いや、と答えた。辰美の母親が持って来てくれたんだ。辰美も頭を何針か縫ったからな。志村はふぅんと頷いた。志村も不良なりに地域の事は分かっている。この辺りに自生する植物の名前は大体分かっている心算だった。その知識の中にないものであったから訊いたのだ。

「この辺りじゃ生えない花だな」

「東京から持って来たものらしい」

「へぇ、確かに都会っぽいこじゃれた花だぜ。あの野郎とそっくりだ」

 病室を出て、白い廊下を歩きながら、志村はぽつぽつと言った。

「奴は元気なのか?」

「辰美の事か? まぁ、何とかな」

「俺も頭なら何遍も切ってるからよ、大した事はねぇやな」

「俺たちと一緒にするなよ」

「へ――しかし、これで奴も不潔だ何だとは言えねぇな」

「――」

「母ちゃんの事さ」

「辰美の前では言うなよ……」

 潔癖が過ぎる人間は、例え強姦事件であっても、被害者にも何らかの問題があったのではないかと考える気配がある。t身体のラインがはっきりと出た服で人通りの少ない道を一人で歩いていたであるとか、そんな理由を見付けてふしだらだとか不用心だと言って、罪の比率を操作したがる。辰美の精神的な潔癖症は、そうした危うささえ感じさせるものであった。志村は、母親が強姦の目に遭ったのだ、それまでの思想では肉親をくさす事になる、それでも辰美は不潔と言い続けられるのか、そうした事を言っていた。雅也はその言葉は辰美の心を無意味に傷付ける事だ、お前たちがシホやメグを傷付けられて憤りを覚える事が出来るのならば、これ以上辰美を傷付けてはいけないと言い、警告した。そうしてからふと思い返したのはその辰美の母親の顔である。

「どうした?」

 立ち止まった雅也に志村が声を掛けた。人の行き来は少なくなっているが、廊下の真ん中で止まっていては邪魔になる。雅也はああと生返事をして歩き出しながら思考を続けた。メグを見舞いに来た雅也は辰美の母親と出会った。メグにお見舞いの花を持って来たのである。その花を花瓶に活けたのも辰美の母親だ。その時、彼女は平生と変わらない調子であった。無理やり誰とも分からない男に犯された、その事を微塵も感じさせない、しかし無理をして平静を保っているのではなかった。その何でもないような様子が妙に気になった。息子が怪我を負わされ、落ち込んではいられないというのも分かるが、それにしては怪我をした辰美の事を殊更に気を付ける風もなかったように見える。

 巧く言葉に言い表す事が出来ない。だが、やはり妙だった。さっきまでの贋作を掴まされたような感覚も相まって、心臓の辺りがむず痒くなっていた。自分の指を胸骨の奥に眠る臓器に突き立てて掻き毟ってやらねば気が済まないようなものである。その雅也の背中を、志村がぽんと叩いた。ふん、と鼻を鳴らして眼を背ける志村。雅也は彼の背中をぽんと叩き返した。

 病院のドアを潜って夜の外気に身を晒した所で、駐輪場に一台のオートバイが滑り込んで来た。小井出が乗っている者であった。ヘルメットを外した小井出に、真里はどうしたと訊くと、アキコを信用して家まで付いて行ったよと答えられた。書面だけで仲が良い訳でもない相手を信用出来るとは、余程の莫迦かそれとも雅也に対する信頼感が桁外れであるという事だ。きっと今まで、人から裏切られた事がないんだろう。周りを良い人たちに囲まれていたんだな。羨ましいぜと小井出は言った。それは、雅也自身が他人を決して裏切らない人物である事の証明だ。人を裏切る事のない心と、それを証明する力を持っているという事である。

「アキコの様子はどうだ」

「まだ目は覚まさねぇよ。面会時間は終わっちまってるぜ」

 少しは無理を言っても聞いてくれるだろう、小井出は駄目で元々さと病院のドアを潜った。顔見知り同士なので少しも融通を利かせてくれるだろうという算段であった。

 雅也は志村にバイクの鍵を貸せと言った。お礼に家まで送って行ってやる。俺のバイクは爆発してしまったからな。志村は男の後ろに何か乗れるかと言って断った。だけどバイクは貸してやるとよ鍵を出そうとした志村だったが、むっと怪訝そうな顔をした。上着のポケットに入れて置いた筈のバイクの鍵がなくなっていた。

「……あの時か。お前を殴った時……」

 メグの病室で雅也の顔面に拳を叩き込んだ時、勢い余ってポケットからこぼれ落ちてしまったのかもしれなかった。俺が取って来るよ、バイクは貸してくれるんだろ、志村に言って、雅也は病院に引き返した。ああ、そうかいと志村は両手をズボンのポケットにそれぞれ突っ込んで、拗ねたように唇を歪めて帰路に就いた。雅也の自宅よりも、自分の家の方が近いのだ。所が、病院の敷地から離れて少しした田んぼの傍で、志村は急に気分の悪さに襲われた。何度もえずき、排水溝に向かって胃の中のものを吐き出した。黒っぽい水の中を泳ぐ蛇が、志村の吐瀉物に絡み付いてくちゃくちゃと咀嚼し始めた。志村の視界がぐるぐると歪み、手足が痺れ始める。余りの不快感に意識が耐えられず、志村は自らブラックアウトした。





 志村が道端で倒れている頃、雅也はメグの病室の扉に凭れ掛かって、彼と同じような不快感を味わっていた。だが、倒れ込む程のものではなかった。少々の手足の痺れは感じられるが、正座を一〇分ばかりした時と大差のないものであった。眼の前ではぱちぱちと虹色の火花が散っているが、バランス感覚を失っている訳でもない。この短期間に色々あり過ぎて、自分自身でも認識出来ない疲労が溜まっていたのかもしれない。事件が取り敢えず終息した事でそのストレスが、一斉に襲い掛かって来たのだろう。俺もこの後で医者に掛かるようかな、そう思いながらもバイクの鍵を拾う為に病室のドアを開けた。

「――何をしている!?」

 雅也の不快感が一息に吹き飛んだ。メグの病室で彼女のベッドの傍らに立ち、クレンメを操作しようとしている。クレンメとは薬液の点滴速度を調節する部品であり、素人が操作して良いものではなかった。小井出は背後から鋭く叫んだ雅也に驚いたが、彼の顔色が蒼いのを見るとふふんと勝ち誇ったような笑みを浮かべた。何をしているともう一度言い、病室に足を踏み入れた雅也はその場で膝を突きそうになった。病室の空気がさっきまでとは全く異なっていた。眼に見えない霧のようなものが充満し、異物に対して反応したようだった。

「悪いな、尾神」

 小井出は雅也のボディにパンチを入れた。少しとは言え弱っていた雅也は苦しそうに呻いて病室の冷たい床に倒れ込んでしまった。効果はてき面みたいだなと言う小井出の声が聞こえた。効果? 何の事だ……声が出なかった。

 小井出が部屋から出てゆこうとする。だが、その肩を雅也の手が掴んでいた。さっき声を掛けられた時と同じで小井出は驚いた顔をしたが、今度はその表情がすぐに変わる事はなかった。寸前までよりもずっと蒼白く変色した顔で雅也は小井出を睨んでいた。小井出は死神の鎌を頸に当てられた気分だった。雅也は小井出を壁に押し付けて詰問した。何をしていた?

「何をしていた、小井出!」

 ぶつりという嫌な音がして、小井出の閉じた唇から赤いものが溢れた。小井出は血の泡を吹き始める。雅也は小井出の口を抉じ開けると、気道を圧迫しそうになっていた肉片を取り出した。舌を噛み切ったのだ。鉄の香りが漂う。

 雅也はナースコールを押すと同時に、窓を壊すようにして開け放った。新鮮な空気が病室の中に入り込んで来て、いつの間にか蓄積されていた不穏なガスを吹き飛ばす。

 看護婦が駆け込んで来て、血を吐いて倒れている小井出を見て短く声を上げた。これは一体どういう事です? 蒼い顔をした雅也はすぐには答えない。雅也にも何が起こっているのか分かっていないのだった。だが雅也は、看護師に介抱される小井出の手を見て訝しんだ。小井出の手にはいつの間にか無線ベルが握られている。既にメッセージは送信された後のようだった。小井出の手から無線ベルの端末を毟り取ると、

 4281

 という数字が並んでいた。雅也に壁に押し付けられてから舌を噛み切り、意識を失うまでに急いで打ち込んだのだ。4281……し・つ・は・い……失敗。何を失敗したのか? すると不意に少女の呻き声が聞こえた。雅也はベッドに眼をやった。メグが眼を覚ましていた。

 雅也はメグのベッドに駆け寄った。メグは自分の顔を覗き込んだ雅也を見上げてほっとしたような表情になったが、直後、呼吸器の内側を白く曇らせながら弱々しく告げた。

「く、狂、ってる……」

「狂ってる? 何がだ!?」

「あ、あいつ……朝田……あいつ、ら」

「辰美が?」

「家、あさだ……軒下に……かめ……ら」

 それだけ言うのが精いっぱいだったようだ。メグは再び意識を失ってしまう。雅也は嫌な予感を覚えて、メグが言った朝田家に向かおうとした。辰美の家の軒下、そしてカメラ――メグは何を伝えようとしたのか。辰美たちが狂っているとはどういう事か。若しかするとメグは、この一件の真相に辿り着いたのかもしれなかった。或いはその片鱗に触れてしまったのかもしれない。何れにせよ、メグが一瞬だけとは言え取り戻した意識の中で告げた事を、雅也は無視する訳にはいかなかった。

 志村のバイクの鍵を拾い、病室を飛び出した雅也は、メグが目覚めた事とその病室で自死を計った小井出の様子を見に来た医者と看護婦たちをすれ違う。雅也はそのまま駆けてゆこうとしたのだが、すれ違いざまに医者は声を荒げた。どうしたんだ君、顔が死人のように真っ蒼だぞ。雅也は聞かなかった。蹴破るような勢いでドアを潜り、バイクに飛び乗ると、エンジンが温まるのを待つでもなく走り出させ、あっと言う間にギアを一番上まで入れた。向かったのは辰美の家だった。

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