弐
ダイモーデウス―—ホワイトロータスで信仰の対象となっている存在である。雅也はふぅむと頷き、それにしてはおぞましい姿をしていますと正直な感想を述べた。その言い方に怒った様子もなく、御室惣治郎はそれはどういう意味でしょうと尋ねると、雅也は神という言葉からは神聖な印象を受けるが、この絵画からは神や仏や天使といったイメージは沸いて来ず、その代わりに悪鬼や魔神というような言葉が連想されると答えた。
「正直なお人だ。しかし、やはり所詮は世俗の考え方です」
「は……」
「神は自らの似姿として人間を形作ったと言います。ですからこれで良いのですよ」
「私には、これが人間の姿だとはとても思えませんが」
「そうでしょうか。しかし人間は、この姿になり得る可能性を秘めているのですよ」
不思議な事を、御室惣治郎は言い始めた。しかし最初は誰もが首を傾げるようなその言葉も、説明を受ければ納得する事である。地球上に生命が初めて生まれた時、その姿は単細胞のアメーバであった。そのアメーバが進化を繰り返して、現在の地球上の生命が存在する。海から陸へ、陸から空へ、それぞれに適応しながら進化して来た生命の回答の一つが、牛や馬やライオンや鰐や鮫や烏賊や蛸や鷲や鷹や飛蝗や蜘蛛であり、人間もその一つであるというのだ。人間はヒトの赤ん坊として生まれるまで、胎内で生命誕生の歴史を経験するという。精子と卵子が結び付き、細胞分裂を繰り返して肉体を形成してゆく際に、遺伝子を保有した単細胞生物は魚のような形状になり、手足を生やしてゆくと共に尻尾と呼吸する為のエラを失い、遺伝子が導き出したテンプレートに沿ってヒトの形を作り出す。アメーバから様々な生物の姿を経て進化して来た人間の遺伝子には、今まで切り捨てて来た他の動物たちの遺伝子もジャンクDNAとして含まれているのである。そのジャンクDNAの事を、御室惣治郎……彼の信仰するダイモーデウスを神とするホワイトロータスは生命の可能性と呼んでいるのであった。
「もう一つの理由は、人間の本性は、こうした悪魔のようなものであるという事です」
「本性……」
「ええ、人間は残酷な生き物です。他の生物たち、同じ種族でさえ自らの快楽の為に殺め、他者の迷惑も考えずに悪を行ないます。それが人間の本質なのです。人間の本質が悪ならば、その人間を自らに似せて創ったという神も亦、世俗の感覚で言えば、悪魔という事になるでしょう」
雅也は訊いた。「では、尚更、その悪魔のようなダイモーデウスを崇めるのは何故です?」
「分かり易く言うのならば、反面教師という奴でしょう。我らの神はダイモーデウスと言う名前と共に、エフスロスというもう一つの名前を持っています。これは敵という意味です。何の敵かと言えば、我々人間の敵です。しかし、それはダイモーデウスが我々に与える試練という意味での敵です。人間の本質である悪性を乗り越える試練を、ダイモーデウスはお与えになっておられるのです」
雅也はメモを取る振りをしながら、ダイモーデウスの姿を簡単に模写していた。シャーペンでの事であるから色使いや細かい所までは写し切れないが、おおよその特徴は描き写す事が出来ていた。そこに細かくキャプションを付けてゆく。
「それで、ホワイトロータスの教義というのは、どうなっているのでしょう」
「……あんた、スポーツ新聞の記者じゃなかったのかね」
怪訝そうな顔を御室惣治郎がした。スポーツ雑誌を発行している出版社の記者が、宗教について詳しく訊いて来るのが妙であったらしい。雅也は実はホワイトロータスに興味があってと誤魔化した。次の紙面でダイビングスクール“おむろ”の特集を組む事になったと聞いた時、そう言えば学長の御室惣治郎先生がホワイトロータスの信者だったと小耳に挟み、丁度良いと思って手を挙げたのだと言った。それで雅也の怪しさがなくなったかと言えば御室惣治郎の顔を見る限りはないであろうが、兎も角ホワイトロータスの教義についての話が始まった。
――今の世の中は強盗や性犯罪や殺人などといった人間側の悪事だけでなく、大規模な自然災害や野生動物たちの狂暴化など、あらゆる環境が悪化の一途を辿っている。それらは全て、人間がダイモーデウスが古い時代に課した善性を養う為の試練に向き合わなくなった結果であるという。ダイモーデウスを信仰する限り、人間たちは平穏に生活する事が出来るという契約であったのだが、人間の方からダイモーデウスとの契約を忘れ去ってしまったので、ダイモーデウスは嘆くと共に怒り、人間たちにエフスロス以上の罰を与え始めた。それが人間の住む環境の悪化である。これを防ぐ事は最早不可能であるが、ダイモーデウスとの再契約を結ぶべく彼の神を信仰すれば、その人は災厄にまみれた生活を抜け、楽園のような暮らしを手に入れられる。ホワイトロータスの信者、ダイモーデウスを崇める者たちは、契約を忘れた人々を出来る限り啓蒙し、やがてくる大破滅を回避させるという使命を帯びているのだ。
「ダイモーデウス……ホワイトロータスに従わない人々は、どうなるのです?」
「破滅に向かうだけでしょう。正しいものを信じる事が出来ない人々は何れ根絶やしになってしまいます」
雅也は、自らの語りに感慨深く頷く御室惣治郎を眺め、そして訊いた。
「二〇年前、そうした思想の下で、或る事件を起こした団体がいるのをご存知ですか」雅也は言った。スティグマ神霊会です。
影蔵・シヴァジット・獄煉を教祖とするスティグマ神霊会は、多くの一般市民だけではなく、様々な分野で活躍する知識人たちを信者として引き入れ、勢力を急速に拡大していった。一時は、既成宗教教団の総信者数と並ぶのではないかとまで言われた程であり、あらゆるメディアが彼らの話題で持ち切りになった。日本中が何らかの病に侵されたかのように、スティグマ神霊会の名前も見ない日はないくらいであった。
「ええ」苦い顔で、御室惣治郎は頷いた。
雅也は切り込んだ。「ホワイトロータスはスティグマ神霊会の後継組織だという噂があります。実際の所はどうなんですか?」
御室惣治郎は雅也の言葉を否定した。確かに、信仰の対象である神や教義について、スティグマ神霊会と似通っている点が随所に見られる。それは事実だ。しかし、やがて訪れる大破滅を免れるべく自分たちの神や教義を信ぜよというやり方は、たかだか二〇年前に確立されたような日の浅いものではない。この世に初めて宗教が生まれ、教団が設立された時からあったやり方である。神を悪魔と同義的に扱う事も、人間の本質が悪であるという事も、別に珍しいものではない。インド仏教にはハリ・ハラという
すると伽婆羅の指導を任されていた沙織がやって来て、瞑想の時間が終わったと言い、取材を殆ど終えた所である雅也にお茶も出さずにと謝って、これから食事の時間になるが一緒に食べて行かないかと誘った。腹が減っていたので是非と言うと、ではお手伝いをお願いしますと頼まれ、厨房に向かう。ダイビングスクール“おむろ”では、食事は自分たちで用意する事になっていた。建物の裏手に畑があり、そこで栽培された野菜を使って料理をする。なので、肉を食べられる機会は殆どない。いつもの十何分の一くらいの慎ましやかな食事を終えて、雅也はダイビングスクール“おむろ”を後にした。
今回は何の手掛かりを得る事も出来なかった。駅まで戻り、電車に乗って東京へ戻る。その途中で急に眩暈がして動悸が激しくなった。車内のアナウンスがやけに遠く聞こえ、眼の前に虹色の砂嵐が吹き荒んだ。どうにか最寄り駅まで倒れ込みそうになるのを耐えたのだが、電車から降りた瞬間、膝からホームに崩れ落ちてしまった。奇妙に思いつつも関わり合いになりたくないと横を足早に過ぎてゆく人々。代わりに駆け足でやって来たのは駅員だった。心配する声が、伸び切ったカセットテープを再生しているようだった。堪え切れなくなって雅也は嘔吐した。ダイビングスクール“おむろ”で食べたばかりのもの以外に、朝から“おむろ”に向かうまでに食べた大量の食事を全て戻してしまった。消化し切れていなかったものを吐き終え、黄色い胃液が空っぽになるまで吐き続け、最後には赤っぽい液体を咳と共に噴き出させ、雅也の意識が黒く染まってゆく。嫌だ、やめろ、雅也は落ちてゆく瞼に言い聞かせた。やめろ、俺を闇の中に連れてゆくな。見せないでくれ、やめろ……やめてくれ……どくんと、心臓が小さく打ち鳴らされた。
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