帰らなくて良いのかと訊く雅也に、家で待っている家族はいないと朝田は答えた。転校して来た理由は、父と母が離婚したからで、この町には母と一緒にやって来た。その母は職場を離れる訳にもいかず、この町から東京の会社に働きに出ている。だから帰って来て一緒に食事が出来るのは、月に二度あれば良い方である。

 雅也はその事実だけを確認すると、どのような感想も抱かずに料理を続けた。まな板の上でまたたく間に玉ねぎが一つみじん切りにされてゆく。二つあるカセットコンロの内、片方に乗ったフライパンにはデミグラスソースが煮立たせられており、もう片方に油を引いて、みじん切りにした玉ねぎをあめ色になるまで炒めた。玉ねぎをボールに移して粗熱を取り、出して置いた合い挽き肉を入れ、牛乳を注ぎ生卵を割り入れ、ナツメグを振るってから調理用のビニール手袋で捏ね始めた。その間にも別のボールには醤油とみりんと生姜とハチミツに漬け込んだ鶏胸肉が下味を染み込ませられている。又、流しには水を入れた深めのバットが置かれ、レタスがしゃきしゃきとした食感の為の張りを取り戻していた。胡瓜とトマトも冷えている。

「済まないな、手伝わせてしまって」

 横でジャガイモと人参の皮を剥く朝田に言った。朝田の手元には二つのバットとジャガイモと人参をそれぞれ入れていた麻袋が置かれ、ピーラーを使って皮を剥いている。洗って土を落としてあるジャガイモの芽を取り、砂色の皮を削ぎ落してゆく。ごつごつと角を作りながらも、瑞々しい黄色の身が顔を出し始めた。雅也が三日月状に切るものはフライドポテト用で、潰して捏ねるのはハッシュドポテトだ。人参は両端を落として皮を剥ぎ、輪切りにしたものを更に星やハートの型を押し当てて成型してゆく。他にもささがきにして、ごぼうと炒める準備も出来ていた。

 雅也の自宅は住宅街にある一軒家である。キッチンとリビング、風呂とトイレ、後は雅也と妹の真里まりの部屋になっている。雅也と真里の両親は既に亡くなっており、親戚からの援助と雅也自身がバイトを掛け持ちして稼いだ金で学校に行っている。真里は小学生の頃から続けていた陸上で才能を見出されて、電車で五駅先の私立中学に進学した。部活動のレベルは高いが、その分、学費も掛かる。雅也が高校を休んでまでバイトをしているのはその為だ。

 真里は夕飯を向こうで食べて来る事が多いのだが、今日は部活仲間や他の友人たちに悉く用事があると言うので一人で食べるのも味気なく、家に帰って来て食事をするという事であった。雅也は昔から料理が好きで、真里も兄の作るご飯を楽しみにしている。雅也自身も働き詰めで腹が減っているという事もあり、バイト掛け持ちの少年とスポーツ少女の兄妹では、なまなかな食事量では足りないのであった。

 日が暮れ落ちる頃、リビングのテーブルに料理が並べられるのと同じタイミングで、真里が帰って来た。飛び込むようにして帰宅した真里を待っていたのは、兄の作る料理の空腹を煽る匂いであった。

「たっだいまー。お兄ちゃん、誰かお客さん? 知らない靴があったけど……って、わっ、美味しそう! でもいつもいつもこんなに豪勢じゃなくても良いのに――いや嬉しいけど……ってか、お兄ちゃんもお腹減ってるんだもんね、仕方ないか。それはそうと誰かいるの? ……あっ、チョーイケメン発見! 誰々? お兄ちゃんのお友達?」

 帰るなり捲し立てる真里に、朝田はおろおろと戸惑ってしまう。雅也は慣れた調子で答えてゆき、朝田の事を友達だと紹介した。四月に転校して来たが折りがなくて挨拶出来ずにいたが、今日は良い機会だったので家に招いた。朝田が怪訝そうな顔をすると、真里には自分がバイトを山のようにしている事は教えていないと耳打ちした。膨大な食費と趣味のツーリングの為だとしか言っていない。足長おじさんの気分は悪いものではないし、真里が兄に余計な気を遣って部活に集中出来ないのでは可哀想だったからだ。

「でも、お兄ちゃんが友達連れて来るなんて珍しいよね。って言うか、お兄ちゃんに友達なんかいたんだ。いつも一人で筋トレか料理かバイクの手入れしかしてないから、学校で嫌われてるんじゃないかって心配してたんだよ? でも、こうして同性のお友達を連れて来てくれるなんて、真里、嬉しいな。どーせならガールフレンドでも連れて来てくれてた方が安心出来たんだけどね!」

 真里は帰宅した時には色気のない学校指定のジャージを着てスポーツバッグを抱えていた。荷物を部屋に置き、制服や部活のユニフォームを洗濯機に入れ、手を洗って戻って来ると、その姿は一変していた。ゆったりとしたパステルカラーのブラウスだが、襟や袖口は黒い生地が当てられて引き締まった印象もある。ウェストがゴムになった黒いミニスカートは、陸上をやる上で否が応でも太くなってしまう脚を細く見せていた。平均くらいの身長で体脂肪率が低く、ショートカットの所為もあってボーイッシュに見えるが、肌のケアは怠らないようで常に日に晒されている筈なのに透き通るような白い肌をしていた。

「随分とお洒落に決めて来たな」

 雅也が茶化すと、お客さまの前だものとおしとやかな口調になって、ドラマでしか見た事のないようなスカートの両端を持ち上げる礼をする。するとむっちりと張り詰めた太腿が露わになり、見てはいけないものを見たような気になった朝田はさっと眼を反らしてしまう。しかしミニスカートの奥から現れたのは肌にぴったりと張り付くスパッツであった。雅也がそれを指摘すると真里は気恥ずかしくなって下顎の辺りを指で掻いた。兄と同じ癖であった。

 テーブルの上には、フライドポテトと人参のグラッセを添え物にしたデミグラスソースのハンバーグ、ベビーリーフの上に盛り付けた鶏の唐揚げ、ハッシュドポテトが三つ、粉チーズを振って自家製のクルトンを散らしたトマトとレタスと胡瓜とベーコンのサラダ、鷹の爪を刻みごま油で炒めた濃い目の味付けのきんぴらごぼう、朝から仕込んでいたピラフがそれぞれ大皿に乗せられて並んでいる。食の細い人間ならばそれだけでえずいてしまいそうな量だが、若い二人はこれくらいならばぺろりと平らげてしまう。

 頂きます、と、手を合わせて取り皿に自分でよそってゆく。ピラフはグリーンピースとスイートコーン、細かく刻んだ人参とウィンナー、コンソメを入れて炊き上げ、最後にバターを落として混ぜ、香ばしく仕上げている。ハンバーグはかりっと焼き目を付けた外側から、ジューシーな肉汁が溢れ出す。中まで味の染みた唐揚げは、さくさくとした衣の食感が楽しかった。

「野菜もしっかりと喰うんだぞ」

「イヤ! 朝田さん、トマトと胡瓜食べるー?」

「好き嫌いはいけないよ……」

「そうだと思ってハンバーグに胡瓜を刻んで入れて置いた」

「胡瓜に火を通したの? 莫迦じゃないの、胡瓜とトマトに火を通すなんておかしいよ!」

「冗談だ」

 もう、といきり立つ真里を眺めながら、丸のままの胡瓜をかじる雅也。切っているものよりこっちの方が旨いと言った。

 朝田は、これだけの料理を殆ど一人で済ませてしまい、そこいらのレストラン顔負けの味まで表現してしまう細やかさを持ちながら、粗野な面を同時に持ち合わせてもいる雅也の事が分からなかった。だが、不思議と嫌ではない謎だった。例えるならば、一寸先も見えない洞窟の奥から漂う花の香しさ……底知れない尾神雅也という少年に、深い興味を抱いていたのだった。

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