか?

「何の話ですか⁉」

 悲鳴のような声をましろは上げた。実際、雅也が言っている事の意味が分からないような態度であった。雅也は眉を八の字に歪めたましろを見て、ともするとましろは本当に何も知らないのではないかとも考えた。だが、雅也の嗅覚は覚えのある匂いを捉えている。この匂いは“伊舎那”のものであるに違いない。それが、ましろの並べた料理から漂っているという事は、つまり、そういう事であろう。

 そうすると分からない事もある。ましろが“伊舎那”を自由に扱える――D13の人間であるとすれば、何故、彼女と初めて会った夜、ましろはD13の工作員に捕らえられていたのか。その事も含めて詰問せねばならない。

 “伊舎那”を混ぜられたパスタを皿に戻し、アルコールティッシュで手を拭きながら雅也がましろに詰め寄った。ましろはただならぬ気配、獰猛な獣のような敵意を滲ませ始めた雅也に怯えた様子で後退った。その怯えは心底のものか? 蛇に睨まれた蛙のような恐怖に支配された表情は本物か? 雅也には分からない。雅也に分かるのは、人間は嘘吐きだという事だ。喜ばしくとも笑わないでいる事が出来る、怒っていても平静を保つ事が出来る、哀しくても涙を流さないようにできる、楽しくても無表情を貫ける。恐怖だってそれなりのトレーニングを積めばコントロール出来る。恐怖とは横隔膜がせり上がる事によって圧迫された心臓が苦しくなって激しく鼓動する事だ。鍛錬によってその動きを制御する事が出来るのならば、恐怖を消す事も演じる事も難くはない。ましろはどっちだ?

 すると、いきなり地上へ続くドアが蹴破られた。狭い階段を慌ただしく降りて来る者があった。やって来たのは数名のチンピラだ。手には棒状の鈍器を持っており、その内の一人は拳銃を構えていた。やはり――雅也はそういう顔でましろを睨み付けた。チンピラたちの敵意は雅也に向いている。ましろが何らかの方法で彼らに雅也の居場所を知らせたのだ。

「死ねッ」

 チンピラの一人が階段から飛び降りるようにして、雅也の頭上から鉄パイプを振るった。雅也は左手で鉄パイプを受け止めると、右手でパスタの皿を掴んで男の顔面に叩き付けた。皿が割れ、ミートソースと男の裂けた顔からの出血が混ざり合った。

 チンピラたちは早々と雅也と接近戦をする事を諦めたようだった。正しい判断だ、身動きの取れない空中に身を躍らせたとは言え、それだけに鉄パイプを振り下ろす一撃は威力が乗っている。そんな攻撃に一欠けらの恐怖も覚えずに反撃して来る相手と近い間合いで殴り合う心算にはなれない。拳銃を持った男が数段ばかり下りて来て雅也に狙いを定めた。

 だが引き金を引くより早く、銃を持ったチンピラは後ろから蹴り飛ばされて階段を転がり落ちた。何だと出入り口を見上げた男たちも、フラッシュのように駆け抜けた質量を持った風に打撃され、悶絶、或いは脳震盪を起こして階段から落下した。僅かに射し込む町の明かり背に受けて階段に立っていたのは、丹波麗奈であった。

「尾神さん、こちらへ!」

 麗奈に指示されて雅也はましろを小脇に担ぎ、階段を駆け上がった。店から出ると、あそこだと言う声が聞こえ、向かいの道から武器を持った人たちが駆けて来る。麗奈は拳を前に構え、彼らと一戦交える覚悟を決めた。すると武装したチンピラたちと雅也たちとの間に、一台の乗用車が滑り込んで来た。

「どちらまで?」

 窓から顔を出したのは綾部一治だった。雅也は後ろのドアを開けてましろを放り込むと共にシートの上に飛び乗り、それを見た麗奈が助手席のドアを開けて乗り込んだ。綾部はドアが閉まり切る前にアクセルを踏み込み、チンピラたちを振り切って走り出した。ドアに飛び付いて来るチンピラに、雅也がドアを開いてぶつけてやった。道に並んだ連中にも、開けっ放しのドアのラリアットを喰らわせてやる。

 助かったぜ、綾部に言うと、志村から着信があった。

「志村、新宿だったな? 今から合流する」

「え⁉」

 でしたら良い場所がありますよ、綾部が運転席から言った。私が普段から借りているホテルです。綾部が言った場所を、雅也が電話の向こうの志村に伝えた。高級ホテルじゃないっすかという志村の悲鳴が聞こえた。雅也は、今からD13の人間と思しき子を連れてゆくと言って通話を終えた。

「――あの車」

 麗奈がぽつりと言った。バックミラーに、明らかに綾部の車を尾行しているものがあった。綾部はただでさえ謎の暴動で混乱している道を、制限速度をオーヴァーし、信号機を無視し、車の間を縫うようにして走っているが、それを正確に追跡して来ているのである。

「撒きましょう」

「撒けるか?」

「この車のナンバーは控えられているでしょうから、途中で乗り換えます。何、替えの車は用意してありますからご安心を」

 手順はこうです、綾部は説明を始めた。ここから少し言った所に、車が一台しか通れないような細い路地があり、その出口に替えの車を停めてある。路地から助手席側を替えの車に向けるようにして停め、出口を塞ぐから、その一瞬の内に車に飛び移って欲しい。替えの車は綾部が持っている鍵で自動でドアが開くようになっている。

「丹波さん、免許は?」

「一応持っています。マニュアルですけど」

「では運転はお任せします。私は尾行の車の眼を眩ませますので」

 ですがご心配なく、きちんと付いて行きますよ――綾部は薄く笑った。唇をつぃと吊り上げ悪巧みをする子供のような顔をしていた。

 間もなく綾部の車はその路地を曲がった。サイドミラーが左右の壁に擦れて火花を散らす。捨てられていたゴミを踏み潰した。出口に別の車が見えている。車高が低く前に長い左ハンドルのスポーツカーだ。綾部は麗奈にキーを渡し、運転席と後部ドアを開かせた。追手の車もどうにか路地に侵入して来た。路地からバンパーを少し出した所で綾部がハンドルを切る。ボンネットの形を歪めながら車が路地に対して垂直になる。

「今です!」

 麗奈とましろを抱えた雅也がドアを開け、片方の足で地面を踏み、そして蹴った。替えの車に乗り込むと、麗奈は鍵を挿し込んでエンジンを掛け、シートベルトもせずに走り出させた。その背後、車が飛び出した路地から、黒い煙が立ち上る。それをバックミラーで確認した麗奈が綾部を心配した。ましろを抱きかかえた雅也は心配するなと言った。あの男は俺や君とは違う意味で並ではない。

 麗奈は雅也とましろを乗せて新宿へ向かった。

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