弐
「かつてスティグマ神霊会は、この“伊舎那”を自分たちのガランで栽培し、信者たちに神の薬として飲ませていました」
スティグマ神霊会はガランの中で信者たちに共同生活を強制し、食事や瞑想、修行を同じサイクルで行なっていた。その時の食事や水に“伊舎那”を混ぜていたのである。信者には飲み続ければ真理に至れる神薬として、破戒しようとする者に対しては教団を抜けては生きてゆけないという見せしめの為の毒薬として。
「で、尾神さん、貴方、何処で“伊舎那”を食べたのです?」
雅也はダイビングスクール“おむろ”の事を話した。志村から手に入れたホワイトロータスの教会の内、許可を取っていないと思しき場所の一つである“おむろ”の学長である御室惣治郎を訪ねた事。そこで食事をしたが、若し自分が“伊舎那”を摂取するタイミングがあったとすれば、それ以外には考えられない。若しダイビングスクール“おむろ”での食事に、“伊舎那”が混ぜられているとすれば、“おむろ”はやはりホワイトロータスの教会と言う事が出来、スティグマ神霊会との繋がりも間違いないものであると考えられる。その繋がりを探ろうとした雅也を、“伊舎那”で殺害しようとしたのだろう。
「まさか彼らも、貴方が“伊舎那”に対して抗体を持っていたとは思いもしなかったでしょうね」
綾部に言われ、雅也は自分の胸に手を当てた。病衣越しに、包帯を巻き付けた指が大胸筋に喰い込んでゆく。ぎりぎりと万力の如き力が込められ、指の先端が肉の内側に潜り込んでゆきそうになっていた。第一関節の中頃までが肉の中に埋まり、血がぼこりと盛り上がって来る。雅也の大きな手が、そのまま自身の胸に沈み込み、心臓を掴み出そうとしているかのようだった。
「尾神さん!」
綾部の声ではたと我に返り、雅也は指先から力を抜いた。病衣と包帯に、赤い色が染み込んでいる。鉄の匂いがむわりと膨らんだ。そうか、と雅也は自分の全身に施された怪我の処理の理由に思い至った。電車を降りてから倒れた俺は、病院に運ばれ、綾部の治療を受ける前か後かは分からないが、恐らくこうやって自傷を続けていたのだ。だから全身が傷だらけなのだ。
「あいつが……俺を救ったのか……」
唇を噛み締めながら雅也が呟いた。獣が唸るような低い声であった。気を抜けば、すぐにでも自分の肉体を傷付け始めてしまいそうになっている。それを精神の力で抑え込んでいた。
「で、これからどうするのです?」
「これから?」
「D13……ホワイトロータス、スティグマ神霊会の事、まだ追い掛けるのですか?」
「あんたが焚き付けたんだぜ」
ああ、そう言えば――綾部は悪びれる様子もなく笑った。思えば、ほんの数日前、銃で武装した二人組を片付けた時から始まったのだ。雅也は自ら危機の中に身を投じて帰還し、警察の取り調べを受けた翌日、綾部一治からD13の噂を聞き付けたのだ。それから志村に連絡を取り、ホワイトロータスの教会の場所をメモしたものを得て、ダイビングスクール“おむろ”に向かったのである。綾部からD13の事を聞かなければ、志村に依頼する事もなかったし、こうして“伊舎那”の為に命の危機に見舞われる事もなかった。しかし、綾部が雅也に告げたのは、それだけだ。あの時、抱え込んだ爆弾に銃をぶち込んで自爆した二人がD13であり、そのバックにはホワイトロータスの姿があり、その原型がスティグマ神霊会であると、そう言っただけに過ぎない。スティグマ神霊会と雅也との間にある因縁について、綾部は知っている訳ではないのだから。結局、選んだのは雅也なのだ。D13を追おうとしたのは雅也自身の意思であり、彼が命を失い掛けたのも自身の責任なのだ。そして、普通ならば死すべき所、雅也は生き延びた――生き延びさせられた。ならばこれは、きっと雅也自身の宿命なのだ。二〇年前から続く、尾神雅也の肉体に刻み込まれた呪いとの戦いなのだ。
「ありがとう、お前のお陰だ」
「構いませんよ。では、私はこれで。……それと」綾部はズボンのポケットから一枚の紙を取り出し、テーブルの上に置いた。請求書である。独り暮らしの男が臨死から復帰した途端に見せられたらもう一度気を失ってしまいそうな額が書き込まれていた。「入院費も含まれていますからね」
綾部は薄く笑った。それではと言って病室から出てゆく。その背に雅也は、今度、ジムで会った時に払うよと声を掛けた。
綾部が退出し、雅也は病室に一人になった。窓から吹き込む風は爽やかで、仄かに雨上がりの香りがした。雅也は空を見上げ、蒼と白のコントラストの天空に、二人の人間の姿を見ていた。
――真里……そして、辰美。
異なる二つの瞳に焼き付いて忘れられぬ、激しい怒りと哀しみの姿であった。
病院で更に一日休むと雅也の身体は完全に回復した。病院でも“伊舎那”についての検査を行なったが、雅也の肉体が復活したのは奇跡のようであるという事であった。しかし、それ以上の調査は綾部一治から金を積まれて禁じられている。彼の耳に入れば何らかの報復があるであろう。
病院を後にした雅也は先ず早朝までやっている居酒屋に行き、焼き鳥や魚をたっぷりと食べた。都会の人々が生活し始める時間になって店が閉まると、今度はファストフード店で抱える程のハンバーガーやポテト、チキンを買い込み、駅の近くの公園でホームレスたちと一緒に食べた。焚き火は禁止になっている公園だったが、人の壁で火を隠し、料理屋の裏手から回収した残飯などを鍋で炊いた。彼らと一緒にゴミ拾いや廃品回収を手伝った後、銭湯に行き汗を流すとそこで担々麺や生姜焼き定食や唐揚げ丼やカレーを片っ端から注文して平らげた。腹を満たした雅也はランニングをして自宅に帰り、その途中のコンビニで冷凍食品やチルド弁当を買い、ブレーカーが上がる程にレンジを使って温めて喰った。
そうして少し身体を休めた後、自宅のシャワーを浴びて着替えると、再びダイビングスクール“おむろ”を訪ねる事を考えた。だが携帯電話に留守電メッセージが入っているのに気付いてそれを再生すると志村からであった。
志村からのメッセージは雅也を驚かせた。御室惣治郎やダイビングスクールの学生たちが一人を除いて食中毒を思しき症状で倒れ、病院に運ばれたが間もなく死亡したというのである。ネットで調べてみるとその事がニュースになっており、生き延びた一人が美堂沙織であった事と、原因を調べようと建物に入った警察の鑑識がガス爆発に巻き込まれて重傷を負った事が立て続けに報道されていた。そして生き残りの美堂沙織は姿を消したというのである。食中毒を思しき症状という事は、雅也と同じく“伊舎那”を摂取したという事だろうか。しかし、彼らが“伊舎那”を常習していたのならば、それで死ぬとは思えない。という事は、何者かが抗体を持っていてさえ致死量となる“伊舎那”を食べさせたという事ではないか。となると怪しいのは行方不明だという美堂沙織であり、ガス爆発によって恐らくは“おむろ”で栽培していた“伊舎那”を焼失させたのも彼女であろう。数日前の武装集団が雅也に組み伏せられた時に自爆して正体を隠蔽しようとしたが、それと同じような手口ではなかろうか。
そう、同じだった。奴らは二〇年前と何も変わっていない。名前を変えようと、姿を隠そうと、奴らは二〇年前、シホを殺した時から何も変わっていなかった。ならば、誰かが終わらせなければならなかった。教祖影蔵の逮捕と共に終わったと思われていた奴らの計略、未だに続いている彼らの暗躍を止める者が必要だった。
それは、この俺だ。雅也はそう思っている。あの時から奴らが変わっていないのなら、俺だって変わっていない。志村はあの頃から変わった。しかしこの俺は――尾神雅也は変わっていない。だから俺がやるのだ。俺がやらねばならぬのだ。
雅也は立ち上がり、家を出た。
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