第九章 鉄芯の乙女拳

 ――とは言っても、行動には慎重にならざるを得ない。

 ダイビングスクール“おむろ”の一件で雅也の顔は他のホワイトロータスの教会に潜伏するD13の工作員たちに知られている可能性があるし、雅也を含めた何者かがD13について探っている事も明らかになってしまった。それに、御室惣治郎が抹殺され、“おむろ”も放火の目に遭った事からすると、D13、スティグマ神霊会の幹部クラス以外の生命は軽んじられている事が分かる。軽率な行動はむやみやたらに人の命を奪われてしまう事に他ならない。

 “伊舎那”を解毒した綾部一治に払う金を用意した雅也はジムにやって来たのだが、今日は生憎、綾部の姿はなかった。彼も基本的には根無し草の風来坊であり、依頼を受ければ何処にでも足を向ける。いつでも東京にいる訳ではないのであるから、若しかすると暫く支払いを待つ事になるかもしれない。

 “伊舎那”から回復した雅也の体調はすこぶる良くなっていた。“伊舎那”が持つ薬としての人体に有益な成分が、雅也の肉体を活性化させているのかもしれなかった。その上、普段のトレーニングによって雅也の身体は常人の数倍の頑強さを誇っている。抗体の力も増しているだろうし、最早“伊舎那”の毒に敗れる事はないと思える程であった。

 いつものようにランニングマシンで走り続ける雅也の全身からは汗が吹き出し、皮膚はピンク色に艶めいていた。気分は高揚し、大声で叫び出したいような衝動に駆られている。

「トレーニングも過ぎると毒ですよ」

 ふと横からそんな風に声を掛けられた。丁寧な口調だったが綾部ではない、女の声だ。スピードを落とさないまま顔を横に向けると、丹波麗奈がランニングマシンを走らせていた。マシンのスピードを段々と上げてゆき、雅也と同じくらいの速さにまで設定する。

「またお会いしましたね。噂だけは聞いていたけど、貴方だったんだ」

「噂?」

「スーパーマンがいるって噂ですよ。常人じゃない量のトレーニングを平気でこなす怪物みたいな人がいるって。貴方だったんですね」

「――」

「このジム、力神会館が経営しているんですよ、知りませんでしたか?」

 麗奈は説明した。力神会館が金を出して器具を揃えたジムであるから、力神会の道場生は持っている段や道場でのポジションによって使用料が安くなったり無料になったりする。麗奈は東京にある支部の一つで住み込みの指導員をやっているので料金を払わずともジムでトレーニングをする事が出来るのだ。麗奈自身は余りジムに顔を出さないが、門下生が噂をしているのは聞いていたので、雅也の事をそれとなく知っていたという事である。

「折角なら入門しませんか? 毎日来てるならお得ですよ」

 色々とコースがあります、社会人でも通えますよ――麗奈は道場に雅也を勧誘した。走りながらの事であるから、彼女も亦、雅也に負けず劣らずの体力の持ち主である。雅也は悪いがそういうのに興味はないよと言って黙々と走り続けた。

 雅也がランニングマシンを終えるタイミングで、麗奈もマシンから下りた。それから他にも幾つかの器具を梯子してストレッチとマッサージを行ない、シャワーを浴びてジムを出る事になったのだが、麗奈が雅也のこれからの予定を聞き、食事に行くのだと知ると、どうせならジムの食堂で食べませんかと訊いた。

「力神会館の指導員の私がいると少し安くなりますよ」

 シャワーで汗を流して着替えた雅也と麗奈が、ジムの食堂に向かう。雅也はスラックスに紫と黄色のTシャツを着ていた。麗奈は黒いミニスカートにボーダーのシャツ、その上にミリタリージャケットを羽織って袖を肘の手前まで捲り上げていた。梅雨はまだ明けておらず、空には分厚い灰色の雲が被さっているのだが、湿度も気温も高くなっている。それでも時折妙に冷たい風が吹くので、服装の調節が難しかった。

 雅也は食堂で生姜焼き定食とハンバーグ定食、唐揚げカレーや親子丼、チャーシュー麺と油そばときつねうどんとたぬき蕎麦を注文しデザートに特大プリンと日替わりスイーツのミルクレープを注文した。麗奈はそれを見てひゃあ凄いと驚くのだが、麗奈は麗奈で焼き鳥丼とネギ豚塩カルビ丼、エビフライ定食、味噌ラーメンと半チャーハンなどを頼むのだから周りから見れば健啖カップルが食堂を潰しに掛かっているようにも見えてしまう。その上麗奈は力神会館の指導員なので同行者にも割引が効いてしまうのだから質が悪い。

「尾神さんって、普段は何をしている方なんですか?」

 食べ終わって紅茶を啜った麗奈は訊いた。麗奈の方は自分の事について色々と話しているが、雅也は自発的に自分の情報を明かさない。しかし質問されても答えないという程、無愛想ではない。これと言った定職には就いていないと本当の事を言った。それでも多少の金を動かす事が出来るのは、パトロンがいるからだ。俺は昔或る事故に遭ってその補償のようなお金を貰って生活をしている。その額が結構あるのだ。それでも足りない時は日当が良い仕事を見付ける。

 事故……麗奈は口の中で呟き、ふと見つめた雅也の眼が左右で違う事に気付いた。気になる所ではあったがそれが雅也の言う事故と無関係ではないように思えたので言葉を抑え込んだ。

「それで、鍛えているのは、やっぱりそういう事なんですか」

「そういう事?」

「事故の後遺症とか……」

 麗奈は或る俳優の事を思い出した。若い頃に撮影中の事故で重傷を負い、役者人生を危ぶまれた俳優である。手術によってどうにか回復したものの、事故の際に複雑骨折した部分をボルトで補強し続けなければならず、それにはボルトを固定する筋肉を維持していなくてはならない。その為、かなりの高齢になった今でもトレーニングは欠かさず、同じ歳の人間よりも遥かにエネルギッシュな佇まいを保っている人物だ。雅也もそうした事情があって、厳しいトレーニングをストイックに続けているものかと思った。

「そのようなものだ」

 雅也は言った。麗奈が申し訳なさそうな顔をすると、気にしなくて良いと薄く微笑んだ。気にしなくて良いというのは、後遺症は後遺症でも、肉体的なものではなく精神的な問題に起因する為だ。身体は他の人間と触れ合う事が出来るからどういう意図を持っての事であれ、何らかの気遣いは必要になって来る。だが心に触れる事は誰にも出来ない。自分の意思ではどうしようもない部分が多々ある肉体の事ではなく、自分の意志そのものである心の問題は他人がどう言おうと解決する事はない。人の言葉や気遣いが糸口になる事はあっても、最終的には自分自身が踏み出さねばならない孤独の荒野なのだ。

「じゃあ、身体の方は……」

「何の問題もない」

「それは良かった!」麗奈は満面の笑みを浮かべた。「実は尾神さんの噂でもう一つ聞いていたものがあって、それが本当ならお願いしたい事があったんです」

 それは何だと訊くと、いつかのビルの事件の話であった。雑居ビルのワンフロアを占拠した銃を持つ二人組を軽くあしらい、彼らが持っていた爆弾の爆発から、人を抱えて窓から飛び降りたという話だ。力神会館は警察ともパイプを持っており、警官の武術指導に派遣される者もいた。その門下生から、麗奈は雅也の話を聞いていたのである。雅也にとって、大した事はない――が、事実だ。麗奈は眼を三日月状に歪めて頬を染めた笑みを浮かべ、じゃあお願いしても良いですかと訊いた。

「何を?」

「私と戦ってくれませんか?」





 力神会館の本部は東京の真ん中にあるビルディングである。麗奈が内弟子として住み込んでいる道場はそれとはまた別にあるが、今回はジムから近いという事もあって本部の道場の一角を借りる事となった。

 雅也は自動ドアを潜ってすぐに置かれていた熊の置物にびっくりした。雅也よりもずっと背の高いヒグマの剥製で、片方の眼がなくなっている。力神会館の創始者である結城鬼堂が空手の技で倒したとされるものだ。

 雅也は麗奈と共に蒼いマットの敷かれた道場に足を踏み入れた。入口の所で靴を脱ぎ、押忍と礼をする麗奈に習って小声で押忍と頭を下げる。小さな体育館程の広さがある道場に入った途端、むっとする匂いが叩き付けられた。汗と血と涙と小便の匂いが混じっている。流したそれらの中に門下生たちの気合のようなもの……言葉では言い表せない精神的なエネルギーが入り込んでいるようであった。

 正面に神棚が設けられ、向かって右手の壁には一面に鏡が張り付けられていた。指導員は鏡を背にして立ち、門弟たちは自分の動きを鏡で見ながら良い点や悪い点を学び取る。門弟たちが背にする事になる壁にはキックミットやグローブ、ボディプロテクター、ヘッドギアなどか掛けられていた。

「戦うっていうのは、どういう事かな」

 雅也が訊くと、麗奈はそのままの意味ですと答えた。私と試合をして下さい。試合と言っても空手衣を着てサポーターを付けて空手のルールでやりたいのではありません。それは怪我はしないさせないように考慮しますが、要は喧嘩の相手をして欲しいんです。喧嘩の練習がしたいので、常人離れした身体能力を持つ尾神さんにお願いしているんです。

 麗奈の意図が分からなかったが、雅也は面白そうだと快諾した。空手選手である麗奈が、どうして喧嘩の練習をこの俺に頼むのか? その真意を測りかねてはいたが、トレーニングの一環と思えば悪くはない。それに、こういう事が役に立つ場合もあるかもしれない。何せ俺が今相手しているのはテロ組織なのだ。

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