弐
麗奈は更衣室で空手衣に着替えてから道場に戻って来た。空手衣は、ズボン状の下衣と袷の上衣を帯を締めて止める作りで、柔道衣と似ている。似ていると言うのは、シルエットは殆ど同じであるし、空手が一般的に広まる以前は柔道衣を使っていたからであるが、生地は空手衣の方が薄く動き易い。柔道は相手を投げるのに掴む必要がある為、生地が薄いと投げを打った時に破れてしまう可能性がある。一方で空手は手足を素早く繰り出す打撃技がメインである為、生地が厚手だとその分スピードが落ちてしまう。
左胸に力神会館の、白くささくれた黒帯にオレンジ色で名前と段位の刺繍をした麗奈は、雅也に自分が付けたのと同じオープンフィンガーグローブを手渡した。ボクシングのグローブと違い、指先が露出したグローブであり、総合格闘技が流行した頃に作り出されたものである。更に力神会館では、グローブで相手に必要以上の怪我をさせないようにしながら、素手での打撃の感触を残す方法を模索して力神グローブというものを開発した。構造はオープンフィンガーグローブと同じであるが、拳頭を覆うクッションの空気圧を調節する事が出来るようになっている。
麗奈はボディプロテクターとヘッドギアの装着を勧めたが、雅也は要らないと言った。麗奈を女と侮っている訳ではない。D13は武装組織だ、どれだけ麗奈が空手に優れていると言っても、彼女の突きや蹴り以下の威力の武器を使うような事はない。若し直接対峙するとなったら、自爆した彼らのように拳銃を装備し爆弾を抱え込んでいる事が考えられる。逆に雅也は麗奈に防具の着用を勧めた。しかし麗奈は断った。
道衣の麗奈と雅也が、それぞれ力神グローブを装着して道場の真ん中で向かい合っている。麗奈が鏡を背にする形であった。
「押忍」
麗奈は十字を切って雅也に臨んだ。その瞬間、殆どの予備動作なしに麗奈のローキックが飛んで来た。白いズボンが風にはためき、雅也の太腿に向かって鞭のようにしなる。雅也は狙われた左脚を後ろに引きつつ右足で踏み込み、右のパンチを麗奈の顔面に向けた。ばん、と拳の先が弾ける。麗奈が両掌で顔をガードし、パンチを防いだ。鏡の寸前まで麗奈が後退する。顔の前から手を退かした麗奈の眼の前に雅也が迫っていた。雅也のミドルへの蹴りが唸る。麗奈は両腕を揃えて左側にやり、雅也のキックを受けた。しかし蹴りの威力に押されて横に吹っ飛んでゆく。バランスを崩した麗奈のボディに下からの拳を打ち上げてゆく。麗奈は左の前腕で雅也の拳を打ちつつ身体を回転させた。右の裏拳が回転の勢いに乗って跳ね上がり、雅也の顎を狙う。スウェーバックでバックブローを躱した雅也の咽喉元に向かい、麗奈の平拳が走る。完全な拳ではなく第二関節までを折り曲げて作った平らな拳で、打撃面は細長くなる。貫手よりも丈夫で怪我の心配が少なく、拳よりも貫通力があるので、これで咽喉を打たれればピンポイントにダメージを受ける。雅也は後ろに下がった重心を戻す為に後方に踏み込み、その威力を前蹴りのパワーに転換した。雅也の蹴りが素早く跳ね、麗奈の胴体を抉りにゆく。ガードが間に合わず、げぇと嗚咽を漏らしながら身体をくの字に折って後退した。雅也が蹴り足を引いて構える。麗奈にダメージが通ったのは分かる。分かるが、麗奈はただ蹴りを喰らったのではない、ストライクの瞬間に腹筋を固めてダメージを軽減した。雅也の蹴りの威力が腹筋の硬度を上回ったのであるが、そのダメージについても麗奈は覚悟を決めていたようだ。一度は下がった頭を持ち上げると、唇を捲り上げて笑みを湛え、かと思うと一気に雅也から距離を取って逃げ出した。雅也が追おうとすると、麗奈は立ち止まって右足を後ろに振り上げた。雅也は両腕を腹の前で交差させ、手首同士が重なる地点で麗奈の蹴りを押さえ込んだ。じぃんと両腕に痺れが広がる。麗奈の急制動、雅也の追跡、二つの運動エネルギーが威力に変化し、雅也の身体に叩き付けられた。麗奈は後ろ蹴りを放った軸足を回転させて蹴り足で上段を狙った。ぎょっとする程伸び上がる蹴りは雅也の顎の皮膚を掠め取って行った。 雅也は自分の正中線を通り過ぎて行った麗奈の下衣の裾を掴んで軸足を刈り取った。ぱっと宙に浮かぶ麗奈であったが、裾を掴んだ雅也の左腕に両脚を絡ませてぐっと体重を掛けた。普通ならば女性とは言え人一人分の体重を一手に掛けられては沈み込まざるを得ない。その際に崩れる重心を利用して相手を投げ、そのまま腕関節を極める技であったが、雅也は片膝を突くだけで堪えた。雅也は麗奈の脚に鉄槌を打ち下ろそうとした。鉄槌は拳を作った時の小指側の事をいう。麗奈は腕関節を諦めてぱっと両脚を解除した。両手をマットに突いて後転をして立ち上がると、麗奈を追おうと膝を持ち上げた雅也の顔面に容赦なく蹴りを放った。雅也はブロックが間に合わないと知り、逆に頭を叩き付けて行った。麗奈の硬く鍛えられた脛に、硬質な頭蓋骨がぶつかってゆく。脳がある分雅也の方がダメージはあるが、総合的な痛みではタイであると思う事にした。蹴りに失敗して揺らぐ麗奈の胴体に、雅也が組み付いてゆく。麗奈は雅也の頸に腕を回した。雅也はギロチンチョークも構わずにタックルで麗奈を押し込んでゆく。壁に麗奈の背中を叩き付ける心算だった。麗奈は両脚を雅也の進行方向に伸ばし、壁に足を突いて膝を緩めて衝撃を殺し、壁を蹴る勢いで雅也の頸をひねろうとした。雅也は麗奈を放さなかった、麗奈と身体の位置を入れ替えて胴体を締め上げる。サバ折りだ。麗奈は雅也の後頭部に肘を落とした。雅也の力は緩まなかった。もう一つ肘を落下させた。ごちんと、骨と骨がぶつかる音がする。雅也の力は益々麗奈の背骨を締め上げた。麗奈は裏拳を頭頂部に落とした。クッションで衝撃は緩和されたが、一瞬、雅也の脳が揺らいで力が弱まった。麗奈は雅也の頭を両側から掴んで押して距離を作り、膝を顔の中心に入れた。雅也の鼻の軟骨が曲がり、鼻腔の粘膜が剥がれて血が噴きこぼれた。しゃっ、麗奈は雅也の腕から解放され落下する勢いを利用してドロップキックを見舞った。顔面に二つの足を受けた雅也の身体が後退する。その足元に麗奈がどすんと落下した。麗奈はすぐに身体を独楽のように回し、円軌道の踵を雅也の脇腹に打ち込んだ。雅也は蹴り足を腋に挟み込んで両脚を絡めた。アキレス腱固めに移行しようとしたのだ。麗奈は脚をねじ込んだ。アキレス腱も足首も膝も極められない。麗奈は身体を起こして倒れ込んだ雅也の腹の上に馬乗りになった。雅也の顔面にパンチを落とそうとしたが、雅也がブリッジで麗奈の身体を跳ね上げつつ、掌底で彼女の横っ面を叩いた。麗奈が雅也の身体の上から転がり落ちる。素早く立ち上がった麗奈が、上体を起こした雅也の顔面に拳を向けた。雅也は人の拳が自らの速度で掻き消えるのを初めて見た。弾丸が空気を切り裂いて進むように麗奈のパンチは唸った。だが音速を維持していたのは一瞬だった。雅也の頬に触れる瞬間、雅也は麗奈が拳を止めたと思った。止まった世界で雅也は打点をずらしながら麗奈の腕を掴み、放り投げた。麗奈の軽い身体がそれでも嘘のように宙を舞い、マットの上に落とされた。しっかりと受け身の基礎を稽古していなければ、何処かの骨を折っていただろう。
「そこまでで良いでしょう」
綾部一治の声がした。見れば道場の入り口に、ジャージ姿の事務員を伴った綾部が立っていた。雅也は麗奈と見つめ合い、綾部の言葉の意味を吟味して受け入れ合った。
「押忍、ありがとう御座いました!」
麗奈は十字を切って頭を下げた。
雅也と綾部は応接室に通され、出された麦茶に手を付けないままソファに腰を下ろしていた。グラスはきんきんに冷え、褐色の液体の中に浮かんだ氷が少しずつ溶けてゆく。
やがて空手衣から私服に戻った麗奈がやって来て、彼女が用意されたグラスに手を付けると、漸く麦茶を咽喉に流し込んだ。コースターがふやける程に結露が底まで滴っていて、濡れた手をそれぞれの服の裾で拭った。
「今日はありがとう御座いました。とても参考になりました」
「こちらこそ」
麗奈が頭を下げ、雅也も言う。私も面白いものを見られましたよと綾部が笑った。
綾部は他所の町に出掛けての仕事を終え、雅也の解毒をした支払いを受け取ろうとジムにやって来たのだがおらず、麗奈と一緒に出て行ったとジムの職員に訊いて力神会館の本部に当てを付けてやって来た。そこで、雅也と麗奈が手合わせをしているのを少しだけ見学し、頃合いを見計らってやめを入れたのであった。
「でも、尾神さん、意外と本格的なんですね」
格闘技――と、麗奈は言った。何かの道場に通った事はないという風な事を言っていた筈だが、雅也の実力はかなりのものだ。ルールを遵守すれば、空手でも柔道でもボクシングでもレスリングでも、良い所までは勝ち進む事が出来るだろう。それだけの身体能力がある。特に最後の麗奈の正拳突きを受けてから彼女を放り投げた技は見事であった。麗奈は頭蓋骨を陥没させる心算で突きを放ったが、その拳が威力を発揮する寸前に顔を反らして無効化し、麗奈自身のパワーを利用して投げ飛ばしたのだ。合気道の達人でも、少なくとも実戦形式の中ではそうそう巧くは成功しない。
「君は意外とラフなんだな」
ストリートの戦士ですらない雅也が武道の技術を駆使するのに対し、空手選手である筈の麗奈の方が却って路上の戦法を仕掛けて来た。試合開始前の礼をすると見せ掛けて奇襲したり、戦闘中に背中を向けて逃げ出したり、容赦なく鼻先に膝をぶち込んだりと、どちらかと言えば喧嘩慣れしたチンピラが使うような姑息と呼んでも良い手段を用いていた。彼女の試合のヴイを見た事はあるが、確かにラフファイターと見える事はあっても、ああもルール無用のスタイルではなかった。
「お恥ずかしい……」と、頭を掻きながら、けれどあれは必要な事だったんですと麗奈ははっきりと口にした。今の自分には、ああした戦い方が必要になっている。
雅也はそうかと顎を引いただけでそれ以上は追及しなかった。頑なな眼光が彼女の決意を物語っている。頑固だとか融通が利かないだとか言うと些かマイナスのイメージがあるかもしれない。しかしそれが単なる意地やちっぽけな自尊心からのものであるならその通りだが、麗奈の眼に宿るのは自分を貫く一本の強い芯、丹波麗奈という一振りの刀の中核となるもののようであった。何かを決意した人間は美しい、その覚悟が欲望を削ぎ落した純粋なものであればある程、蒼白い月の輝きを放つ。
麗奈はすぐに照れたように眼を三日月状に歪め、グラスに口を付けた。雅也は麦茶に毒が入っているかもしれないと疑った自分を恥じ、グラスの中身を飲み干すと、一緒に口の中に転がり込んで来た氷をばりぼりと砕いて嚥下した。綾部は雅也の様子を見て小さく唇を歪め、恐らく雅也が麗奈に抱いたであろう感想と同じものを雅也に抱き、麦茶を飲み終えた。
雅也と綾部は力神会館の本部を後にする。玄関まで麗奈が見送りに来て、彼らの姿が見えなくなるまで姿勢を正していた。
その麗奈に、雅也たちと擦れ違うようにやって来た力神会館のジャージを着た男性が駆け寄り、耳元で何かを囁いた。麗奈はありがとうと言って彼を下がらせると深く息を吸い込み一気に吐き出した。胸の前で拳を掌にぱんと打ち付け、口の中でだけ呟いた。
「スティグマ神霊会……」
叩き潰してやる。
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