Part5

「――だっ!」


 錬司は二股に分かれた左足で、竜成の胴体を蹴り付けた。身体と身体の隙間が出来、そこに、右の肘を斜め下から擦り上げた。普通ならば、顎に当たる筈の猿臂は、Ω竜成の胸の衝角に妨げられ、却って傷を付けられてしまう。ばっくりと、前腕の中頃から肘に掛けて、尺骨と橈骨を分断し、肘関節を砕いた。


 血の飛沫が、竜成の顔に掛かる。瞼のない竜成の眼を、錬司の血の脂が覆った。その血を拭う前に、竜成の顔に向かって、飛び出して来るものがあった。錬司の腕の傷口から、節を持った棒のようなものが襲い掛かったのだ。


 竜成は僅かに顔を傾ける。左の眼尻に喰い込んだそれは、そのまま、鱗や獣毛ごと、竜成の頭の左側面に、大きな一文字の傷を刻み込んだ。


 錬司の肘の傷から、上腕の骨が枝分かれして形成された棘状の骨が、竜成の頭を裂いていた。


 錬司はもう一度、今度は両足で竜成の身体を蹴って距離を取り、その反動を利用して、上に逃れた。観覧車の支柱を、梯子を転がり落ちるダルマの玩具の逆再生のように、両手と両足で攀じ登ってゆく。


「何あれ!」

「気持ち悪い……っ」


 錬司の耳が、ゴンドラの中にいる者の声を聞いた。錬司は観覧車の中央にまで登攀し、まだ回転を続けている観覧車の乗客たちから、その姿を見られていた。


 声に気を取られ、そちらを向く。ゴンドラの横から錬司の姿を確認したのは、カップルであるらしかった。女性の方が蒼褪めた顔で口元を覆い、男の方が彼女を庇うように前に出ている。錬司とカップルとを隔てるゴンドラのガラスに、自身の姿が映っていた。


 ――これは……。


 観覧車の中央に、重力を無視して張り付く自分――その姿は、とても人間と呼べるものではない。歪な左腕には、幾匹もの顔のない蛇がうねり、二つに裂けた右腕の上からは長い棘が伸びている。二股になった左足、片方には黒々とした硬質な毛が生え揃い、もう一方は銀色に光る魚の鱗で埋め尽くされていた。髪は異常に伸びており、さっきまで握られていた反動のように、顎の形がせり出してしまっている。シャツの背中が、セミの抜け殻のように割れ、隙間からごつごつと歪んだ白い背中が覗いている。


 竜成と比べれば、まだ人間の部分が多い。だが洗練されていないその姿は、人間ではない部分が強調され、より不気味なクリーチャーと成り果てていた。

 その醜悪なモンスターを見て彼らが怯えるのも、当然の事であった。


 錬司はすぐには、それが自分だと理解する事が出来なかった。


「ヴ……」


 錬司の口から、そんな音がした。


 咽喉がごろごろとなり、テンプレートの下から空気が抜けてゆく。口の中が酷く苦しく感じて顎を開くと、でろりと、長くて太い舌が垂れ下がって来た。大量の唾液が口からこぼれてゆく。


 唇の下を伝う、唾液の感覚がある。舌が空気を味わっている。呼吸をすれば咽喉が冷えて肺が膨らんでゆく。その動きを、ガラスに映った怪物はしていた。そして覚醒したΩとしての空間認識能力が、鏡に映った化け物が自分自身であると告げていた。


 ――人間じゃない……。


 Ψナックルボールを見た時の嫌悪感が、蘇って来た。歪な動物、存在としての異物感、非日常的で非常識な生体……それら全てを、ガラスに映った自分の肉体は持っていたのだ。


 信じられなかった。信じたくなかった。信じざるを得なかった。


 これならば、まだ、あの田上たちの方がマシだ。奴らは心の中こそ欲望にまみれた獣のようなものだったが、外見は人間のそれだった。自分はどうだ。心は人間の醜い部分を凝縮したようなものである上に、見た目まで不気味な怪物になってしまった。人間にレイプされた方が、化け物とSEXをするよりも精神衛生上は良い。


「余所見をするな!」


 下から、怪物の声が這い上がって来た。咽喉や口の構造が変化しているので、元の竜成の声とは違っている。Ω竜成は、その強靭な脚で観覧車の支柱を垂直に駆け上がると、錬司の身体にパンチを叩き付けて来た。両腕と両脚を腹の前に折り畳んで、拳をガードする。そのΩ錬司でさえ、Ω竜成の腕力は弾き飛ばしてしまう。


 Ω錬司は、観覧車の中心から、ゴンドラを吊るすスポークに飛び移った。Ω竜成が追撃する。飛び掛かって、巨大な爪で身体を抉ろうとした。錬司はゴンドラの上に飛び乗って躱し、竜成の爪はスポークを直角に捻じ曲げた。


 錬司が飛び乗ったゴンドラが揺れる。スポークを歪められた為だ。しかもスポークは不可に耐えられずに、ゴンドラからもぎ取られそうになっている。錬司は咄嗟にゴンドラを支えようとした。竜成が錬司に向かって尻尾を放った。ティラノサウルスのそれを思わせる尻尾が、竜成の身体を薙ぎ払い、序でとばかりにゴンドラを叩き落した。


 竜成の身体が落下する。ゴンドラがぐるりと反転し、載っていた親子連れが逆転した天地で悲鳴を上げていた。錬司が左手を伸ばそうとする。その腕を、降下した竜成の左足の爪が掴んだ。右足の爪で拳を作った竜成は、錬司の胴体を蹴り付ける。錬司の左腕が千切れ、錬司はそのままアトラクションの建物の屋根に墜落した。


 竜成はゴンドラに左肘の棘を突き刺して捕まり、落下のクッションに利用した。観覧車の根元に墜落するゴンドラ、籠がぐしゃりと歪み、ガラスが甲高い悲鳴と共に飛び散った。棺桶となったゴンドラの下から、大量の血液が染み出して来た。竜成はゴンドラから下り、左足で持ち続けていた錬司の左腕を投げ捨てた。


「竜成っ」


 摩耶が駆け寄った。

 竜成は寸毫の迷いなく、尻尾で彼女を打撃しようとした。


 その前に、錬司が飛び込んで来る。

 右の脇腹で尻尾を受けた錬司は、左の二つの足で堪えると、右腕で尻尾を捉えた。


 左腕からの出血は止まっていた。そして再生が始まっている。骨は敢えて再生させず、筋肉のみで作り上げる三本目の腕だ。太く、長く、しなやかに、その先端にのみ角質を生み出させて重量を増した。竜成の尻尾に対抗する為の、巨大な鞭であった。


 左腕の尾で、錬司は竜成を打擲する。竜成は、肘の棘で自分の尻尾を切り飛ばすと、錐揉み回転をしながら舞い上がった。前腕の小指から肘の棘、肘の棘から背骨に掛けて、膜が張られていた。ムササビのような、滑空に使う膜だった。


 竜成は自らの重量で落下しざまに、翼を使って空中を滑り、錬司に体当たりを仕掛けた。錬司の胸に、竜成の胸の衝角が突き立った。


 踵を擦りながら、竜成のウェイトを堪えようと後退する錬司。力を込める都度に衝角は胸の内側へと潜り込んで来る。肋骨の隙間に入り込んで詰まらなければ、そのまま心臓をぶち抜いていた。


 錬司は左腕の鞭を竜成の身体に巻き付け、右腕の棘を竜成の腹部に突き立てた。竜成が突っ込んで来る勢いも手伝って、硬い皮膚を貫通し、内臓に届いたのが分かる。


 竜成は錬司の背中に両手をやり、翼で包み込んだ。着地すると、すぐに逆関節の脚を利用して後方に反り返るようにジャンプし、美しい弧を描いて、錬司と共に頭から落ちてゆく。


 二つの身体がコンクリートを陥没させ、周辺に亀裂を走らせた。


「竜胆くん……! 竜成!」


 舞い上がる粉塵を裂いて、摩耶が駆け寄った。真昼の陽光を反射させるコンクリートの粒子の中、立ち上がったのは竜成であった。


 竜成の胸の衝角は、根元から圧し折れていた。胸が文字通り裂けていて、胸骨の表面が抉れているのまで見て取る事が出来る。腹には一文字の傷、その端から、折られた長い棘が生えていた。自爆を覚悟したムーンサルトドライバーの為、頭部の角は折れ、鱗と獣毛が真っ赤に染まっている。


 竜成は、駆け寄って来た摩耶の首根っこを掴んで引き寄せ、抱え上げた。


「坊や……」


 足元で体側を横にして寝そべっている錬司に、囁くように言う。


「勝負だ……」


 Ω竜成は、地面を蹴った。粉塵から飛び出し、翼を広げる。そうして、手頃な建物を蹴りながら滑空し、摩耶と共に何処かへと去ってゆく。


 錬司の頭蓋も、殆ど割れていた。頭の下に、赤い水溜まりが出来ている。髪に血が絡んでいた。左腕の鞭は引き千切られ、右腕の棘も失っている。歪んだ背骨の為に、仰向けになる事が難しい。古代の埋葬のように、身体を屈めて、沈下したコンクリートの中に眠っていた。


 ――もう、人間じゃない……。


 動かぬ自身の身体を、覚醒し続ける頭で認識しながら、錬司は思った。


 ――もう、人間じゃない……。


 その皮膚が、次第に硬くなってゆく。

 ヒトでも獣でもない何かの形をした、一つの塊が、そこに存在していた。


 ――もう、人間じゃない……。


 心臓の鼓動が弱まってゆく。心地良い眠り。母の胎内を思い出す温かさ……


 錬司は眠りに就いた。


 描くのは、最強の身体。

 思うのは、更なる転生。

 細胞の地図から、必要な情報のみを選び取って組み替える、全く新しいテンプレート……。

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