Epilogue2

 全ての始まりは、何だったのか。

 竜胆錬司と、蓬田竜成の戦いの、始まりは。


 錬司が、真のΩとして覚醒した事か。

 竜成が、新たなΣを得て蘇った事か。

 錬司が、未散に対する思いを遂げられた事か。

 竜成が、摩耶の本当の気持ちを知ってしまった事か。

 錬司が、摩耶を責める気持ちを抑えられなかった事か。

 竜成が、自分を含めた人間そのものを邪悪と確信した事か。

 錬司が、自分の手で得た力ではないものに溺れてしまった事か。

 竜成が、自分たちの研究が生体兵器に利用されていると知った事か。

 錬司が、ありもしない正義感を奮い立たせ、摩耶を守ろうとした事か。

 竜成が、愛しい人と結ばれ、歓びを伴い新しい道へ進もうとした事か。

 錬司が、生命の危機に晒された未散を助ける為、トラックの前に飛び出した事か。

 竜成が、孤独の中で積み重ねた肉体と知識を、理解してくれる摩耶に出会った事か。


 それとも、それら全てか。


 竜胆錬司がこの世に生まれた事か。

 蓬田竜成がこの世に生まれた事か。

 羽生未散がこの世に生まれた事か。

 花果摩耶がこの世に生まれた事か。


 きっと、それら全てだ。


 錬司も、竜成も、未散も、摩耶も、田上たちも、角鱗会の男たちも、八百屋の親父も、遊園地に来ていたカップルや親子連れも、クラスメイトたちも、町の人々も、ホイル製薬の研究者やα、Ψたち――


 きっと、それら全てが存在していた事によって、この結果は生まれて来たのだ。


 全ては、全てが始まった時から、始まっていたのだ。


 そしてこの戦いも、きっと、何かの始まりなのだろう。それは永遠に途切れる事なく、連綿と続く歴史の一つであり、何かの終わりと何かの始まりを結ぶ蛇なのだ。


 時間と空間に刻まれた無数の聖痕の一つである。ありとあらゆる生命が、ありとあらゆる物質が刻み付けてゆく存在の痕跡の一つでしかない。


 その広大な歴史は、二人の戦いへと収束し、そして再び星となって散ってゆく。


 戦いへと至る蛹はやがて背中を破って翅を広げ、一瞬の煌めきと共に失われ、しかし終わらない。


 錬司は、それを見ていた。


 戦う自分。

 自分と戦う竜成。

 竜成と戦う錬司。

 錬司と戦う竜成。

 錬司と戦う自分。

 戦う竜成。

 戦う錬司。


 竜成は、それを見ていた。


 互いの身体を傷付け、互いの身体を喰らい、互いの身体を進化させ、そして戦う。


 砕かれた錬司の腕は竜成の翼となり、引き裂かれた竜成の脚は錬司の尻尾となる。鱗が削ぎ落され、獣毛が肉ごと引き抜かれ、骨が潰れ、肉が散る。爪は胴体を貫いて内臓を引きずり出し、牙は骨にまで達して筋肉の張力に圧し折られる。


 どれだけ傷付こうとも、活性化を続けるΣの為に、二人は痛みを感じていない。互いを喰らい合う事で絶え間ないエネルギーの永久機関と化し、メビウスの輪の中で、破壊と再生と創造を繰り返す。


 血と骨と肉と皮膚と、爪と牙と鱗と獣毛と。


 そのシルエットは、ヒトでも、獣でも、禽でも、魚でもないもののように変わってしまっている。複数の眼を身体の至る場所に生じさせ、指の数が異なる何本もの腕で相手の身体を捉え、鋸のような爪とナイフのような牙を同じ場所に同時に突き立て、大きさも見た目も違う何対もの翼で宙を舞い、海の中で何十分にも渡ってぶつかり合い、地上に戻っては肉体をくねらせて絡み合う。


 それを、錬司は見ていた。

 自分と竜成との戦いを、第三者の目線で見ていた。

 竜成も同じだった。


 上昇した意識は、身体から剥離して、その戦いを俯瞰する。


 本人の目線で戦う錬司と竜成がおり、俯瞰する錬司と竜成がいる。


 錬司は竜成と戦いながら、竜成の視点で錬司と戦っていた。そしてそれを見る第三の自分を確認している。竜成も同じで、錬司と戦う自分と、自分と戦う自分と、戦う自分たちを見る自分の存在を感じ取り合っていた。


 竜成と殺し合う錬司は、戦いの中で意識を朦朧とさせている。朦朧となっている錬司の意識の中で、走馬灯のように蘇る記憶を、錬司は眺めていた。意識を失い掛ける錬司と、その錬司を観察する錬司がいるのである。そしてその錬司が見ているのは、同じように意識を飛ばしそうになりながら、記憶を眺めている竜成であった。竜成の記憶と、錬司の記憶が一緒くたに混ざり合って、眼の前に広がっているのだった。


 錬司も竜成も、自分がどのような状態なのか、分かっていない。分かっていない二人と、現状を正確に把握している二人がいる。怪物然とした姿で、互いの生命を奪い合って絡み合う何かと化した自分たちを、主観的にも客観的にも見る事が出来ていた。


 不思議な感覚だった。

 それはまるで、合わせ鏡だった。


 観測者である自分がいて、鏡に映った複数のいびつな自分を見ている。その中に、同じように合わせ鏡をしている他人の像が映り込み、重なり合って、全く異なる姿をした像が見えている。


 本当の自分は、鏡を見ている自分の筈だ。しかし、鏡を見ている自分を見ている自分が、本来の自分でないという事が出来るだろうか。鏡の中の自分は、鏡の中にしか存在出来ない。ならばきっと、鏡の中の自分にとって、鏡の中は本当の自分の世界なのだ。今、こうして戦いを観測している自分が、鏡の中の自分でないという事は出来なかった。


 戦いは続く。

 戦いは続いた。


 殴り、蹴り、砕き、壊し、潰し、喰らい、生やし、奪い、貫き、引き裂く。


 延々と続くような苦しい戦いだ。けれど、若しかしたら、それは刹那の内に決着が付いたのかもしれない。永遠を見ている自分と、一瞬を観測している自分がいるような気さえしていた。


 その永久の中で、或いは刹那の内で、錬司は自分の人生をもう一度体験し、そして竜成の人生を追体験していた。


 錬司は、蓬田竜成に対して、思っていた。


 この人は、自分だ。

 自分がなりたかった自分だ。

 夢の中の自分だ。

 誰もが憧れる存在だ。


 このようになりたいと、自分の願望の粘土で人形を作れば、きっとこの男が出来上がる。


 それに比べれば、この自分の、何とちっぽけな事だろう。何と無価値な事であろう。肉体も、精神も、とても追い付かない。この男のようになる事など決して出来はしない。自分が余りにも惨めだ。Σを得てもなお、Ωとなってなお、この男に勝つ事など出来はしない。だってこの男には夢があった。Σを得る以前からの夢が。でも自分は、Ωとなってからも、夢の欠片一つ、手に入れる事が出来なかった。


 この気持ちを、竜成にも知られている。この男は、こんな自分を見て何を思うだろう。哀れみか、侮蔑か、何れにしても、プラスの感情は抱かない筈だ。優越感を覚える間もなく、掃いて捨ててしまうだろう。道端の小石をけ飛ばしても気付かないように――


“哀れだな……”


 そら、見ろ。


 竜成の声が届いた。いや、竜成の心が、伝わって来たのだ。錬司の心が竜成に覗かれているように、竜成の心を覗く事が錬司には出来るのだ。


“お前は俺になどなれない”


 だが、その意志の真意を知る事も、錬司には出来る。


“お前はお前だ”


 肉に突き立てられた牙から、その思いが伝わって来る。最早、身体がどのように変形して、そこを何と表現すれば良いのか分からない部位だ。その肉を苛む痛みの中に、竜成の言葉があった。


“俺にどれだけ憧れたって、お前は俺にはなれない”


 錬司は竜成の身体に爪を立てた。牙を引き剥がすべく、複数の獣の頭部を握り潰しながら、無数の腕の中から自分の身体を取り戻そうとした。


“お前のままで良い。お前のままで、お前の憧れを目指せば良い”


 竜成は錬司の過去を見た。自信を失くした過去を、そのまま背中を曲げて生きて来た過去を。竜成と錬司の心は一つだった。しかし、錬司に掛けられる竜成の言葉は、錬司が自ら望んだものではない。二つの心が、一つの心の中にあった。


“眼を覚まして、夢を見るのなら、それはきっと叶うから……”


 眼を覚ますとは、自分の事を正しく理解する事だ。蓬田竜成のようにはなれない自分を認める。その上で、抱いた憧れがあるのなら、その憧れに向かって、今の自分がどのように走れば良いのか分かるだろう。自分を正しく理解して憧れに向けて奔るなら、それはきっと――


 そうだ。


 錬司は思った。


 憧れはあった筈だ。夢もあった筈だ。しかし、それに向けて自分は何もしなかった。何もしない自分を、虐げられた過去を理由に正当化していただけだった。それではいけなかったのだ。


 自分は決して変われない。自分は自分でしかない。いるべき場所はただ一つ。何処にも逃げる場所などない。少なくとも自分からは、どう足掻いたって逃げる事は出来ない。


 それで良い。それで良いんだ。それは諦めではない。それは自分を認める事だ。自分は自分で、他の誰かには成れない――でもきっと、自分にしか成れない自分がある。


 それを目指して歩いてゆけば良かったのだ。


 Σの力に頼らずとも……いや、Σの力を頼っても良いのだ。Σの力があるのならば、それを使えば良い。しかし、力に使われてはいけなかった。Σの力を、Ωとしての自分を認めて、心を真っ直ぐに伸ばして、生きてゆけば良かったのだ。


 でも、気付くのが遅かった。

 遅かったのだ……






 決着が付いた。


 雨は、もう本降りになっている。砂浜はたっぷりと雨を浴びて、ぬかるみを作っていた。雨の向こうに町が見えない。鈍色の空は慟哭し、滂沱の涙を流している。


 砂浜に、巨大な影があった。一見すると、ヒグマのようにも見える。打ち上げられた巨大ザメかとも思われた。古代に存在した、大きな翼を持つ鳥の始祖とも見る事が出来るかもしれない。


 一つは浜と波との境目に倒れ込み、巨体の半分を、海の中に浸けていた。幾つもある口は全て呼吸をやめ、自身の力では微動だにしない。


 その傍らのもう一つの影は、じっとりと張り付く雨の中に佇んでいる。倒れ伏した獣を、何とも表現し難い光を湛えた三つの眼で見下ろしていた。


 砂浜に、やって来る足音があった。泥のような砂に足を取られながら、二体の怪物に向けて歩み寄る。


 未散だった。

 顔には大きな傷が残っている。傘も差さずに、小さい割に成熟した身体に、雨で衣服を張り付けていた。


「錬司くん……」


 未散が、怪物に対して声を掛けた。怪物に、錬司の面影は欠片たりとも残っていなかった。又、それがΣによって変貌したΩであっても、錬司ではなく、竜成であるかもしれない。未散はそんな事は知らない。知っていても、どちらであるか分からない。それでも未散は迷う事なく、怪物に対してそう言葉を投げた。


 未散は怪物の傍に歩み寄った。近付いてみると、その巨大さがより迫って来るようだった。未散の身長が同年代の平均を下回っている事など関係なく、その怪物は巨大であった。


「背中……」


 少女の白い手が、怪物の身体に触れた。ごつごつとした鱗と、硬質な獣毛に阻まれて、体温は伝わらない。骨の構造も、大きく変わってしまっている事だろう。だから、未散が触れた場所が、正確に背中であったかどうかは、怪物自身にも分からない。


 それでも分かるのは、怪物の背骨であるΣが大きく変形し、本来の緩くS字を描くものではなくなり、頭骨と平行になる形に曲がりくねっている事だ。


「背中、曲がってると、根性まで、曲がっちゃうぞ……」


 未散の声が掠れていた。込み上げて来るものと、必死に戦っているようだった。鼻を啜り上げ、涙を堪えて、それだけを、精一杯伝えたようであった。


 怪物が、のそり、と、動く。三本の爪を持つ足が、濡れた砂浜を掻いた。数本の尻尾を引きずりながら、浜辺から離れてゆこうとする。


「錬司くん……」


 怪物は何処かへと去ってゆく。言葉も発さず、意思も交わさずに。


 未散は追う事が出来なかった。その場で崩れ落ちてしまう。あの怪物が錬司であったとしても、もう未散の所へは戻って来ないであろう。ヒトの感覚では表現し切れない姿に変わった怪物の後ろ姿は、人間社会への決別を告げているようだった。


 それが、酷く、哀しい。不気味な姿、いびつな背中――それら全てが、悲痛であった。


 そこに、摩耶がやって来た。摩耶は、その巨大さを微塵も感じさせなくなった怪物の後ろ姿と、波に打たれる怪物の半身を見て、全てが終わった事を理解した。


 それは何らかの始まりであるかもしれなかった。だが、そのスタートラインを切るのは、摩耶や未散ではないのだろう。


 怪物はいなくなっていた。

 ただそこには、人間だけが残っていた。

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