終章 夢幻

Epilogue1

 鉄のように重々しく、空は濁り切っていた。

 もうじき、嵐が来そうだ。


 八月の終わり、じっとりと湿度を孕んだ風を残して、猛々しい暑さは鳴りを潜めた。セミの声も、もう聞こえない。皆、死んでしまった。


 砂浜に寄せては返す波の色も、空を写して息苦しささえ感じるダークグレー。波が砂浜に乗り上げ、海に吸い込まれてゆく時に、やって来る波とぶつかって白く爆ぜる。打ち上げられた貝殻や海藻、蟹の抜け殻、忘れられたパラソル、ビーチサンダル、瓶の王冠やペットボトルに空き缶……そうしたものを波は引き摺り込み、或いは浜に吐き出してゆく。


 砂浜の上に、海を眺める一人の男が立っていた。


 巨漢――頭も、頸も、肩幅も、胸も、胴体も、腕も、太腿も、足も、全てが逞しい。野外であるが、衣服は身に着けておらず、異常なまでに発達した肉体を曇天に曝け出していた。海風を浴びても、その金属質な皮膚には鳥肌の一つも立たず、寧ろ内側から常に熱を放っていそうであった。特に下腹部には、雄々しく反り返ったものが、別の生き物のように濡れている。


 蓬田竜成だ。


 竜成の肉体は完璧だ。錬司との戦いで付けられた傷も、既に再生されている。錬司の前に立ちはだかった時、敢えて残していたプロトΣに適応出来なかった際に付いた傷も、今は跡形もなくなっていた。


 Ωの被検体とならず、あのまま身体を鍛え続けていたのなら、こうなったであろう肉体だ。


 ただ一つ、普通と異なるのは、その背面に、分厚い広背筋を真っ直ぐに貫く、巨大な背骨が浮かび上がっている事だった。尾骶骨が僅かに突き出している。


 その背骨――ΣΤが反応を示した。成人の拳程もある先端と共に、竜成は海に背を向けた。


 海に続く土手の斜面に、木材で階段が作られている。その階段を、一人の少年が下りて来た。

 表情を隠す長い前髪に、華奢な身体。しかし身長は高く、体幹もしっかりとしている。ぼろぼろになり、破れた部分には血を滲ませてもいるジーンズを穿いており、上には黒いTシャツを一枚。


 竜胆錬司だ。


 あれから――


 錬司が、未散と一緒に遊園地に遊びに行き、竜成の襲撃を受けてから、一週間が経っている。


 どのような力が、何処から働いたのか、遊園地での一件は、嘘の報道が行なわれた。単なる遊具の事故という風にニュースでは取り扱われ、現場にいた者たちがSNSに投稿した内容も、イベントの一環であって事実ではないという情報の拡散後、それに関係する記事は余す所なく削除された。


 インターネット上の匿名掲示板では、陰謀論が囁かれるなどしたが、すぐに創作の類と判断されるようになった。


 ホイル製薬……その親会社の巨大な情報操作があったのだろう。


 しかしそれは、錬司にとって、最早どうでも良い事であった。竜成にとっても関係がない。


 二人にあるのは――


「決着を付けようぜ、兄弟……」

「――貴方の事は、許さない!」


 Ωとしての矜持、或いは生物の本能としての、闘争であった。


 どちらが強いのか。

 どちらが優れているのか。

 どちらが勝っているのか。


 それだけが、二つの生物兵器の思考に揺らめく、灯火だった。


 竜成が砂浜に踏み出すと、錬司が階段を蹴った。体操選手でも飛び上がれない高度にまで舞い上がった錬司は、空中で回転を繰り返し、加速度を乗せた踵落としを叩き付けてゆく。


 竜成が横に避けると、錬司が流星のように砂浜に降り注ぎ、砂の粒を舞い上げた。


 竜成は錬司の位置を認識し、拳を打ち込んだ。これに対し、錬司も同じようにパンチを繰り出してゆく。打撃の威力は、速度×質量である。つまり、錬司と竜成のパンチが同じスピードで進んだとしても、質量がより多い方が、威力で勝っているという事だ。そうなれば、長身な上に筋肉の鎧を纏っている竜成の方が、パンチ力で錬司に勝るのは当然であった。


 砂のカーテンを挟んで、錬司と竜成の拳が真っ向から激突する。樹の板を何度も踏み付けて砕き散らすような音がして、血が舞った。錬司の腕が砕けたのだ。


 しかし、錬司の腕を砕いた竜成の腕に、鋭い爪が喰い込んで来た。破壊された錬司の腕の傷から、関節を持った爪が唸りながら伸びて来て、竜成の腕を突き刺したのだ。


 むぅん――と、竜成が、錬司の爪を振りほどきながら腰を切る。左の後ろ廻し蹴りが、錬司のボディを狙った。腕から飛び出した爪をもぎ取られながらも錬司は怯まず、砂浜でジャンプして、竜成の蹴り足の上に両足を載せた。そして竜成の左足を足場に跳ね、スニーカーの甲を振り向いて来る竜成の顔面に当てに行った。


 竜成は蹴り足を大きく振り回して身体の左側に着地させ、その踏み込みを利用して右の拳を斜め上から大振りにして打ち下ろす。錬司の蹴りを顔に受けながらも、竜成の血だらけのパンチは錬司の脇腹を抉り取るように殴っていた。


 たたらを踏みながら姿勢を立て直す竜成と、砂浜に落下する錬司。


 竜成は、頬の血を拭った。蹴りを掠められ、頬が僅かに裂けたのではない。錬司の足の甲に、三日月状に隆起した骨があり、それが頬を貫通し、殴り飛ばされる際には左の唇までをばっくりと割り開いていたのだ。


 にたりと、竜成が裂けた口を開いた。歯茎の更に上に、赤々とした肉が剥き出している。その肉を舌で舐め上げると、どろりとした血液がこぼれ落ちて来る。しかし、その切り裂かれて捲れ上がった頬肉が、触れてもいないのに余計に広がってゆく。広がってゆくその内側に、ぽつぽつと、硬質な、白っぽいものが浮かび上がる。歯だった。


 頬の皮膚がぐぐっとせり出して、内側から剥き出した歯が噛み合った。竜成の頬に、もう一つの異形の口が出現していた。


 砂埃の中から、錬司が立ち上がって来る。脇腹に左手を添えていた。指の隙間から、血が溢れている。竜成の右の拳の先端の皮膚が角質化し、鋭利な形状になっている。錬司の足の甲に生じたのと同じ、三日月状の棘だ。しかも、それが数本、それも互い違いに重なっている。二本のナイフの間に、コインか何かを挟んで隙間を作り、等間隔で切り付けると、縫合がし難く、傷は消えない。そのような武器であった。


 だが、Σを持つΩには、そんな小細工は関係がない。


 顔を顰めながらも錬司が手を退かすと、破れたシャツの内側、切り裂かれた脇腹の肉は、薄っすらと痕が残っているものの傷を塞いでしまった。その薄く張られた皮膚の下が、妙に浅黒く、筋肉の上に鱗が生じているのが分かる。


「愉しいな……」


 竜成が、ぽつりと言う。その言葉を肯定するかのように、脚の間のものが、少し膨らんだようだった。竜成は先端に掌を当てて、押し下げてみせる。竿の角度が下を向くと、次第に短くなってゆき、竜成が手を退けるとそこに陽根はなくなってしまっていた。

 恥骨の上に、肉の裂け目があり、その中に吸い込まれてしまったのだ。


「さっきまで、たっぷりとしたんだがな」

「した⁉」


 錬司が怪訝そうな顔をする。

 竜成は、二つの口でにぃと笑みを浮かべると、


「あの女と、さ……」

「花果さん⁉」

「何を驚いているんだ、あいつは、俺の女だぜ」


 くむ……と、錬司が奥歯を噛んだ。あの巨漢が、摩耶の身体を抱き、好きなようにしていると思うと、脳みそが沸騰しそうになる。全身の細胞が火を点けられたように熱くなる。血液の海が荒れ狂い、神経の森に憎悪の風が吹き付けた。


 錬司の腕の皮膚が、波打ち始める。煮立たせられたかのように、皮膚の上に幾つもの気泡が生じては、弾けてゆく。肉の飛沫に包まれ、錬司の腕が大きさを増していた。握った巨大な拳を開いてゆくと、掌を内側から突き抜けるようにして黒々としたものが現れる。錬司の腕の中から現れたのは、鱗の手甲を纏った獣の腕だ。


 錬司の両腕は、瞬く間に、光沢を放つ黒い魚鱗に包まれていた。その鱗が、全てささくれ立って出来た隙間から、しゅーっ、という擦過音が聞こえていた。間もなく、その正体も明らかになる。皮膚が棒状になって、砂に潜んで獲物を待つチンアナゴのように身をくねらせて現れるのだ。


 一匹や二匹ではない肉の蛇は、錬司の腕から身を躍らせ、竜成の方を向いた。その蛇に、眼はなかった。ただ一筋の切れ込みだけがあり、それが開くと小さな歯が規則的に並んでいる。


 錬司は両手を地面に突いた。顎を持ち上げ、背骨と頭部を平行にする。すると、頭蓋骨と頸骨の接合部分の角度が調節された。人間であれば、背骨に対して垂直にある筈の頭部が、四足動物のような角度に作り直されている。


 この際、錬司の頸の人体や筋肉は、大きく損傷した筈だ。だが、Σが行なう迅速な細胞分裂は、錬司が選択した新しい形を、瞬く間に馴染ませてしまう。それと共に、Σの可動範囲を広げるべく、背骨のブロックの間を大きくし、背中を曲げさせた。強い筋力が人工背骨を脱臼させ、強健な筋肉がその負傷を補っているのだ。複雑骨折した部分にボルトを埋め込み、更に筋肉で締め上げるのと同じだった。


「かぁぁぁぁ……」


 錬司が顎を開く。ばきばきと、顎関節が軋みを上げた。口が、これでもかという程に大きく開いてゆく。テンプレートを付けずともΣを起動させるだけの力が、錬司の身体にはたゆたっていた。上下の白い歯に亀裂が入り、砕けると、歯茎からは鋭利で巨大な牙が突き出していた。


 ごり……と、石臼を擦る音が、錬司の下顎から響く。皮膚が左右に引っ張られて、顎の先が四角く作り変えられ始めた。獣のような広い顎は、咬筋力のパワーアップを感じさせる。


 獣と人の合いの子――錬司は強靭な両腕で砂浜を叩き、舞い上がる砂塵の中、竜成に向かって突き進んだ。


 低い姿勢で、真っ直ぐに突っ込んで来る錬司に、竜成が右足を跳ね上げる。足の甲が顎に触れたか否かの間隙に、錬司は身体を横に回転させ、竜成の左側に跳んだ。そうして右腕で、竜成の軸足を払おうとした。膝を裏から破壊しようというのだ。


 竜成は錬司のパンチを、軸足のみの跳躍で躱すと、空中で回転して踵落としを仕掛けた。竜成の巨体が、アクロバティックなアクションを可能とするのは、傍から見ても驚異的な運動能力という他にはなかった。


 竜成の踵は、錬司の頭部を直撃した。いや、寸前で、錬司は両腕を交差させ、手首と手首の間で竜成の足首を掴んでいた。たちまち、鱗の隙間から生じた肉蛇たちが、竜成の脚に絡み付いてゆく。


 竜成はふんと鼻を鳴らして、左脚を後ろに引いた。ぶつぶつと錬司の肉蛇が切断される。竜成の脛と脹脛に、刃のような鱗が出現して、それらが肉蛇を掻き切ったのである。


 竜成は左足を後ろに踏み込む反動で、左の拳を錬司に落とした。肉蛇を千切られ、腕から幾筋もの細い血を吹きながら後退する錬司。その錬司を追って、竜成の左腕が唸った。肘の関節が逆向きになり、縦のヘアピンカーブを描いて襲って来たのだ。


 竜成の左手が、錬司の頸を掴む。太さが倍以上になった、獣の頸部だ。錬司が、竜成の手首を掴む。鱗だらけの指先が、竜成の手首に喰い込んだ。動脈に爪が突き刺さり、しゅっという擦過音と共に血が迸る。その血が、素早く虚空に円を描いた。竜成の手首が素早く返り、錬司の頭部を砂浜に打ち付けたのだ。


 錬司はしかし、すぐさま両脚を竜成の左腕に絡めてゆく。竜成は、関節技を仕掛けて来た錬司を持ち上げようと力を込めるが、むっと顔を顰めた。竜成の腕に絡めた錬司の両脚の内側に、棘が生えている。竜成の頬に新たに出来たのと同じような、口が出来上がっていたのだ。


 竜成は錬司に噛み付かれたまま相手を持ち上げると、地面にハンマーで杭を打ち込むようにして、錬司を反対側の地面に叩き落した。砂浜と言っても、貝殻の破片や、放置された瓶や空き缶が埋まっている場所もある。表層の砂塵は舞い上がっても、決して柔らかいクッションにはなり得ない。


 それでも錬司は、竜成を離さなかった。錬司の足の指の肉が盛り上がり、肉蛇となって竜成の腕に巻き付いてゆく。竜成は凶器を備えた右拳で、錬司の膝を殴り付けた。咬み付いた錬司の足の口が、牙を竜成の腕に埋め込みながら剥がされる。それとほぼ同時に、上腕に巻き付いた脚の肉蛇の先端が、返しを持った鱗となり、竜成の皮膚を裂いて喰い込んだ。


 錬司が、力任せに身体をひねる。肉蛇の先端は竜成の腕の奥に潜り込んでゆき、筋繊維を滅茶苦茶に破壊した。そして、血を噴き出させ、錬司は竜成の左肘をねじ切ってしまう。


「ぬぉ……っ」


 竜成がバランスを崩し、尻餅を付いた。


 錬司は竜成の左腕を両脚で挟んで、砂浜に降り立った。

 竜成の腕を手で持つと、たちまちに、鱗の隙間から生えた蛇が絡み付いてゆく。口を開け、細かい牙を突き立ててゆく肉蛇。竜成の腕は、ピラニアに群がられる牛の如く、あっと言う間に、皮を剥がれ、肉を削がれ、血を啜られて、硬い骨だけになってしまった。


「むぅっ」


 竜成が、自分の腕が眼の前で消えてゆくのに、流石に動揺したらしい。しかし、すぐに太い笑みを唇に浮かべると、片腕を失ったにも拘らず、軽やかな動きで立ち上がった。


 出血は、上腕に付いた咬み傷も含めて、既に止まっている。Σによってアドレナリンの分泌が促された事もあるだろうが、それ以上に、自らの筋肉で血管を締め上げていたのだ。


「来い」


 竜成は、肺いっぱいに空気を吸い込んで、失った分の血液を酸素で補給すると、右の人差し指を手前に引いた。


 錬司が牙の間から唸り声を漏らし、砂を蹴る。


 錬司は竜成の周囲を素早く回って、攻撃の糸口を見付け出そうとした。だが、竜成は重心がそれまでと全く異なってしまっている隻腕状態ながら、何ら変わらない様子で錬司の動きを見極めようとしている。


 覚悟を決めた錬司が、竜成の背後から躍り掛かってゆく。剥き出しのうなじに、鱗で尖った拳を叩き付けようとした。だが、その錬司の胸を、何かが刺した。竜成の肩甲骨を突き破って、一対の骨が現れたのである。肋骨が左右に開き、そのまま後方に回ったのだ。


 奇襲に対する奇手の反撃に驚いた錬司が、胸から小さく血の筋を走らせながら後退する。とっさの判断で身体を丸め、後ろに体重を掛けたので、貫通までは至らなかった。Ωであれば瞬時に再生出来るだけの傷だった。


 振り向いた竜成の身体を見て、錬司がぎょっとする。一回りか二回り、大きくなっているように見えた。ただでさえ分厚かった胸板が、倍以上に膨らんでいるように見えたのだ。肋骨を開くと同時に、肺胞を増やしていたのである。


 肋骨によるカバーを外し肺が膨らんだ分、竜成の常人離れした肺活量は増している筈だ。しかし、錬司に対する奇手も、肺活量の増加も、その真の目的ではない。


 竜成の背中から突き出した肋骨が、再生する皮膚と筋肉に覆われてゆく。骨の付け根から先端までを、薄い膜状の皮膚が覆った。翼を形成したのである。そして、それと同時に、残った右腕が細り始めていた。右腕が蓄えていたエネルギーを、その翼の形成に使用したように見えた。又、それまで樽型だった身体も、チェストばかりが強調される逆三角形の肉体に変わりつつある。いや、太腿の筋肉が異常に膨張してゆき、砂時計のようないびつなスタイルを作り上げていた。いつかの敵、イーグラットを連想させた。


 竜成は両足を揃えて砂地を蹴り、高く飛び上がった。曇天に舞い上がった竜成は、翼を駆使して滑空し、錬司に襲い掛かる。


 錬司は横に転がって避けた。一見するとシェイプアップされた竜成の身体であるが、胴体と腕の分、翼と太腿に重量とパワーが集中している為、かなりの質量に横切られる事となった。ふわりと浮き上がる砂塵が眼に入らぬよう手で塞ぎつつ、再度、砂を蹴って上昇した竜成を視線で追う。


 竜成は虚空で反転すると、強く羽ばたいて落下し、蹴りを打ち込んで来る。錬司は四肢を用いて地面を叩いてジャンプし、竜成の頭上を取った。だが、制空権は錬司にはない。ぐんっと身体をたわめて、頭から突撃して来た竜成のウェイトを、もろに叩き込まれた。


 海岸に続く土手に吹っ飛ばされる錬司。しかし、空中でくるりと回転して、両足で土手に着地した錬司の曲がった背中から、棘のように突き出すものがあった。竜成の左腕を栄養分にして、皮膚を膨張角質化、その棘に、竜成と同じような膜を纏わせたのだった。


 竜成と同じく、空を滑る錬司。カウンターを狙う竜成。砂浜を波立たせながらぶつかり合う二つの獣。


 ぽつりと、天が雫をこぼした。

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