第一章 胸に傷を持つ男
壱
「あの――」
警察署から出て来た尾神雅也に、女が声を掛けた。露出度の高いドレスの上に、ジャケットを一枚羽織って、化粧を落とし、髪の毛もやたらとボリューミーにアップしていたのからストレートに戻しているが、あの金融会社にいた女であった。
「さっきは、ありがとう御座いました」
女が頭を下げる。水商売のルールか何か知らないが、雅也は厚化粧の女が嫌いだった。ファンデーションとか化粧水の匂いが苦手なのだ。ニンニクやワサビは好きだが、生姜や梅干しの匂いが嫌いなのと一緒だ。そういう匂いを取り払った女は、生々しい情欲を沸かせるから、好きの嫌いの言う以前に好きになってしまう。化粧を落としたその女は、流石に二〇歳は越えているのだろうが、それでもまだ新卒くらいの年齢に見えた。
雅也の身長は一八〇センチ。毎日計っていれば、幾らかは上下するが、それでも一七八以下にはならないし、八三センチを超える事はない。今日、家を出る前に計ってみた所では、一八一センチになっていた。体重で言うのならば、七〇キロ辺りが丁度良いのだろうが、雅也の場合は筋肉と薄くではあるが付いている脂肪を合わせて、八〇キロと八五キロの間を行き来している。 その雅也からすると、女の身長はとても小さかった。一五〇センチもないだろう。顔立ちの事もあって、ランドセルを背負えばそれが似合ってしまいそうだ。しかし、ざっくりと開いたドレスの胸元は大きく膨らんでおり、尻にもむっちりと肉が付いている。ドレスの上からでは正確な事は分からないが、ウェストは括れながらも脂肪を残していた。モデルのようなスレンダーさはないが、丸みを帯びた愛らしい体形だ。若い女からすると、チビな上にデブ――表現を緩和してぽっちゃりって所か――に見えるかもしれないが、男から見れば悪い方ではない。尤も、アニメや漫画の、非現実的なほっそりとしたウェストや太腿を見慣れたオタク少年たちには、些か太ましいように見えるかもしれないが……。
「構わない」
雅也はぶっきらぼうに言って、女の前を通り過ぎようとした。ちょっとした立ち回りをした後、警察に色々と聞かれて、腹が減っていた所だった。警察に厄介になった事は、少なくともここ数年で言えば財布を拾って届けてやった時しかなく、今回はその比ではなかったのだが、それにしたってつまらなかった。カツ丼はないにしても、飯の一杯くらいは出して貰えるだろうと期待して取り調べに応じたのに、まるで容疑者のような扱いをされた。ますます警察が嫌いになりそうだった。
「え? あ……ま、待って下さい」女が、雅也の横に並んだ。小動物のように、ぴょこぴょこと付いて来る。
「何だ」
「私、
「尾神」
「オガミさんですか。その、さっきはありがとう御座いました」
「さっきも聞いた」
「そうでしたね」
えへへ、と、舌をぺろりと出して笑うましろ。あざとい感じはあるが、こういうあざとさは嫌いではない。雅也には、あざとい事を悪く言う人間の気が知れなかった。人に好かれようと人が好きそうな行動をして何が悪いのか。殺しや盗みでもしない限り、人に好かれたがるのは当たり前の事だった。
「あの人たち、一体、何だったんでしょう」
ましろは言った。彼女も、警察に事情を聴かれた筈だ。だが、彼女の方は警察から何かを聞いたという事はないだろう。警察にしても、あのガスマスクの男たちが何者であるのか、詳しい事は分かっていない筈だ。彼ら自身がジャケットに忍ばせていた爆弾で、あのフロアにいた男たち諸共、吹っ飛んでしまった。
ましろは、簡単に自分の事を語った。ましろは、“サユカ”という名前でオッパブに勤めており、ビルから落下した男は“サユカ”の常連客だった。
オッパブというのは、キャバクラとソープの間のような店だと、雅也は思っている。キスをしたり、おっぱいを触ったりはしても良いが、下半身の方にはノータッチでなければいけない。決められた時間の分だけ金を払い、お喋りをしたり、身体に触ったりしながら、酒を飲み、飲ませる。
あの中年の男は、そのオッパブで“サユカ”、つまり、ましろを指名する頻度が高かったのだ。そういう事をすると、一つの時間の中で二人くらいは順番に宛がわれる所、指名の場合はその一人としか出来ないが、アフターに付き合って貰える可能性もある。
中年の常連客とアフターに行こうとしていたましろは、途中であの金融会社の男に捕まった。中年の常連客は、そこから金を借りて“サユカ”を指名していたが、返済の時期が近付いても音沙汰なかった為、金融会社の社員が自ら出向いて来たという訳であった。ましろは、それに巻き込まれた形になる。
常連の男は、初めは“サユカ”は関係がないと言っていたが、追い詰められて来ると、金は全て“サユカ”に使ったのだから、“サユカ”から取り立ててくれと言い始めた。勿論、それで闇金業者が黙って頷く訳もなく、返済を強く要求した。 その上で、ましろにも常連客の言う通りの因縁をつけて、彼女の身柄を担保にしようと目論んだのである。後で分かったが、あそこは悪徳金融会社として有名だった。基本的に相手するのは個人ではなく、零細企業というか、潰れ掛けている会社や個人経営の店で、それらの弱みに付け込んだあくどいやり口を得意としているらしい。
そこに、あのガスマスクの男たちがやって来たというのであった。ガスマスクの男たちは、ましろを含め、その場にいた者たちを集めさせたが、“サユカ”の常連客が突然の異常事態に狂乱し、逃げ出そうと窓から身を投げたのであった。巧くやれば逃走も叶ったであろうが、素人が窓から飛び降りたりなんてするものではない。
ガスマスクの男たちは、闇金の社員に何かを要求しようと発砲して脅したようである。ましろは少し離れた場所に移動させられ、ガスマスクの男の一人と闇金の社員との交渉内容は分からなかった。それがはっきりとする前に、銃声を聞いた雅也が乗り込んで来て、二人を伸ばしてしまったのだ。
「さぁ……」雅也は、ましろの問いに分からないと答えた。あの一瞬の攻防で分かったが、あの男たちはプロではない。銃を撃ったり、身体に巻き付けた爆弾で自爆する覚悟はして来たようであるが、専門家としての訓練は受けていないようであった。あれならば素手の俺の方が強いと、雅也は一発で見抜いていた。
「でも、お兄さんも凄いですね」
「凄い?」
「はい。銃を向けられても、全然、微動だにしなかったし……」
二人の歩みは、人だかりの方に向かっている。さっき、爆発が起こったビルの前も、このままならば通る事になるだろう。雅也は、あのラーメン屋とは別の行き付けの店で、お腹をいっぱいにしたかった。その道中に、ましろが付いて来ている。
「漫画とか、ドラマを見てる気分だったなぁ」
「構わないからな」
「え?」
「撃たれても構わないから……」
雅也はそう言ってから、しまったと思った。余計な事を言ってしまった。こんな言い方をしたら、相手は気になって訊き返して来るかもしれない。だが、雅也の心配を余所に、ましろは「そう……」と、小さく頷いただけであった。それはつまり、雅也の心情が、ましろによって読み取られたという事である。
「所で、今から時間、ありますか?」
「時間?」
「お礼も兼ねて、お店で飲みません?」
「飯はあるのか」
「ご飯ですか? 少しなら」
「ゆく」
雅也はそう言った。人の好意が、こちらにとって余程悪い条件でなければ、受け取ってやらなければ申し訳ない。雅也は、ましろの店にゆく事にした。
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