第10章 毒花が咲く白亜の城

 昨日の大雨で、梅雨が明けたらしい。水捌けの良いグラウンドに作られたトラックを、真里は無心に駆け抜けた。市内の総合体育大会、真里は短距離走の選手として出場し、トップの成績を収めた。スタートと共に他校の生徒たちを引き離し、一秒以上の差を付けてゴールテープを切る。向かい風の中、トップスピードを維持したまま走り続けてゴールする事が出来たのは、この時が初めてだった。

 表彰式が終わって部活のチームメイトたちに称賛されながら帰りのバスに乗ろうとした真里であったが、会場の外にはテレビ局や新聞社の記者たちが待ち構えており、真里から話を聞こうとした。辰美の母親が強姦され、その仲間にメグが頭部を強打されて昏睡状態になった、その場に居合わせて通報したのが兄の雅也であったからだ。雅也はそれより数日前に銃殺されたシホと一緒にいた事が分かっており、二度に渡って事件の現場にいた雅也の妹という事で、何か知らないかと話を聞きに来たのである。

 真里が自分は何も知らないと主張するにも拘らず記者たちはカメラとマイクを向け、あまつさえ事件には関係がないであろう雅也の人間性にまで真里の言葉を求めた。流石に見かねた顧問や同級生たちが取材班を押しのけて真里を優先してバスに乗らせ、乗り終えた所でドアを強く締め発車するように言った。

「大変だね、真里も」

 同級生の友香が同情した。友香は真里が家に帰らないでいる間、真里を泊めてくれている。確かに二度も物騒な事件に遭遇した雅也の事はメディアも興味津々で取り上げたがるかもしれないが、その為に妹の所まで押し掛けるのは異常という他にはなかった。真里は本当にむかつくと言いながら持って来ていたお弁当の残りをがつがつと食べ始めた。兄のものとは違う味付けだが、それでも充分に旨い。

 バスが学校に戻る途中で、顧問が真里と友香に声を掛けて来た。友香の家の近くにマスコミがやって来ているらしい。真里が友香の家に泊まっている事を嗅ぎ付けて帰宅を待ち伏せしているのだ。真里はご免ね迷惑を掛けてと友香に言い、これからどうしようかと考えた。

 良いアイディアが浮かばないまま学校にバスが到着する。流石に断られる事が分かり切っているからか学校にまでは取材陣も来ていなかった。友香の家にはもうお世話になれないねと言う真里に、友香は気にする事はないと言うのだが、そういう訳にもいかなかった。かと言って別の友人の家に上がり込んでも結局は同じ事になってしまう、どうしたものだろうか。

 そう考えていると学校の前に二台のオートバイが停まった。一台は中型のオンロードで男が乗っており、もう一台はビッグスクーターで乗っているのは高校生の女だった。二人は不審がる真里に近付いてヘルメットを取る。小井出とアキコだった。

「お兄さんの知り合いよ。頼まれて、貴方を泊めて上げてって言われたの」

 アキコが言った。懐からその証拠よと一枚の紙を取り出した。雅也の文字がつらつらと書き込まれている。


 真里、今回は俺の所為で済まなかった。もう少しの間、我慢してくれ。ほとぼりが冷めるまでアキコの家に泊めてやって欲しいと頼んである。彼女は少しばかり不良だが今は心を改めたと思っている。莫迦な兄貴で悪かった。

                              雅也 


 しかも丁寧に血判まで押してある。親指の腹を刃物で切って血を流し、その血で指紋を押し付けているのである。間違いなく兄の文字であると真里には分かった。アキコをどれだけ信頼して良いのかは分からないが、少なくとも雅也は今のアキコを信用して真里を任せようとしているのだった。真里は雅也の言葉を信じて、アキコを信用する事にした。

「お世話になります」

「こちらこそ、貴方のお兄さんには世話になってるから……」

 アキコは真里をビッグスクーターの後ろに乗せ、小井出のバイクに後ろに付いて貰いながら家まで走った。到着して真里を家の中に挙げると、そこで小井出とは別れた。小井出は志村たちがメグの見舞いに行っているから俺も合流するとバイクを転がして行った。

「あの、一体、何が起こってるんですか?」

 真里は訊いた。アキコも良く分からないでいたので、答える事は出来なかった。しかし、今、自分たちの町で妙な事件が起こっているという事だけは分かっていた。時代の変わり目が近付き、誰もが言い知れぬ不安を覚えている時期であった。






 雅也はメグの病室にいた。雅也が座る眼の前のベッドには、頭に包帯を巻き、腕に点滴の針を刺し、口には呼吸器を取り付けたメグが眠っている。メグはシホと違い、一命を取り留めた。但し、強く頭を殴打された事によって昏睡状態が続いている。意識を取り戻したとしても、大きな後遺症が残るかもしれなかった。俺の所為だ……自分を責める雅也がいた。その一方で、どうしてメグがこのような目に遭ったのか、冷静に考えようとしている自分がいた。

 雅也が知っているのは、メグが殴られた後の事だけだ。それから先は、被害者である辰美とその母親とメグ、そして犯人にしか分からない。警察から聞いた話では、辰美の家に強盗が押し入り、一人は辰美の事を殴ってから辰美の母を犯し、もう一人の犯人、雅也のバイクのガソリンを使って自殺を図った男はその場に居合わせたメグの口を封じる為に彼女を殴ったという。又、辰美の母を犯した男は、雅也の家から持ち出されたカセットテープを持っていた。更に彼の所持品の中から拳銃が発見され、シホを撃ったものと一致した。シホを殺害した理由はやはり押し入り強盗だったようで、その時に悲鳴を上げられたからだと言う。その時は単独犯で、雅也が追い掛けた覗き犯とは関係がないという旨の供述をした。雅也の家からカセットテープを持ち出したのは、雅也が家から出てゆくのを目撃し、空き巣に入った時に見付けて盗んだそうだ。何故盗んだのか? それについて男は何も言わなかった。悪かったな、他に金になりそうなものがなくて――雅也はそんな風に思った。

 シホは独り暮らしだ。その時の雅也も、真里を友人の家に泊まらせていた。一人が家から出てゆけば家には誰もいなくなると分かる。シホの時は雅也が窓からではあるが出て行ったのが分かった為に家に一人しかないと思って踏み込んだ。

 だが、本当にそうか? そうだとすれば余りにも自分の周りだけで事が運び過ぎている。シホが殺害された現場には直前まで自分がおり、自宅が荒らされた直後に訪れた場所で被害者が出ている。偶然で片付ける事は出来なかった。しかしそれでも、捕まった男の計画的な犯行であるという以上の結論には、達する事が出来なかった。その計画が何故建てられ、自分の周囲の人間がターゲットとなったのか。

「尾神……」

 物思いに耽っていると、後ろに志村が立っていた。病室にはメグしかおらず、雅也は電気を点けずに彼女のベッドの傍のパイプ椅子に腰掛けていた。廊下の明かりがネイビーブルーの室内に射し込んで、志村の姿を逆光の中に浮かび上がらせている。

 志村は雅也の顔を殴った。雅也は殴られるままに床に倒れた。その衝撃でメグの枕元の花瓶が落下する。雅也が受け止めたので割れずに済んだ。花瓶には雅也が辰美に貰って来た花が活けられている。辰美の母親が、自宅の庭で栽培している植物だ。

 雅也が花瓶を抱くようにして呆然としていると、志村はその手から花瓶を取り上げて元あった場所に戻し、雅也に手を貸して立ち上がらせた。意外そうな顔をする雅也だったが、志村は済まねぇなと一言言った。でも、もう終わったんだろう?

「終わった?」

「お前がぶちのめした野郎が、シホを殺した奴なんだろう」

 その男が捕まったのだから、もう、この事件は幕を閉じたのだろう? 志村はそう言った。雅也はそうだと頷く事は出来なかった。本当にそうか、本当にそうなのか。辰美やその母、捕まった犯人の話からすればそうだ。その何処かに嘘が混じっていたとしても、あの犯人は強姦や傷害の罪に問われる事になる。あの男がシホを撃ち殺していたのならばその容疑でも。もう終わったのだ――そう思えば思う程、雅也の胸のつかえは消えなかった。極めて本物に近い贋作を掴まされ、真実を闇の底に沈められてしまったかのような後味の悪さを感じている。

「行こうぜ」

 志村が促した。そろそろ面会時間は終わりになる。いや、日が暮れるまでいさせてくれたのは温情だった。この町の人間は殆どが知り合い同士だ。院長も看護婦も雅也の事を知っている。メグや志村の事も知っている。雅也がマスコミに追われる可能性がある事も分かっていた。雅也を庇うような目的もあって、面会時間外までいさせてくれたのだ。

 雅也は立ち上がり、志村と共に病室から出ようとした。その背に小さく風が触れる。振り返ればカーテンの裾が大きく捲れ上がっていた。少し窓が開いていたようである。メグが風邪を引いてはまずいな、雅也は窓を閉めてドアの方に向かった。すると志村が不思議そうな顔をしている。

「あの花、お前が持って来たのか?」

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