第五章 海辺にて天魔を語る
壱
白い波が、コンクリートの防波堤に打ち付けて来ている。この間の雷雨で梅雨入りが宣言され、ここ数日の間、蒼い空を見ていない。じっとりとした空気は少なく、寧ろ妙に乾燥した冷たい風が吹いていた。
雅也は志村から得た情報を基に、早速ホワイトロータスの調査を始めた。D13という謎のテロ組織の発生した集団であり、二〇年前に日本に大きな被害を齎したスティグマ神霊会の後継組織とも言われている団体だ。
雅也が向かったのは、ダイビングスクールという名目で建てられているホワイトロータスの支部で、正式な教会にはカウントされていない場所だった。都内から幾つか電車を乗り継いでやって来た駅を降り、海の方まで徒歩で向かい、地図を片手に海沿いの道路を捜し歩いた。車の行き来は、流石に東京と比べると穏やかだ。しかし、観光地がすぐ傍にある事もあって、梅雨入り直後だというのに灰色の海を眺めに来る者も少なくないようであった。雅也は夏になったら泳ぎたいと思ったが、人が大勢いる場所で泳ぐのは少し躊躇われた。お盆を過ぎれば人も少なくなろうが、そうするとクラゲが多く出るので、結局毎年、海には行かないままになってしまう。
暫く歩いて、雅也はホワイトロータスの教会を発見した。志村の情報通り、ダイビングスクール“おむろ”という看板が掲げられている。三階建ての庭付き、打ちっ放しのコンクリートビルディングで、駐車場には二台のバンと一台のオートバイが停められており、バンの屋根にはサーフボードが括り付けられていた。庭の物干し竿には何着かのウェットスーツが干されている。雅也が入り口のドアを開けて中に入ると、一階はダイビングやサーフィンの為の道具を扱うショップになっていた。一〇代後半と見える少女がいらっしゃいませと声を上げる。
「会長に会いたいんだが」
「入学希望の方ですか?」
“おむろ”は一種の教育機関、更生機関としての側面も持っており、何らかの事情で学業を続けられなくなった若者や、社会からドロップアウトしてしまった幅広い年齢の者たちを住み込みの学生として受け入れている。そうして、他人との共同生活やマリンスポーツ、奉仕活動などを通じて理想の人格を形成し、社会復帰を目指すというのがその目的である。店番をしていた美堂沙織は、雅也がそうした人物を入学させようとしている保護者か何かと思ったのだろう。
「取材をさせて頂きたいんです」
雅也は名刺を取り出した。有名出版社の所属を証明するものである。今回取り出したのは、スポーツに関連する話題を扱う会社のものであった。雅也は普段から何枚もの名刺を持ち歩いており、例えば有名な企業の幹部としてのそれであったり、志村と同じような探偵であったりする。勿論、全て偽造したものだ。公的な書類には使えないが、その場しのぎにはそれなりに役に立つ。
はぁ、と少し訝りながらも沙織は店の奥に引っ込んで、間もなく入れ違う形で会長の
「御室惣治郎さんですね」
改めて尋ねると、日焼けした肌の老人は店の奥に顔を向けて、瞑想の時間だとしゃがれた声で言った。すると上の階から学生たちがぞろぞろと下りて庭に出て、ビニールシートを敷いてその上に腰を下ろした。御室の言う通り、それから始まったのは瞑想であった。結跏趺坐と呼ばれる胡坐に似た座り方をして、重ねた両手を臍の下辺りに置き、半眼になって緩やかな呼吸を繰り返している。
「ヨーガですか」雅也は訊いた。御室はほうと言うような顔をした。ヨガではなく、ヨーガと言った雅也に興味を持ったようであった。
近年、健康増進や精神安定の為に行なわれるようになったヨガであるが、本来はインドのヨーガに由来する。インドから中国に渡って来たヨーガは、現地で瑜伽と音写され、このヨーガと瑜伽の中間の発音としてヨガとしたのが、健康体操としてのヨガである。雅也が言うヨーガとは、ホットヨガなどと違い、宗教的な意味合いを持つものであった。
「分かりますか」
「少しは」
「私どもは
身体を一定のポーズで固定して緊張させ、一方で精神は何かを思ったりする事なく弛緩させる、これによって姿勢の矯正や呼吸の安定に伴う精神の平静化を目的としている。一般的には瞑想と言われる行為を、ダイビングスクール“おむろ”では伽婆羅と言っているのだった。伽婆羅を行なう学生たちは年齢も様々であった。ざっと二〇人以上はいるが、男女の比率が半々である以外は、ばらばらの年齢であるように見え、下は小学生から、上は還暦間近の者まで確認出来る。御室惣治郎が言うには、彼らは何れも精神的に未熟であった故に社会に適合出来なかった、それを矯正するべく精神的な修行であるヨーガ伽婆羅をやらせているという事である。
「それで、何かご用ですか」
御室惣治郎は、沙織にその場を任せ、雅也を店の中に案内した。畳の客間に案内された雅也はもう一度取材の旨を告げ、ホワイトロータスの話題を切り出した。
「このダイビングスクール“おむろ”はホワイトロータスの集会所、教会の役目も担っていますね?」
すると御室惣治郎は、確かに自分はホワイトロータスの信者ではあるし、その教義を学生たちにも伝えてはいるが、信仰を強制したり法人格を得ていたりする訳ではないと言った。個人的な信仰であり、政教分離の原則に照らし合わせても、個人の経営する或る意味では未認可の教育所である“おむろ”では何の問題もないという事である。そうした話になると御室は雅也の事を何らかの省庁からの回し者かと勘繰ったが、雅也はそうではありませんと否定した。
「貴方はホワイトロータスの信者という事ですが、どの程度の階級にあるのですか」
雅也が調べた所、ホワイトロータスには九つのランク分けがされている。先ずトップに一人、これが法人としての代表者である。次に参謀格が二人、これは代表者に次ぐ責任役員であり、その下に最高幹部が四人。そこから下の六つのランクにはそれぞれ支部長などの役職があるが、明確な規定は表向きは存在しないらしく、雅也も調べる事が難しかった。御室惣治郎は、上から六番目のランクにあり、最もランクが低い在家の信者たちよりは上の立場にあるが、幹部クラスではなく支部を持てる立場ではないという話であった。従って、ダイビングスクール“おむろ”はホワイトロータスの支部ではないという事になる。それが事実かどうかは置いておくとして。
御室惣治郎の話をメモしつつ、ポケットに隠したボイスレコーダーで録音しながら、雅也は壁に掛かっている大きな絵に着目した。額縁に飾られているのは、人間のプロポーションを持ちながらも、バッファローの角や爬虫類の鱗、蛇の尻尾、山羊の爪、鴉の翼などを持ち、複数の腕を生やした奇怪な存在であった。左右に伸ばした腕には、人間を含む様々な種類の動物の頭蓋骨や、不気味な矛や槍などの武器を持っており、その凶器からは赤々とした血が滴っていた。下半身は良く見ればケンタウルスのように四足獣の胴体になっている。その怪物としか表現する事を許さないものは、白い蓮華の中央に坐していた。
「こちらは?」
「ダイモーデウス……」我らの神ですと御室惣治郎は言った。
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