「尾神……」

「話を聞くに、万引きしたお前たちが悪いようだな、志村しむら、それと三田みた……」

 志村というのは、金髪の男子の事だ。パンチパーマの生徒は三田という。この町の住人は殆どが人見知りだ。良い話も悪い噂も情報は共有されている。志村と三田がグレにグレているという事は、学校の誰もが知っている事であり、彼らがすぐにでも暴力に訴えかける事も有名であった。喧嘩が強い者が一番偉いという学生たちの臆病な性質と、所詮は子供たちの問題だと思う大人たちの放任主義に乗っかって、志村と三田は不良三昧をしているのだった。

「だったらどうした⁉」

「今なら黙っていてやる、その本を寄越すんだ。爺さんには俺から言って置いてやる」

 尤も、万引きされた事を気付いていないなら、金を払えばそれで済むがね――若き日の尾神雅也はそう言った。雅也自身、郷土愛のようなものは持っている。如何に志村たちが救いようのない不良であれ、自分と同じ町で生まれ育った、言うなれば仲間のようなものだ。仲間の中から犯罪者を出す訳にはいかない。殺しや取り返しのつかない盗みでもない限り、自分の力で弁護してやりたいという思いがあった。

「ふざけんじゃねぇ、てめぇ、余所モンの味方をするのか」

 志村が立ち上がって唸った。雅也が志村の事を知っているように、志村も雅也の事は知っていた。成績優秀、運動神経抜群で、容姿も良く、女の子から告白される事も多かった。女子からの好意に真摯に向き合いつつ、ありがたいが今の自分には時間がないと断るその姿は、ストイックで大人びて見え、同年代の男子の中でも頭一つ抜けているようであった。志村には、いつもスカした笑みを浮かべている薄気味の悪い男としか思えないのに、どうして尾神雅也がモテるのか、いつも気に喰わないでいた。

「俺は誰の味方でもない。敢えて言うなら、正義の味方って奴かな」

 頸を僅かに横に傾け、顎骨の付け根の辺りを指で掻く。雅也の癖であった。普通なら思うだけでも顔を真っ赤にしてしまいそうな恥ずかしい台詞に照れているようでありながら、衒いを感じさせない口調で言うものだから、人からは自分に酔っているようにも見える。それがさまになってしまうので、女の子たちはその純粋な様子にときめきを感じてしまうようだった。志村は、自分の眼の前でそうした姿を見せ付ける雅也に対し、ずっと腹に据えかねていた。

「それなら正義のヒーローさんよ、この余所モンを、助けてみろや」

 志村は雅也に歩み寄り、いきなりパンチをぶちかました。顔を狙った得意の右ストレートは、容易に相手の鼻骨を陥没させる。雅也が緩く頭を後ろに反らし――スウェーバックをすると、志村の拳は雅也の鼻の寸前で停止した。普通、ストレートのパンチに対して、スウェーバックは適切ではない。真っ直ぐ進む拳を、真っ直ぐ下がって避けようとすれば、パンチは真っ直ぐ追い縋って来る。だが雅也は、スウェーと共に僅かに後退し、頭を自身が直立した際の重心の領域から出ないよう保ちつつ、志村のパンチの届かない場所に移動していた。

 志村は、しかしそれならばそれで構わなかった。パンチに意識を向けている雅也の、逆に集中が途切れている下半身に対し、タックルを仕掛けた。直立した人間に体当たりをしても、余程の体重差がない限りは、簡単に倒れたりはしない。だが、重心がぶれた状態でぶつかってゆけば、ほんの少しの風が吹いただけでも倒れる事がある。生物の場合、身体を突っ張らせたり、重心を巧く移動したりする事で転倒を回避するのだが、それ以上のパワーでぶつかられた場合は、そのまま倒れ込んでしまう。志村は雅也の腰に肩を押し当て、前に出した左脚を雅也の右脚に絡め、そのまま押し倒そうとした。

 だが、雅也はその場から更に少し後退し、志村の制服の後ろ襟を掴んで引き、志村の右横にスライドしつつ、もう片方の手を志村の腹の下に潜り込ませた。志村の腹を掌底で突き上げながら襟を掴んだ腕を落とすと、志村の身体は空中でぐるりと縦に一回転し、尻から地面に落下した。

 ぽかんとした顔をした志村に背を向けて、雅也は三田に歩み寄った。野郎、と、三田が掴み掛ってゆくが、雅也の制服の襟を掴んだ瞬間、三田の身体もふわりと浮き上がっていた。こちらは一回転はせずに、胸から地面に落ちて、顎を強くぶつけて脳震盪を起こしてしまった。

「平気かい。見ない顔だが、転校生だって?」

 雅也は志村が地面に落とした成人雑誌を拾い上げ、砂埃を払うと、小脇に挟み込んで朝田に手を差し伸べた。朝田が雅也の手を取って立ち上がり、ありがとうと礼を言う。雅也は顎の付け根を指で掻きながら、大した事はないさと微笑んだ。

「少し頭を冷やすんだな、二人とも」

 行こうぜ、雅也は朝田を促した。朝田は顔に出来た痣を拭って、雅也に付いてゆく。分厚い雲を引き裂いて降り注ぐ赤い夕陽の中に浮かび上がる、雅也の背中に。





 雅也は志村たちに言ったように書店に行き、店主の男性に金を払って成人雑誌を改めて購入した。老人は、親には内緒にして置いてやると言って、すかすかになった黄色い歯を光らせた。雅也が一緒に買った月刊の少年漫画雑誌と隔月発売のバイク雑誌は、成人向け雑誌のカモフラージュと思われたらしく、店主はそれを学生らしいいじらしさと受け取ったようであった。

「朝田辰美たつみです」

 朝田はそう言って、自分の事を話した。この四月に転校して来たのだが、中性的な顔立ちである事や、名前に“美”の字が入っていて女の子のようだとからかわれ、排他的で閉鎖的なクラスになかなか馴染めないでいたという話である。そんな折に起きた事件であった。

 雅也は、朝田が自分と同じ学年、同じクラスである事を知って驚いた。それは朝田も同じ事であった。この二ヶ月間、朝田は尾神雅也という人物を見掛けた事がなかった。雅也はバイトを幾つも掛け持ちしており、この時期に限って妙に忙しくて学校に顔を出せなかったのだと言う。単位については、緩い校風もあって、追試で好成績を取れば問題はないと言うので、地頭の良い雅也は心配する事がないのである。

「あの人たちの事は、良いんですか」

 志村たちの事を朝田は訊いた。店主が知らない間の事であったとは言え、彼らがしたのは万引きという犯罪である。それを放って置いても良いのかと訊いたのだ。罪に対する罰がなければ、人は何度でも罪を犯す。雅也のやり方は志村たちにとって都合が良いばかりで、彼らが今後行なうであろう犯罪の助長にしかならない。

「人には許しが必要だからな」

 雅也はそう言った。自分に人を罰する資格はない。ましてや、少々グレてはいても、同じ町に住む仲間だ。将来的に町を出るか町に残るかは分からないが、その時、一緒に笑い合える間柄でいたい。万引きが軽い罪であるとは思わないが、取り返しがつく事であれば、出来る限りは取り返させてやりたい。この時に雅也が下した判断が奇跡的なものであると、いつかは志村や三田も分かってくれる筈だ。過ちを責め立てるばかりが、善行ではない。

 そういう考え方もあるのかと理解しながら、朝田は納得し切れていない様子であった。彼らに対する罰があったとすれば、それは雅也による肉体のダメージであろう。しかしそれで自らの行ないを省みて、二度と同じ事をするまいと考えるかどうか。

「尾神くんも、を、読むんですか」

 ? 雅也は、漫画雑誌とバイク情報誌、そして成人向け雑誌の入った書店の紙袋に眼をやった。雅也は鞄の類は持っておらず、小脇に袋を抱えて運んでいる。成人向け雑誌を漫画雑誌バイク誌で挟むようにして入れ、袋から透けないようにしていた。

 朝田は、あの店主や雅也の事が分からなかった。書店でも蒼いシールで封をされ、高校生には販売出来ないと明記されているにも拘らず、店主は学生服を着ている雅也に平然と成人向け雑誌を販売した。朝田からすれば、それは志村たちがやった事と大差ないように思えた。知られないようにして犯罪を隠蔽するか、金を払って犯罪を黙認させるか、その程度の違いだ。そうした意味も込めての問いであった。

「読むよ、男だからな」

 雅也は言う。全ての男がそうという訳ではないが、少なくとも俺はこういうものに興味がある。勿論、フィクションとして楽しむに限っており、映像であれ写真であれ、その内容が真実であるという風には思っていない。どのような台詞も文章も、リアリティはあってもリアルである必要はなく、少女漫画のキャラクターの眼が異常に大きい事や、ドラマでシチュエーションごとにBGMが奏でられるのと何の違いもない演出であるべきと考えている。そうした判断が多くの未成年たちには難しいと大人が思っているから禁じられているだけで、その判断が可能であり、性的欲求に流されずに自らを律する事が出来るのならば、閲覧に年齢は関係ないと雅也は思っていた。

「不潔だと思います」

 朝田がきっとした表情で言った。志村に無理やり見せられた時、興味を示してしまった自分の身体に対してさえも、そう思っているかのような言い方であった。

 雅也はふぅんと鼻を鳴らして頷き、それはそれで構わないさと言った。但し、人の趣味、ひいては主義や思想にケチを付けるような断言はやめて置いた方が良いんじゃないかなと釘を刺して置いた。

「良くないな」

「良くない? 僕が間違っていると言うんですか」

「律の上では正しいさ」

 律? と訊き返す朝田に、雅也は答えた。法律という言葉があるが、これは仏教の言葉から来ているものだ。律と言うのは、或る特定の集団の中でのみ機能するルールの事だ。例えば、日本では殺人が禁じられており、これを犯した場合は裁判によって規定された年数を刑務所で過ごす事になるか、その罪状によっては死刑に処されるという事もある。しかし、若しも殺人を犯した人間に対する処罰が存在しない国があったとすれば、その国で殺害された、又は殺害したとしても、日本国で施行されている刑罰を適用する事は出来ない。極端な事を言えば、そういうものが律だ。法は、仏教用語の戒という言葉に置き換える事が出来る。戒というものが法をベースにして考えられているからである。法はその人間個人の道徳心に基づくものであり、それを犯した場合には裁く者が存在しない。敢えて断罪者が存在するとすれば、それは自らの心であり、又は神や仏と呼ばれる上位の存在でしかない。人間の善性を認めるとすれば、殺しや盗みなどを罰するルールがなくとも、それらの罪を責め立てる精神が人間にはある筈だ。

 朝田の言う事は律の上では正しい。だが、雅也の持つ法には適用されないのである。屁理屈ではあるが、と、雅也は笑った。良く聞けば、日本という法治国家――雅也の言葉で言えば律治国家かもしれない――の中で生活してゆく上では何とも不適合な理屈ではあるのだが、雅也の語りが堂々としている所を見ると、何故か納得してしまいそうであった。雅也が持つ自分を信じる力が、朝田の心を上回っているのだ。

「……貴方は凄い人だ」

「大した事はないさ。それより、腹が減ったろう、何処かで飯でも喰っていくか」

 雅也が言った時、制服のポケットでベルが鳴った。雅也の大きな手には、安っぽい名刺か何かのようにしか見えない。雅也が送信されて来た内容を見ると、

「悪いな、妹が帰って来る。飯を作らなくちゃいけないが、良ければ馳走するぜ」

 雅也の言葉に甘えて、朝田は彼の家に行く事にした。

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