第三章 灰色の空の下で

 都内の喫茶店で、その男は客を待っていた。糊を効かせてぱりっとしたスーツを身に着けており、ワックスで撫で付けた黒髪は所々にハネがある。もう四〇も近いと見えるのだが、几帳面さよりも不器用さが目立っていた。左手をテーブルの下の太腿の上に置いている。テーブルの上にはアイスコーヒーがあり、半分ほどの量がなくなっている。

 湿気っぽい日であった。空は重苦しい灰色で、いつ雨が降るか分からない。つい先週などは、降水確率が極めて低かったにも拘らず雷雨になった日があったし、朝から雨だの嵐だのと言われていたのに雲一つない蒼空が広がった時もあった。今日もどうせ降らないだろうと傘を持ってこなかったのだが、やはり心配になって来た。

 平日の昼間、外回り中のサラリーマンが一休みしに入ったり、暇な大学生がグループで押し掛けて居座ったり、夫も子供も家にいない奥様方が女子会を開いていたりする。そんな喫茶店に新たな来客があり、ウェイターに案内されて、その男の所までやって来た。左右で異なる瞳を持ち、その下に黒々とした隈を刻み込んだ男――尾神雅也であった。

「尾神さん、お久し振りです」

 男は席から立って、雅也に深々と礼をした。雅也の些か変わった風貌に対して、スーツ姿の男はしっかりとした社会人のようにも見える。雅也は構う事はないと言って男の向かいに腰掛け、自分を案内したウェイターに大盛スパゲティナポリタンとこだわりカレーをナンで頼み、ここの大盛りは本当に多いですよと言われるとならば二皿ずつ持って来てくれと言った。食後にはチョコレートバナナパフェとフルーツサンデーを三つずつ注文した。

「相変わらずの食欲ですね」呆れたように、同時に尊敬したように男は言った。俺まで腹が減って来ますよと、男はピラフの普通盛りを注文した。ここでは、普通盛りが多くの店で大盛りと呼ばれる量になっており、それだけでも食べるのが大変なくらいだ。だから、駄弁るのが目的の集団でやって来る客などは、一皿か二皿を頼んで、そのグループでシェアして食べる事も多いが、余り良い顔はされない。

「志村、お前に訊きたい事がある」

 お冷を飲み干して、雅也は訊いた。ここまで、ジムでトレーニングをした後、一時間くらいノンストップでランニングをして、銭湯で汗を流してからやって来た。癖毛には少し水の珠が絡まっている。それが学生時代からの友人である志村に対する礼儀であった。

 志村は、学生時代の金髪をやめて黒く染め直していた。高校を卒業して東京に出て間もなく、つまらない諍いから人を刺してしまい、数年ばかり刑務所に入れられた。相手が重症ではあったが死亡しなかった事と暴力団員であった事から期間はそう長くはなかった。出所後間もなく、自分が刺した暴力団員の仲間に襲撃されたが、東京に出ていた雅也に偶然助け出され、以来、雅也に対しては最大の礼を尽くして接している。出所してから探偵学校に入り、暫くは週刊誌の記者として働いた後、学校で得た資格と出版社で稼いだ金を使って事務所を開設した。雅也には、その時に連絡を入れて名刺を手渡している。

「仕事の話ですか?」

「そうだ。D13という言葉に覚えはあるか」

「D13? それは確か、今、裏の方で言われているテロ組織もどきの事ですね」

「知っているのか?」

「……多少は」

 妙な間を持って、志村は頷いた。横から灰皿を取って、構いませんかと煙草の箱を見せて雅也の了解を得ると、マッチで火を点けた。赤い灯火の中から、白い煙がふわりと立ち上がってゆく。最近は煩くなりましたと志村がぼやいた。近々、都内全ての飲食店で全席禁煙にするか、喫煙スペースを設けるかしなければならない法律が通ろうという所であった。スペースが作れない店は全席禁煙にするしかないが、常連客の多くがスモーカーで成り立っている店の場合、客足が遠退いてしまう事は間違いない。

「煙草は二〇歳までにして置いた方が良い」

「へ? 普通は逆じゃないですか?」

「一年二年で煙草の害は変わらない」

 二〇歳なったからと言って煙草が身体に悪いという事に違いはない。一〇代で日常的に吸って若くして死ぬのも、成人してから吸い始めて身体を壊すのも大した違いはないのだ。だから、二〇歳までに吸わなかったのならそれ以降も吸わない方が良いし、それまでに吸って来たのならそろそろやめて置いた方が良い。志村は成程と頷いて、煙草の先を灰皿に押し付けた。俺は中学の頃に煙草も酒も覚えましたから、もう充分って事ですね、そう言って笑った。

「D13の話でしたね。近年の反体制派の勢いに便乗して結成されたテロ組織……」

「実際には逆だと聞いている」

「みたいですね。D13こそが、今の反体制の風潮を作り上げているとか」

「裏に、ホワイトロータスという宗教団体があるらしいな」

「そこまでご存じなんですか」

「ああ」

「ええ、そのようで。その事は警察も何となくは分かっているようです。昨今の反社会的な風は、暴力団や不良グループ、外国の過激派たちが作っているのではないという事はね」

「何故、その事が報道されたり、調査されたりしないんだ」

 理由は二つ、と、志村が左手の人差し指と中指を立てた。小指がなくなっているが、志村は雅也に助けられた時、自分がその恩義に報いる事への誓いの為に、自ら切り落としている。雅也の自宅には、桐の小箱に入れられた志村の小指が、今も保管されている。掃除を滅多にしない部屋であるから、家の中を引っ繰り返さない限りは見付からないだろうが、志村は例えなくなっても一方的な誓約であるから問題はないと思っているし、雅也はその箱が家の何処かにある事を確信している。誓いは誰の眼にも触れず、当人たちの心の中にあれば良い。

「一つは、連中がゲリラ組織だっていう事です。ホワイトロータスの集会所……彼らは教会と呼んでいますが、この教会は日本全国に小さいものが幾つもあります。届を出していない、もぐりの教会もあるそうです。そういう所に、武器や弾薬なんかをちょくちょく移動させて、ガサ入れから逃れているんです」

「もう一つは?」

「もう一つは、ガサ入れをする側……警察や政府に、連中の仲間が入り込んでいるって事です。怪しい動きをD13がした場合、その動きはにも伝えられます。そのゴキブリが捜査情報をD13、ホワイトロータスの各支部に漏洩して、捜査を攪乱しているんですよ」

 ゴキブリって虫は、人間が仕掛ける罠に対して少しずつ耐性を付けているらしいです、要は自分たち自身の何らかのネットワークを持っているんですよ。その事から警察側は、D13・ホワイトロータスの諜報員の事を、ゴキブリというコードネームで呼んでいるのだと、志村は説明した。

 丁度そのタイミングで、雅也が頼んだ大盛りナポリタンがやって来たので、嫌な名前を聞いたと雅也は顔を顰めた。食い物を出す店で聞きたい名前ではないし、店内に出たとなると衛生面で信用問題になる。

 タバスコと粉チーズを、瓶の中身がなくなってしまうのではないかというくらいにナポリタンに振り掛けると、白と赤のまだら模様になったスパゲティをつるつると啜り始めた。 テーブルの横に置かれたA4サイズのメニュー表を縦にして、半分の高さにまで盛り付けられたナポリタンが、見る見るサイズを小さくしてゆく。毛糸玉から一本の糸を抓み出して、そのまま遠くまで歩いてゆき、気が付けば糸の玉は単なる糸の塊になり、やがて一本の糸になってしまう。それを早回しで見ているようだった。

 二皿目のナポリタンとカレー、それと志村の頼んだピラフを運んで来たウェイトレスが眼を丸くしていると、志村は雅也の事を誇らしげな眼で眺めるのであった。

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