第七章 破壊の運命に抗いて

 雅也が目覚めた時、先ず視界に入って来たのは真っ白い天井であった。鼻腔を擽るのは消毒液にも似た特有の香り。意識の覚醒より一足早く目覚めていた耳は硬質な床を行き交う音が残っていた。

 雅也の視界にクリーム色のカーテンが翻り、蒼い風が漂う。横たえられていたのは病院のベッドであった。上体を起こすと、丁度病室に女性看護師が入って来る所だった。お目覚めですかと訊く看護師に空腹を伝えると、血圧か何かの検査をしてから食事をお持ちしますねと足早に病室から出て行った。

 彼女と入れ違うようにして、一人の男がやって来た。見れば綾部一治である。黒いパーカーとズボンを身に着けている。靴下や革靴も同じような黒で統一されていた。やけに白い肌だけが異彩を放っている。大きなボストンバッグを持っていたが、それも勿論、黒だった。

「こんにちは、尾神さん。お加減は如何でしたか?」

「嫌な夢を見た」

 最悪な気分だ、雅也は分厚い掌で顔を拭った。汗を掻いている。じっとりとした粘着質な汗だ。梅雨時には一番掻きたくないタイプであった。今日が梅雨の晴れ間でなければ最悪だった。その手首に包帯が巻かれている。それだけではない、全身に包帯や湿布を張り付けていた。まるでミイラ男だなと笑うと、綾部は、

「最近リメイクされましたね。ミイラ男の映画です、明らかなB級の匂いがするのに、主演はあのハリウッドスターですって」

「嫌いじゃない」

「でしょうね、貴方が薦める映画はそんなのばっかりです。この間のは酷いですよ、『女ムカデ対カンフーガール』……映画サイトのレビューはぼろ糞でした」

「面白かっただろう?」

 ええ、と頷く綾部一治。

 そう言えばあの映画には力神会館の丹波麗奈がゲスト出演していたなと雅也は思い出した。正直、ストーリーなんてあってないようなもので、監督のオナニー映画みたいなものだった。だが、それだけに特定の趣味の人間には大受けし、丹波麗奈演じる拳法の達人が、襲って来る群体女ムカデを相手に奮闘するシーンは、アクションもカメラワークも見事なものであった。

 看護師が食事を運んで来た。ベッドの横からテーブルを引き出し、その上に料理を並べ始める。雅也には物足りなく映った。普段から日に何食も食べる人間が、病院食一人前で満足する筈がなかった。看護師が出てゆくと、ベッドの横の椅子に腰掛けた綾部一治がにやりと笑った。

「お見舞いです」ボストンバッグから取り出したのは、コンビニで買い込んで来た弁当やおにぎりやサンドイッチや惣菜パンであった。レンジで温めて貰っていますので、早めにお食べ下さいとテーブルの上に弁当を並べる綾部。

 助かるぜ、と雅也は病院食を平らげた後、がつがつとコンビニ弁当を掻き込んで行った。

「危ない所でしたね」いつもより食事ペースの遅い雅也に、綾部が言った。「一服、盛られたようですよ」

「一服?」

「毒です。私がいなければ危なかった……」

 綾部は雅也が目覚めるまでの経緯を説明した。駅で嘔吐を繰り返しながら倒れた雅也は病院に搬送された、検査の結果、何らかの有害物質を摂取した事による症状と判断された。しかし、それが何であるかは不明であった。すると病院の職員の一人が、藁にも縋る思いで或る人物に連絡を入れた。それが綾部一治であった。綾部一治は陰陽師を生業としている。正確には、陰陽道をベースとした様々な呪術を駆使する外法使いだ。そうした呪術師を名乗り、祈祷によって病気を改善したり難い相手を呪ったりすると標榜する者は少なくないが、その殆どは偽物である。それらしい理論をでっち上げ、それらしく振る舞っているだけだ。だが、綾部一治は違う。彼の呪術の力は本物で、噂では暴力団に雇われて、敵対する組織を壊滅に追いやったとも聞く。その綾部一治が、何故病院に駆け付けたのか。それは、彼の人脈が病院などの機関に伸びていた事と、彼が学んだものの中に現代医学を凌駕する薬物などの知識が存在していた為だ。綾部を知る人間が彼に連絡を取り、患者が尾神雅也と知ると、綾部はすぐに薬草の調合を行なった。そうして、雅也が摂取した物質が、彼を治した薬と同じように古代の毒物である事を知ったのだ。

「そして、貴方でなければね」

 綾邊一治の存在と、尾神雅也の肉体、その両方がなければ毒物を摂取した人間は死んでいたという事である。食事を終えた雅也が更なる説明を求めた。

「先ず、貴方をダウンさせた毒物ですが、これは非常に珍しいもので、元来、日本に自生はしていませんでした。一〇〇〇年以上前、シルクロードを経由して手にした渡来人たちによって持ち込まれた植物を調合して作る事しか出来ないものです。有機リン系の毒で、神経障害や麻痺を引き起こし、間もなく死に至らしめる……その一方で、あらゆる病に効果がある薬としても調合次第では使う事が出来ます。本来ならば、耳かき一杯も摂取すれば、数十分で絶命します」

「恐ろしい毒だな」

「ええ。ですが、私も同じものを栽培して使っていましたので、それが役に立ちました。同じ植物から毒も薬も作れますし、最も簡単な解毒薬になります」

「そうか……」

「大きな声では言えませんがね。日本に持ち込まれてから暫く、密教の修行僧や陰陽師、修験者などが好んで使っていたと伝えられていますが、江戸時代までには全て焼き払われてしまったというのです。諸々の危険性を鑑みてね」

 但しそれは表向きの話です、綾部は得意げに語った。歴史は勝者の歴史であり、時代の闇に追放された者たちの活動は公式な記録に残らない。しかし、史書に名が残らずともその時代を生きた人々は存在する。そうした者たちの中に、公の記録で完全に抹消されたその植物を保護し、そして現代まで維持し続けて来た者があったのだ。綾部一治もその一人という事だ。

「勿論、他の人間であれば、如何に私であっても救う事は出来なかったでしょう。貴方が摂取したのは致死量の数倍……倒れてから病院に運ばれ、私が到着するまでに命を失っていた」

「では、何故、俺は助かった……」

「貴方の身体に、抗体が存在していたのです」

「抗体!?」

「はい。この毒……我々は“伊舎那いしゃな”と呼んでいますが」

 伊舎那――雅也は伊舎那天の事であろうと推測した。伊舎那天とは、仏教に於いて一二の方角を守護する十二天という神の内の一人であり、北東、即ち鬼門を守護するものである。仏教の神々はヒンドゥー教の神が如来の教えに帰依したものとされ、漢字文化圏で言うこの伊舎那天は、インドではシヴァ神に当たる。シヴァ神は破壊の力を司る神で、その主な能力は暴風雨であるとされる。激しい嵐と雨は水害を引き起こし田畑を荒らす一方、大地を潤す作用もあり、飢饉と豊穣、二つの相反する役目を持っている。その植物から取り出される毒は破壊、薬は豊穣を意味するものとして、その名前が付けられたものであろう。

「アレルギー治療にも用いられている方法ですが、致死量に至らない極々僅かな量を継続的に摂取する事で、抗体を作る事が出来ます。少なくとも一口では死なない程度にね。但し、その抗体は基本的に長続きはしません。ですので、定期的に摂取し続けないと、毒に当てられて死ぬ事になります」

「俺はそんなものを食べた覚えはないぜ」

「でしょうね。貴方がそんな手段で自殺を試みるとは思えない」

「――」

「スティグマ神霊会――」

 綾部はぽつりと言った。

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