スティグマ―呪痕―

石動天明

序章 狼煙の上がった日


 夕方のテレビでは、さっきからつまらないニュースばかりを流している。政治がどうこう、芸能人の不倫がどうこう、会社や業者の不祥事、著作権の何やら、教育機関が云々……。それまで深刻そうな顔をしていた女性キャスターは、急に一つか二つはオクターブを上げて、最近流行りのファッションだのグルメだのスポーツ選手だのを紹介し始める。

 尾神おがみ雅也まさやはラーメンを喰っていた。

 都心に程近い飲み屋街に、ぽつんと建っているぼろみたいな店だ。しかし昔からの常連というのが案外いるらしく、小さな店の中は客でいっぱいになっていた。学生もいれば、仕事帰りのサラリーマンもいる。きっとあの髪の薄い中年も、昔はああして学ランを着て、一番安いラーメンを啜っていたのだろう。

 雅也が頼むのは、いつも決まってラーメンと、餃子を三皿、エビチリにチャーハン、玉子と木耳の炒め物、春巻きを二皿。それらを、生ビールを飲みながら平らげ、最後に杏仁豆腐を食べて、店を出る。ラーメンは、醤油と塩と味噌とチャーシューとネギたっぷりと海鮮とちゃんぽんをローテーションし、夏場で特に暑い日はつけ麺を二玉分初めから入れて貰う。但し、どれだけ暑くなっても冷やし中華や冷やしラーメンは食べない。胡瓜とトマトと紅ショウガが載っているからだ。

 季節は春と夏との境目で、天気は不安定。前の日に一日中雨が降り続いて気温が下がったかと思ったら、次の日にはぴーかん晴れで夏日になり、今年最高気温を叩き出す始末。年の初めから予想のし難い空模様は、最早、天気予報など信じられない。

 雅也はあつあつの春巻きに、ふーふーと息を吹き掛けて冷ましながら、漸く口の中に放り込んだ。しかし、ぱりぱりに焼けた皮が少し冷めた程度では、たっぷりと詰まった餡は熱いままだ。濃い目の味付けの熱々の餡を、口の中でもふーふーと覚ましつつ咀嚼して呑み込んだ。口の中を火傷しそうになると、冷たいビールで冷却する。日焼けした咽喉が蛇のようにうねり、透き通る小麦色の液体を腹の中に流し込んでゆく。唇の周りに付いた白い泡を拭うと、エビチリの皿に箸を突っ込んだ。ここで使う海老は大き目だ。オレンジ色のソースを絡められ、刻まれたニンニクをまぶされている。歯を押し当てればぷりぷりとした海老の身体がぷちんと千切れ、一緒にすり潰されたニンニクが香ばしい。子供でも食べ易いように辛さを抑えたソースの甘みが、却って辛さを引き出していた。

 雅也が座るのは、いつも店の隅である。何品も頼むので、当然、食べ終わるのには時間が掛かり、他の客が出入りするのに邪魔にならないよう、隅の席に座るのだ。

 それだけの量をいつも平然と完食するにも拘らず、雅也はスマートな漢であった。身長は一八〇センチを超え、腹には全く出っ張りがない。黒いTシャツから伸びる腕は、何もやっていない人間よりは太いが、ボディビルダーのものより締まっている。脂肪は薄っすらと被さる程度であった。臍の上までジーンズを上げ、ベルトの孔は三つまで締めている。それなのに、こうした量を食べていても苦しそうな様子はなかった。縮れ気味の毛を短く切り揃えており、前髪を少しだけ崩す形にしている。黙々と食事を口に運ぶ雅也が特徴的なのは、眼であった。左右の眼の色が異なっている。瞳の大きさも違っていた。まるで、二種類の顔を用意した福笑いで、眼の部分だけ組み合わせを失敗してしまったかのようだった。年齢が分かり難い。端正な顔立ちやそのスタイルの良さもあって、二十代後半から三十代という風に見える。だが、食事をする際の佇まいなどには、それ以上の落ち着きや貫禄のようなものがあった。

 注文した料理を食べ終え、ビールをお替りし、最後に杏仁豆腐を飲むようにして食べた雅也は、

「ご馳走さん」

 と言って立ち上がると、レジで勘定を済ませた。中国か韓国辺りが出身だろうバイトの女性に料金を払い、くすんだ色のジャケットを羽織って店から出てゆく。彼と同じような常連客は、今日はいつもより早かったの遅かったの言い合い、入れ違う形になった客たちとは小さく会釈してすれ違う。

 空はすっかり暗くなっているのだが、街の明かりが余りにも眩しくて、それが分からない。時間を把握出来ずに、迷子になってしまいそうだった。サラリーマンたちは、良くこんな場所にやって来て、次の朝には遅刻しないように起床出来るものだ。

 高層ビルが立ち並ぶ街を、雅也は歩いてゆく。色々な人たちとすれ違い、追い抜かれ、追い越してゆく。居酒屋の客引きが眼の前につぃと飛び出して来た。それくらいならまだ良いが、性質の悪いポン引きに何メートルも付き纏われるのは御免だった。安いよとか美人揃いだよとか誘惑するが、美人が安い訳がないだろうと鼻で笑い飛ばした。

 途中で、酔いの回った大学生が徒党を組んで大声で歌っているのを見た。道いっぱいに広がって歩くので、向かって来る者や後ろを歩いている者が迷惑そうだった。チンピラが彼らに眼を付けて、喧嘩を吹っ掛けた。

「やるか」

 なんて言っていた学生が、簡単に伸ばされてしまった。相手も酒が入っていたのか、かなり荒っぽくなっている。近くを歩いていたOLが甲高く悲鳴を上げた。

 大学生グループは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してゆくのだが、何人かが捕まり、チンピラに殴り飛ばされた。近くのビルの壁に背中からぶつけられたり、道路っぺりの生け垣にぶっ倒れたりする者もあった。酷い場合は頭をロックされて、ボディに膝を打ち込まれていた。げろげろと胃の中のものを吐き出すと、その吐瀉物が掛かったと喚くチンピラが更に攻撃を仕掛ける。

「感心しないな……」

 こういうのは――雅也がチンピラに言った。

 何だと、と、赤い眼を剥いて来るチンピラ。今時、腰でズボンを穿くなんてダサい格好をしているのは、背が低い上に脚が短いのを隠したいからだろう。チンピラは雅也の顔面目掛けてパンチを繰り出した。雅也が身を翻すと、チンピラは嘘のように宙を舞って、くるりと一回転した後、尻から落下した。雅也が、パンチを繰り出したチンピラの手首を掴み、腰を切りざまに足を払ったのだ。チンピラは、自分の拳の威力で空中で回転した事になる。

 雅也は道端の犬の糞を避けたような顔で、尻餅をついて唖然としている男に背を向けた。自分の状況を理解して、屈辱の為に怒りを頂天に達させたチンピラは、ばっと立ち上がると、雅也の背中に向かって駆け出して行った。

 すると、雅也の顔が一度上を向き、刹那、チンピラの腹に向かって左の足が飛び出していた。後ろ蹴りがチンピラのボディに真っ直ぐ直撃し、チンピラはそこから数メートルは後ろに吹っ飛ばされた。そして次の瞬間、直前までチンピラがいた空間に、何かが落下して来たのであった。

 どちゃっ……と、重い音を鳴らしたのは、灰色の巨大な塊であった。雅也がゆっくりと振り返ると、近くを通り掛かった女がぎゃっと叫んだ。雅也よりも早く、落下物の正体がスーツを着た成人男性である事が分かったのだ。男は頭からコンクリートに落下し、頭蓋骨を陥没させていた。平均程度の身体の下から、じわじわと赤黒い液体が流れ出して来る。

 雅也は、男が落下して来た上空を見上げた。雑居ビルの窓が割れている。あそこから、この男は落下して来たのだ。ビルの案内板を確認すると、三階までが居酒屋になっており、四階に金融業者が入っているようであった。男は、四階から投げ落とされたのだ。雅也がそれを知って間もなく、割れた窓から激しい破裂音が聞こえた。銃声だった。雅也は、ラーメン屋で流れていたニュースを思い出した。最近、外国でテロが横行している。道路でいきなり爆弾が爆発したとか、何処ぞの教会や大学で銃が乱射されたとか、有名アーティストの興行に際して犯行声明が出されたりとか、したらしい。そうしたダーティなものに憧れるような愚か者はまだ今時でも少なからず存在するようで、その模倣犯かと雅也は呆れ果てた。

 男が落下して来た場に居合わせ、しかも銃声を耳にした誰かが、警察に通報していた。ここは大都会の真ん中だ、間もなくサイレンを鳴らしてパトカーがやって来るだろう。雅也は、被害の及ばない、しかし、事の顛末を見届けられる距離に移動した野次馬たちとは逆に、雑居ビルの中に足を踏み入れた。背は高い方だが、一八〇センチ大は特別に珍しいという訳ではない。ましてや着ているのが薄汚れたジャケットである。雅也がビルに向かった事を、気にするものはなかった。加えて雅也は、気配を断つ事が不得手ではない。

 各階に設けられた店の中には、上で起こった事が分かっていないようであった。店内はBGMと客たちの話し声、厨房で調理したり食器を洗ったりする音でいっぱいになっており、上階と外の騒ぎが届かないのである。サイレンの音くらいは聞こえるかもだが、それにしたって東京なら日常茶飯事だ。何処かで誰かが事故を起こしたりぶっ倒れたりしてパトカーや救急車のお世話になっている。

 雅也は階段を上ってゆき、上り切った所にあるドアに手を掛けた。寸毫の迷いもなくノブをひねって開けると、それに気付いた人物がこちらを振り返り、ぎょっとなった。雅也を振り返ったのは、ガスマスクを装着した、黒尽くめの男であった。分厚いジャケットを着こみ、底に鉄板を仕込んだブーツを履いている。手には安物っぽい拳銃を握っていた。安物でも銃は銃だ、人を殺す事は簡単である。ハロウィンにはまだ早い、とすると安物であっても偽物ではないだろう。

 壁にびっしりと様々な会社の広告ポスターが貼られた部屋の中に、ガスマスクをし、黒尽くめの格好をした男が二人いた。その他に、スーツを着たその筋の者と見える男が三人――彼らの顔立ちからするとここは闇金の類のようだ――いて、彼らは割れた窓の傍に正座をさせられていた。他に、露出度と値段の高そうなボディコンのワンピースを着た女が、部屋の隅で二人目の男に銃を突き付けられている。

「貴様⁉」

 男たちに向けられていた銃が、筒先を雅也に変えた。雅也は躊躇いなど一つも見せずに、銃身に左手をあてがった。そして腕を内側にひねり、つまり銃を持った男の右腕を同じようにねじ上げた。銃を奪われてはまずいと、男はグリップから手を放すまいとする。それで引き金に指が掛かり、雅也の眼の前で銃弾が発射された。天井に弾頭が突き刺さる。

 雅也は、掌を少し火傷したかと思い、序でに、最初に触れた時も銃身が僅かに熱を帯びていた理由を、外で聞いた銃声と結び付けていた。兎も角雅也は、男の腕を銃ごとねじり上げ、手首の操作で男の身体を錐揉み回転させてしまう。バランス感覚を失った男の尻に、こつんと足を当ててやると、男は呆気なく倒れ込んだ。

 もう一人の男が、雅也に向けて銃を撃った。雅也は動かなかったが、銃弾は額を掠め、髪の毛を何本かもぎ取ってゆくに留まった。雅也は、怯えたり防御姿勢に入ったりする事なく二人目の黒尽くめに近付き、

「しっ!」

 と、横蹴りを繰り出した。スニーカーの外側の曲線が、ガスマスクを叩く。雅也の横蹴りは、男の胴体の辺りまで達した所で、膝を起点に回転し、燕のように翻って、男の顔面を横から薙ぎ払ったのである。男は、蹴りの一発で脳震盪を引き起こされ、糸の切れた操り人形のように、その場にぐったりと倒れ込んだ。

「た、助かった!」

 闇金の男の一人が、喜びの声を上げた。が、それも束の間だった。雅也が最初に倒した男が、再び銃を手に取って、喜びに両手を上げた男を射殺したのだ。そして今度は自分自身に銃口を向け、引き金を引いた。大きな爆発の炎が、ビルの一室を呑み込んだ。男はジャケットの内側に爆弾を仕込んでいたのである。

 雅也は、咄嗟に女の身体を抱きかかえて、窓から飛び出した。爆炎を背に都会の宙を舞う男が、丁度やって来たパトカーの屋根を踏み抜いて、女を抱えて着地した。

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