「警察や政府にまで、奴らの手が伸びているのか」

「そのようです。そもそも、二〇年前のあの事件から、宗教法人格を新たに取得するのが難しい世の中になっていますから、そうした中でホワイトロータスが法人として認められたって事は、何らかの手引きがあったって事になります。しかも……」

 ピラフを口に運びながら言い掛けて、志村は言葉を切った。ナンにカレーを載せて口に放り込んだ雅也の反応を窺うように沈黙すると、構わないから続けろと雅也に言われ、その通りにした。一度口に入れたピラフを咀嚼して呑み込み、水で腹の中に流し込むと、

「しかもホワイトロータスの代表者っての一部が、そのスティグマ神霊会の幹部と思しき連中のようなんです。名前も変えて、顔も整形して別人に成り済ましているって話ですが、何処かにその本人の片鱗はあるでしょうし、手配書まで作られているような連中が簡単に法人を立ち上げられるとも思えません。やっぱり内通者がいるって事なんじゃありませんかね」

「奴らの目的はなんだ」

 二皿目のカレーまで食べ終えてしまった雅也が、デザートのパフェを待ちながら訊いた。志村は、まだピラフを食べている。皿の底の方まで食べ進めると、味が薄くなって来たので塩を取って掛けた。ウェイトレスが雅也のパフェ三つを持って来たので、勝手に味を付け足したのを見られ、何となく気まずそうな顔をした。

 コーンフレークと液状のチョコレートをグラスの中に重ね、アイスクリームから半分に切ったバナナを突き出させた上にソフトクリームを載せたパフェが、雅也の口の中に吸い込まれてゆく。

「分かりません」

 志村は漸くピラフを食べ終えて、雅也が来る前に注文していたコーヒーのお代わりを頼んだ。二杯目のコーヒーと三つのフルーツサンデーが同時に届き、ウェイトレスは既に空になっていた三つのグラスをトレイに載せて下げた。

「実は、以前にもD13……ホワイトロータスについて、依頼されて調べた事があるんです。依頼者の情報は、幾ら尾神さんが相手でも教える訳にはいきませんが、その時も、これ以上の事は分からなくて。それに、バックにスティグマ神霊会がいるって事は、正直、ヤバい予感しかしませんでした。だから、その依頼者にこういう情報だけを渡して、それ以上の調査は断ったんです。でも、尾神さんがやれって言うなら、俺は調べますよ。尾神さんに救って貰った、その恩を返す為なら」

 途中から言葉が熱っぽくなっていた。それを雅也が制し、危険な予感がするならこれ以上は頼む心算はないと言った。志村がどれだけの恩義を雅也に感じていて、生命の危険さえ省みないと言っていても、そこまでして欲しいとは雅也は思わなかった。自分の命に責任を持てるのは自分だけだ、自分の依頼で人が死んだなら、その魂は怨霊となって絡み付く。雅也は志村を怨霊にしたくなかった。

 食事を終えた雅也と志村は店を出た。志村から、せめてこれだけはと渡されたホワイトロータスの教会の場所がメモされた紙をポケットに入れると、雅也は伝票を半ば奪い取るようにして志村の分の会計も済ませ、更に情報料として折り畳みの財布が畳めなくなるだけの札束を渡し、今度パブを紹介してやると約束した。もうじき雨が降り出すであろうから、その前に家に帰れよと志村に言って、店の前で深々と頭を下げる彼に背中を向けて歩き出した。

「尾神さん!」志村が背中に声を掛けた。「どれくらい、眠れていないんですか」

 雅也は答えなかった。雅也の眼の下には、闇のように黒々とした隈が浮かび上がっていた。歌舞伎の化粧のようになっている。土蜘蛛だ。尾神雅也は眠らない。眠る事の出来ない男であった。






 東京には自然がない。雅也は上京するまではそんな風に思っていた。東京には、ニューヨークのような高いビルが乱立し、川や海は汚染され、木々は普く切り倒されて、排気ガスを吐き出す自動車の行き交う、冷たいコンクリートのジャングルだと言うのが、雅也の考えであった。しかし実際に東京に出てみると、雅也が想像した通りの場所も当然のようにあるのだが、雅也の故郷を思い出させる青々とした森林や、綺麗な空気と川のせせらぎが同居する空間も維持されている場所もある。利便性や衛生面では、舗装されたコンクリートの町の方が良い所もあるが、生命を育む自然を守る事も大切だ。都会に残る緑は、恰も人工物への反逆者であるかのように哀しみと怒りを孕みながら生い茂り続けようとしているのだと、雅也は見ていた。

 緑に囲まれた公園の中を、雅也は走っている。間もなく雨が降りそうだ。その前に家に着く事は出来ないだろうから、公園を抜けたらレストランか何処かで食事を摂ろう。雅也は口の中に溢れて来る涎を呑み込みながら、広い並木道を駆けていた。短距離走の選手のようなスピードではないが、フルマラソンをそのペースで走れば半分も過ぎない内にぶっ倒れてしまいそうな速度であった。

 その雅也の横を、さっと通り抜けてゆく風があった。ジャージを着た女である。目深に被ったキャップの後ろから、ポニーテールの先端が覗いている。袖を前腕の中頃まで捲り上げているが、脂肪の殆どない引き締まった腕であった。ズボンが下半身にぴったりと張り付いて、ボディラインが浮かび上がっている。ヒップから太腿に掛けてのラインがむっちりとしているが、それも脂肪の為ではなく良く鍛えられた筋肉であるようだった。趣味や健康維持の為にランニングをしているのではないようだ。

 雅也を追い抜いた女は、ちらりと後ろを振り向いた。女は雅也を抜いた時の速度を保ち、追い付かれないように走っている。それで雅也は気付いたが、彼女はハイペースで走る雅也に対して、自分の方が速いのだと暗に告げるべく加速したのだ。雅也の方を振り向いたのもそれが目的である。

 雅也は何となく面白くなくなって、ペースをアップした。するとすぐに彼女を追い抜くのだが、彼女も同じようにスピードを上げて迫って来る。いつしか二人の走りは短距離走のそれになっており、結局、公園の出口に到達する時間は雅也の予定から倍以上短縮された。公園の敷地から出ると、すぐにコンクリートの町並みが広がった。

 広い道路を様々な色の車が行き交い、面白くなさそうな顔をした社会人や学生たちが歩道をゆく。

 驚いたなぁ、女はキャップを外して言った。汗をたっぷりと吸ったポニーテールをほどき、前髪を掻き上げる。細長の眼を三日月状に歪めて微笑んでいた。それ以外にはこれと言って特徴のない顔立ちで、ブスでは全くないが取り立てて美人という訳でもない。何処にでも良そうな普通の女性という感じだったが、それならば最高速のギアに引き上げられるよう心臓を温めていた雅也に追い付ける走りなど、出来る訳がない。

「驚いた?」

「私が追い越せないなんて、思わなかったんです。くぅーっ、悔しいなぁ」

 ばりばりと、些かガサツな様子で頭を掻く女。その手を見て雅也は眉を顰めた。女の腕は、筋肉の発達の為に平均的な女性のそれよりも太めだが、脂肪が薄いのでそれも気にならない。だが、その手は分厚く、指は太く、しかも指の付け根の骨が削れて丸みを帯びていた。空手などの打撃系の格闘技を学ぶ者に顕著な特徴だが、それにしても、女性の手とは思われない程であった。

「若しかして何処かの選手だったりするんですか? だったら無謀な挑戦だったかも」

 いや、と首を横に振る。オフィシャルな記録は持っていない。そういうあんたはどうなんだと雅也は訊いた。女は、押忍と両手で十字を切ってから、

力神会館りきしんかいかん初段、丹波たんば麗奈れいなです! 押忍!」

 力神会館は、フルコンタクト空手の道場だ。段持ちという事は黒帯である。その名前には憶えがあった。力神会館を含む多くの流派が集ったオープントーナメントの大会で、上位に入賞した人物の名前だ。見ての通りウェイトは少ないが、培った技術と逞しい精神力で一気に勝ち上がったのだという。

 雅也も簡単に名乗って、そこで分かれる事になった。元から別の道をゆく二人であるから当然の事だ。

 麗奈は機会があれば道場を訪ねてみて下さいと勧誘して走り去って行った。トップスピード直前の雅也の走りに追い付こうとしていたのに、まだ走る事が出来るのは、大したスタミナという他にはなかった。

 雅也も走り出した。予定よりも早く公園を抜けられたので、予定よりも多くの食べ物を身体が欲していた。雨がぽつぽつと降り出した。遠くで雷が鳴っている。


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