第十一章 終焉への足音

 あれから、D13は大きな動きを見せていない。恐らく、雅也が雑居ビルで制圧した二人組も、あの爆弾は保険として抱えていただけであって、実際に使う事になるとは思っていなかったのだろう。しかし、予定外の事が起こったとしても自爆する事を想定しているというのは、かなり肝の座った者たちであると言える。

 ――いや、そうではない。雅也は知っている。彼らは、D13がホワイトロータスであり、ホワイトロータスがスティグマ神霊会であるとすれば、彼らは自らの死を恐れない。彼らにとって現世は穢れで満ちた悪しき世界であり、彼らの神を讃える事によってその死後は安楽なる世界が約束されている。だから、彼らは死ぬ事を恐れない。寧ろ、悪しき世界から解き放たれる事だと考えて死を礼賛する。

 ――いや、これも違う。彼らは死そのものを肯定しているのではない。雅也がこう思うのはスティグマ神霊会の教義に少しばかりも納得しているからではない。彼らの教義で言うのならば死はどのような形であれ死であり、老衰も重病も大怪我も不慮の事故によるものも自死であっても殺人でさえ肯定されるべきだ。だが、雅也には分かっている。彼らが自らの死を肯定する時、その瞬間に満足感を覚える。自己陶酔に基づく自己満足だ。それは何故かと言えば、彼らは自分自身で選んだ死にしか陶酔出来ないからだ。あの男たち、自爆した二人は恐らくその自己陶酔を覚えて炎の中に消えた事だろう。しかしダイビングスクール“おむろ”の御室惣治郎やその学生たちはどうであっただろうか。雅也の訪問に続くであろう何らかの捜査を恐れたD13の幹部と思しき美堂沙織が食事に持った毒によって死んでしまった。それは果たして納得の上での事だろうか。いや、雅也に盛られた毒の量からして、あれは急場に思い立った殺害であったと思われる。突然訪れた、自らの意思の関わらぬ死であっただろう。

 その時、彼らは何を思うのか。襲い来る不快感に、手足の感覚が消失してゆく瞬間に、何を感じたのか。きっと何も思わない。少なくともその感覚に陶酔はしない。理不尽な死を礼賛する事はない。それは誰だって同じ筈だ。誰が自らの死を悦ぶものか。いつかは訪れるものだとしても、時ならぬ時に迫り来る死には恐怖を抱いてしかるべきだ。それが自然だ。その恐怖を与えるだけで、信仰だの解放だの幸福だのとのたまうスティグマ神霊会に、神の名を冠する資格はなかった。宗教とは人が幸せに生きる為にある、人は自らの不幸を克己する為に神を信じるのだ。それを説くべき者たちが、生命の消失という不可避にして絶対的な不幸をばら撒いて良い筈がないのだ。

 雅也は、いつものラーメン屋でいつものように大量の注文を黙々と平らげながら、スティグマ神霊会への怒りを改めて燃え上がらせていた。

 ここ数日の間、ずっとD13の事を考えている。毎日のように各地で発生している凶悪犯罪、その陰に潜んでいるかもしれないホワイトロータス・スティグマ神霊会に思いを巡らせ、怒りや憎しみの心を育てていた。俺が奴らを終わらせる、その使命感と、やがて来るその時に必要になる力を蓄えているのだった。

 食事を終えて店を出た雅也は、当てもなく都会をうろつき始める。尾神雅也は眠らない。ダイビングスクール“おむろ”で“伊舎那”を呑まされて倒れ、あの時に久し振りに意識を闇の中に手放してから、再び雅也の不眠の日々が続いていた。雅也の眼の下には病院で目覚めた時に僅かに薄れた隈が再び濃く浮かび上がっている。睡魔に襲われない訳ではない。そういう時にはジムで身体を虐め抜き、意識を奪われないようにしていた。食事を大量に採るのは、睡眠欲に変わるものを求めての事だ。今の雅也は、睡眠欲の殆どを食欲に変換し、どうにか身体を保っている状態である。意識を常に目覚めさせて置かなければ、雅也の脳裏に刻み込まれた呪わしき過去が蘇る事になる。それを封じ、自分自身を保つべく、尾神雅也は眠らない。

 町を歩く雅也は、パトカーや警官の巡邏が多くなっている事に気付いた。飲食店の全面禁煙が定められ、路上での喫煙にも厳しくなっている。道路や生垣、酷い時にはゴミ捨て場に熱を持っている吸殻を放り捨ててしまう人間にはそうした監視の目も必要だが、無論、それだけではないようだった。あのビルの自爆テロの一件から、この辺りでも警戒が強まっている。私服警官の姿も増えているようだった。そう言えば最近、二〇年前の事件で逮捕された影蔵獄煉を始めとするスティグマ神霊会の信者たちの身柄が移されたという話をネットの噂程度ではあるが眼にした。恐らく死刑執行の日が近付いているのだろうという予測がされていた。これに対し、執行反対を求める旧スティグマの信者たちの声が高まっている地域もあるらしい。

 そんな事を考えながら、あのビルの近くを歩いていた雅也に、一人の警官が声を掛けた。煙草も吸っていないし不審な挙動もしていないのに何故と訝る雅也に、最近物騒ですからとちょっとした聞き込みをして来た。他にも道ゆく人たちに色々と訊いて回っているらしい。別に変な事には出くわしていないさと雅也は言い、ご協力ありがとう御座いましたと警官は敬礼した。それにしても良い体格をしているね、警察官を目指してみないかと言われたが性に合わないよと断った。そうして警官に背中を向けたのだが、その瞬間に雅也の首筋にちりちりとした感覚が走った。振り返りざまに片方の足を振り上げると、スニーカーの踵が警官の右手を蹴り上げていた。刹那、夜の町に響く火薬の弾ける音――銃声だ。

 雅也の蹴りを浴びた警官の手首は砕け、その衝撃で発砲された銃を保持する事が出来なくなっていた。周囲を歩いていた人混みに発射された弾頭が落下するより早く、警官は腰から警棒を引き抜いて雅也の咽喉元を狙った突きを繰り出した。雅也は警棒を掴んで止めると相手の力を受け流して警官を放り投げ、地面に背中から落ちた警官の胴体に足刀を下した。潰れた蛙のような悲鳴を上げて警官が白眼を剥く。

 雅也は舌を突き出した警官の口に、奪い取った警棒を噛ませた。舌を噛んで自殺するのを防ぐ為だ。雅也は、綾部一治や志村がD13は既に警察組織や国会議員の中に工作員を紛れ込ませているという話を思い出した。この警官がD13の人間であるなら自分たちを探している雅也を狙うのも納得出来る。そしてD13の人間であるという事は、情報を守ろうとして自死を選ぶ事は誇り高いと狂信しているという事だ。

 その警官を抱え上げ、D13について聞き出す為に移動しようと思っていた雅也だったが、ふと周囲の異変に気付く。普通、こんな騒動があったのならば何らかの混乱が生じる筈だ。実際、眼の前で起こった事態に困惑している者がおり、良く分からないがスマフォのカメラで写真や動画を撮っている人間もいる。だがそれ以上に、冷徹な眼で現場を観察している者たちが多いのである。いや、観察者の眼ではない。その視線から感じる冷たさは、肉に喰い込む刃物の温度だ。神経が警鐘を鳴らす、間もなく肉が燃えるように熱くなる。

 予感は的中した。野次馬の中からぱっと飛び出して来た男は手にナイフを握っていた。空気を裂いて突き出されたナイフを、雅也は男の手を打つ事で無効化した。だが、周囲から次々と武器を持った人間たちが襲い掛かって来る。得物は様々だ、果物ナイフ、傘、鉄パイプ、金属バット、ブラックジャック、フライパンやまな板で襲ってくる者もある。そして獲物はただ一人、尾神雅也だった。

 一人の人間に襲い掛かる大勢の者たち、何も知らない一般人たちは隣にいた人間が突如として表した狂気に更に混乱を深めさせられた。男も女も子供も老人もサラリーマンもキャバ嬢も学生もホームレスも、様々な職業や人種の者たちが左右の瞳の異なる男に対して迫ってゆく。

 最初の数名だけならばどうにかなった。だが、その数が一〇人を超え、四方八方から殴り掛かられるようになっては流石に苦しくなった。どうにか隙を見て包囲網から抜け出すと、その雅也を追って飛び掛かって来たり、手に持っていたものを投げて来たりする者があった。分厚い板が唸りを上げ、棒状のものがくるくると回転しながら迫る。無関係な人間を怪我させては不味いと逃げた先にいて反応し切れなかった人を守るべく、雅也の手が投擲物を払い落とす。それがハサミやカッターのような刃物であった時は、当然皮膚を切られ、酷い時には肉の内側にまで潜り込んで来る。

 広い交差点に出た。歩行者用の信号は赤で、車が行き交っている。雅也は横断歩道に飛び出した。自動車の隙間を縫って道路を渡り切ってゆく。目前に迫る車のバンパーに飛び乗り、別の車に飛び移った。車でその場を離れた所で街路樹の枝に掴まって道路に戻る。襲撃が始まったポイントからはだいぶ遠ざかる事が出来た。警戒心を解いてはならない、そう思った時間が警戒心を説いた瞬間だった。雅也の肩に、猛スピードで飛来した物体がめり込んだ。町中で狙撃銃まで持ち出したようだった。

 肩の傷口を押さえながら、姿勢を低くして逃げようとする雅也。すると道路から白い光が雅也の視界を埋め尽くした。一台の車が歩道に乗り上げて突っ込んで来る。雅也は前方に飛び込んで車を回避した。背後で凄まじい音がした。振り返れば、突っ込んで来た自動車の長さが三分の一くらいになっている。道路沿いの建物の壁を陥没させながら、自らのバンパーも内側に潰してしまったのである。雅也の鼻がガソリンの匂いを捉えた。

 姿勢も構わず走り出した雅也の背後で爆発が起こった。雅也を狙撃した人物が、今度は車のエンジンをぶち抜いたのだ。漏れ出して気化したガソリンはタンクが打ち抜かれた際に起きた火花で引火して暴発、巨大な鉄の機械をただのものの塊に変えてしまった。背中を紅蓮の舌先で舐め上げられながら雅也の身体が吹っ飛んでゆく。

 アスファルトに叩き付けられた雅也であったが、もたもたと寝転がってはいられない。今の爆発で仕留め切れなかったとなると、次の狙撃がやって来る。雅也は裏路地に入り込んだ。これで狙撃手からは身を隠せる筈だ。路地を抜けると花街だ。ゲーセンとパチンコ屋とラブホテルとソープが並んでいる。華やかな色町に飛び出して来た満身創痍の男に、一つ向こうの通りの騒ぎを知らない者たちは不審な眼を向けている。

「尾神さん!」

 知った声が雅也を呼んだ。こっちですと言うのはいつかのキャバ嬢、愛川ましろだった。

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