参
「D13?」雅也は
家に戻ってシャワーを浴びた後、近くのコンビニで買い込んだ五種類の弁当と六つのサンドイッチ、それらを食べている間に沸かしたお湯でカップラーメンを七つ戻し、出来上がるまでにおにぎりを四つとフライドチキンと春巻き、ハッシュドポテトを食べた。腹の中をクールダウンさせると、ランニングで地下鉄五駅分の距離を歩いて向かった、都内のトレーニングジムでの事である。
はい――雅也の隣で、彼と同じようにランニングマシンを使っている男が頷いた。同じようにとは言っても、雅也とその男が使っているマシンの速度は、雅也の方が倍以上は出ている。男が出している速度も、単に健康目的でジム通いをしている者よりは速いが、それでも雅也のものにはとても追い付かなかった。雅也も男も、言葉がぶれる事はない。
「何だ、それは」
「最近、流行りの、テロ組織ですよ」
テロ? と、訊き返す雅也に、隣の男――綾部一治は頷いた。綾部一治は、雅也と同じくらいの身長だが、彼よりも随分とほっそりとしている。肌の色も白く、光を浴びた事がない深海魚のようであった。顔立ちは整っており、微笑みを浮かべればすれ違う女性が無条件にときめいてしまうだろう。前髪を星の形をしたヘアピンで留めていた。黒を基調としながらも、蒼や赤や白や黄色の差し色が至る所に入れられた、専用のトレーニングウェアを着ている。
「ニュース、見ましたよ。昨夜はご活躍だったようですね。SNSというのですか、あれでも大層、話題になっていたようじゃないですか」
「大した事はない」
「ご謙遜を。ビルの四階から女性を連れてダイブするなんて、洋画の世界でしか見た事ありませんよ」
「そんな事は良い。それで、D13とは何だ? テロって言うのは、どういう事だ」
「裏社会の噂程度の話ですが――中東のテロ組織に感化された若者が過激な行動に走っているという現状は、尾神さんもご存じの事と思います。政府の意向に反対する者たちや、指定暴力団の抗争など、反社会勢力の活発化……D13は、それとは別に、その若者集団の行動に便乗するようにして設立された集団という事です」
「莫迦な奴らだ」
雅也はふんと鼻を鳴らした。今時、テロなんてやる奴はみんな莫迦だ。要は腕力で人をねじ伏せようとしているという事だ。雅也自身、そういう事が出来るだけの力はある。昨晩の男たちの目的が例えば強盗であった場合、雅也は自分の肉体だけで達成する事が出来る。あの三人の男を殺す事だって可能だ。しかし、一人の人間にそれを許せば、他の人間も同じような事をし始める。そうすると、大多数の弱い者たちが割を喰う事になる。それはいけないと思ったから、村や町や市や県や国が出来たのだ。他の動物たちが当たり前にやっている事を、人間たちは出来ないしやられたくないから、ヒト以外の動物を獣と称して区別し、厳格な秩序のある社会を創り出したのである。それを、例えどんな理由があるとしても、銃火器や爆弾で覆そうなどというのは、先人たちの努力を水泡に帰し、人間が人間たる所以を切り捨てた、醜悪なケダモノの行ないでしかない。そのバックにあるのが、貧困であれ宗教的問題であれ性的な理由であれ、ヒトがヒトを傷付けて良い理由にはならない。ヒトがヒトを殺してはならないのだ。だから雅也は、そういう事をする連中を莫迦だと吐き捨てる。生物的な本能と戦うのが、人間の歴史であった筈だ。
「というのが、表の話……」
「表? 裏社会の話なのに、表の話か」
「そう言うとおかしなものですがね、要は裏の裏という話ですよ。物事はコインの表裏ではなく、二重にも三重にもなっている箱という事です」
「ふぅん」
「兎も角、そうした近年の過激派の活動ですが、その背景に、彼らの姿があるらしいのです。つまり、過激派の行動に便乗して生まれた新しい集団ではなく、その集団が自分たちの行動を出来るだけ隠密にすべく過激派や反社会勢力を育てて、今の状況を作り出した――」
「昨夜の件は、その一環という事か」
「そうなるでしょう」
「何者なんだ、その莫迦共は」
莫迦と切り捨ててはいるが、雅也は、綾部一治の話が真実だとすれば、その集団はかなりの規模を誇っているのだと分かっている。政府に対する反感を煽り過激派を生み、暴力団を内部から分裂させ、治安を悪化の一途へと辿らせている。チンピラもどきが戯れに始めたのではない、暴力団や政治家の中にも、その者たちの手が伸びているのだろう。
「ホワイトロータス」綾部一治は言った。「それが彼らの名前です」
「ホワイトロータス? それは確か……」
雅也はその名前に聞き覚えがあった。ここ何年か前に設立された、小さな新興宗教団体であった筈だ。しかし、その規模は本当に小さいもので、仏典や聖書などを掻い摘んででっち上げた自分たちの経典でちょっとした説法をする程度の集団であった。新聞社やテレビ局、有名メーカーなどと癒着している、戦後間もなく設立された大規模な宗教法人と比べれば、マイナーにも程がある団体であると思っていた。
「そのホワイトロータスが、D13とかいう組織の黒幕だっていうのか」
「そういう話です。俄かには信じられない事でしょうが、私も多少、自分で調べさせて貰った所、案外と信憑性の高い話みたいですね」
「ほぅ」
「ホワイトロータスが法人格を得たのは六、七年くらい年前ですが、その母体となっている組織がありました。尾神さんも知っているとは思いますが、スティグマ神霊会です」
綾部一治がそう言った時、雅也は「何⁉」と、声を高くして、ランニングマシンの上に置いていた足を強く踏み込んだ。その余りのパワーは、マシンのベルトコンベアをぶち抜いて靴底を床にまで落下させてしまった。ぎょっとなったジムのインストラクターが駆け寄って来て、困りますよ尾神さんと注意をしたが、雅也は変わらない調子でマシンに乗り続ける綾部一治を睨み付けるように見ていた。
「私はこれで失礼しますね。よろしければ、修理代、お貸ししましょうか」
「要らん」
雅也はインストラクターに謝り、ジムでのトレーニングを終わりにするという綾部一治と共にロッカールームに戻り、自分の財布を取り出してランニングマシンが新しく三台は買えるだけのお札を渡すと、シャワーを浴びて着替え終えていた綾部と入れ違うようにしてシャワーを浴び、あのくすんだ色のジャケットを着直してジムを後にした。
建物から出ると、太陽は中天に達している。家を出てから午前中の間、ずっと一人で黙々とトレーニングに励んでいたが、その途中で綾部一治と会って話をしていた。近くのレストランや食堂には人が溢れており、雅也のような大食いがすぐに入れる店はそうそうないようであった。そこで雅也は、近くにスーパー銭湯があり、そこで食事も出来る事を思い出すと、二、三キロは先の銭湯に向かって歩き始めた。ランニングのペースになると、さっき壊してしまったマシンではスピードが物足りないと思い、自分が渡した金でもっと速度の出るマシンを買って貰えないだろうかと考えた。
空は晴れていたが、遠くから空気が吼える音がした。遠雷だ。
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