Part4
――それがその女の正体だ。
竜成は錬司の脳に語り掛けた。錬司はその場で耳を塞いで、蹲っている。亀の体勢は、視覚も聴覚も封じてしまう筈だが、錬司の脳裏には、現実と変わらない光景で、現在とそして過去との映像が延々と流れ続けている。
……違う。
錬司は竜成に反論しようとした。どれだけリアリティがあっても、これは竜成が一方的に送り付けているイメージに過ぎない。自分の過去の映像にしても、幽体離脱のように、意識のない内に収集した情報が後になって像を結んでいるだけだ。そして、竜成のイメージが、摩耶にそのような印象を与えているというだけの事。
錬司はそう思おうとした。だが、意識するだけ、その映像は寧ろリアリティを孕み、それが実際の光景ではないかと、今現在、眼の前で行なわれている事ではないかとさえ錯覚する。
錬司と竜成は、時間の旅をしていた。自分たちの過去を、凍て付いた時の中で見ているのだ。細胞に刻まれた過去を、二重螺旋に記録されたデータを、高次元に達した意識が第三者の視点に作り替えているのである。
それは恐らく、Ωである二人にしか観測出来ない時間だ。錬司は、永遠とも思える程に過去の映像をループしているが、現実世界ではほんの数分の時間さえ経過していないようであった。
――彼女だけじゃない、それが、人間の本質だ。
竜成はなおも錬司にイメージを叩き付ける。自分自身、生態兵器であるαやΨ、そしてΩの要となるΣの研究を愉しんでいた。自らの手で、ヒトが、ヒト以上の存在へと昇華してゆくのを期待していた。口ではホイル製薬のやり口を批判し、自分たちを騙した復讐を遂げるのだと言っていても、心の底では、天才者である自身が、神の御業を再現する事を望んでいた。
それは摩耶も同じである。竜成はそう言うのだ。錬司に、そのように刷り込むのだ。
……違う!
錬司は否定する。摩耶はそんな人物ではない。竜成の考え違いだ。被害妄想だ。ヒトの身体をいじくり回し、化け物に変えるような事を望むのが、人間の本質などでは断じてない。
――ヒトの本質は変化だ。
竜成は言う。
錬司の意識が過去へ向けて加速した。直視したくもない過去をほじくり返され、錬司は、時を遡った。中学時代、小学生の頃、幼児期、赤ん坊の頃……産道を逆流し、胎内に収まる。錬司の全身を温かい羊水が包んだ。肉の赤い景色の中で、人間の赤ん坊であった錬司の身体は、稚魚にも似た姿へと変わり、明確な形さえ持たぬ、単なる遺伝子へと巻き戻された。
その先に、覚えのない景色が広がる。果てしなく広がる薄暗い森、銀世界に吹雪く風、分厚い黒い雲を裂く赤い石の奔流、仄暗い紺色の水の底――そして光。
遂に錬司は、恒星誕生の光より以前、虚無たる漆黒の中に佇んでいた。
――お前が見たのは、進化だ。
竜成がいた。
虚空にぼんやりと浮かぶ竜成の前に、錬司がいる。向かい合う錬司と竜成を眺める、錬司の視線と竜成の視線があり、二人の見る景色は違う筈なのに同じであった。
――進化とは滅び……
……滅び⁉
――滅びを経て生まれる新たな生命……
……生命⁉
――生命の本質である進化は、滅び……
……進化⁉
――滅ぼす事によって進化を遂げる、故に……
……故に⁉
――滅びを願う心は、生命の本質である進化の原動力……
……原動力⁉
――滅ぼす故に進化を経て、進化を遂げるべく滅ぼされる。
竜成は言う。
錬司は言っていた。
人間の本質は、滅びを望む残酷なものである。
……違う!
本当か。
人間が残酷であるという事を、お前は否定し切れるのか。
お前は一度も残酷な思考をした事がないのか。命を蔑ろにしたいと思った事はないのか。生命を虐げてまで、変化を引き起こしたいと考えた事はないのか。
それが誰の問いであるのか、分からない。
錬司自身の問いなのか、竜成の問いなのか。
分からないが、分かっている事は、あった。
その問いに、錬司も亦、首を横に振る事が出来ないという事だ。
嬉しかった。
楽しかった。
気持ち良かった。
Σを得て、超人になった自分が。
Ωとなり、過去と決別した自分が。
余人よりも優れた肉体を手にした事を、錬司は喜ばしく思っていた。それまでの自分を切り捨てて、なかった事のように、新しい自分に生まれ変わったようだった。
絵に描いたような最強の人間に生まれ変われて――
摩耶がナックルボールに襲われた時、助けなければと思った。未散が角鱗会に拉致されそうになった時、救い出さねばと思った。彼女らの生殺与奪は自分にあった。いや、それ以前、未散がトラックに轢かれそうになった時に、既に、そういう考えはあったのだ。
誰だってヒーローになりたい。
学校に侵入して来たテロリストを倒し、町中で弱者を囲んで金を巻き上げているチンピラたちをぶちのめし、銀行強盗を制圧し、事故に遭いそうになった者を助けたい。
それは、本当に善意から出たものか。
その先にある称賛を求めての善行ではないのか。
自身が英雄として褒め称えられ、崇め奉られる為に、誰かの不幸を望んではいないか⁉
他者の生命を生贄にして、自分自身を気高い存在だと思われたいだけではないか⁉
錬司は否定出来ない。
それまで蔑ろにされ、虐げられ、劣等感に押し潰されそうになっていた自分には、間違いなくそういう願望があった。今まで自分を軽んじていた者たちを見返してやりたいという気持ちがあった。暗い、陰湿な炎であった。粘着質な欲望であった。とても人前には晒す事の出来ない、自分本位の、身勝手な、醜い願望であった。
Σを得て感謝していると、摩耶に対して言おうとした。それは、その願望の肯定に他ならない。自ら努力する事なく手にした力で、善意もなくヒーローと呼ばれたがっていたのだ。
夢のような時間だった。しかしその夢は、誰かの破滅失くしては叶わない、醜悪な渇望の心より生まれたものだった。
……違う。
しかしそれを認めても、錬司は否定するしかない。
……違う!
そんな人間は、誰からも好かれる資格のない詐欺師だ。そんな事を思ったのなら、人を愛するという気持ちでさえ、自己満足の為のものでしかなくなる。誰かを愛しているという言葉が、誰かを愛する自分を愛するという、自己肯定感に酔い痴れる愚か者のものになってしまう。
未散への想いが、嘘になってしまう。彼女の幸せと安寧を願う真心が、偽りだと知る事になる。
だから錬司は、それを否定するしかない。
「違う!」
錬司は叫んだ。
叫んで、立ち上がった。
無限の虚空も、進化の歴史も、竜成の記憶も振り切った。
止まった世界が動き始める。凍て付いた時間が鮮やかに色付いた。
蒼空の下に錬司は立ち、太陽の光の中で駆け出した。
「うおぉぉぉぉっ!」
錬司は咆哮し、異形の足で駆け、鱗に包まれた左の拳を繰り出した。
竜成は動かなかった。動かない竜成の胴体に、錬司のパンチが突き刺さった。
どろりとした、生ぬるい感触が、鱗の上から伝わって来る。錬司の左拳の先が、竜成の身体を突き抜けて、向こう側に飛び出していた。
――やった⁉
錬司は、そう思った。
巨大な質量を持った鞭が、竜成の身体を打ち砕き、その向こうにあった錬司を吹き飛ばした。
錬司の身体は、その場に集まっていた野次馬たちを何人か巻き添えにしながら、ゆっくりと回り続けていた観覧車の根元に至って、漸く止まる事が出来た。
「きゃーっ!」
「化け物⁉」
「何だよ、これ⁉」
何を今更……頭の片隅で思いながら、自分の背中の形に窪んだ鉄骨から身体を起こすと、錬司は逆に自身の認識の違いを恥じた。
蜘蛛の子を散らすように、それまで観客に徹していた者たちが、逃げ出そうとしている。人間たちの海を、モーセが紅海を裂くようにして歩いて来たのは、彼らの言うように、
“化け物”
と、表現しても構わない存在であった。
鱗と獣毛で包まれた全身。両腕には、長さこそ違えど、刃のような棘が幾つも生えている。特に、肘から生えたものは関節を持ち、腕と同じくらいの長さである。大地を噛む脚は逆関節で、前に三本、踵に一本の巨大な爪を持っていた。アスファルトの上に引き摺られているのは、樹の幹程に練り上げたゴムのような尻尾であったが、先端には数本の鉤爪が生えている。発達した大胸筋に、ねじれた角のような器官が飛び出していたが、直前までのものよりも洗練され、船の衝角を思わせる。
その太い頸の上に、前方に突き出した顔が載っている。鼻から下顎に掛けてせり出しており、口は耳まで裂けていた。既にテンプレートは装着していない。顔も、鱗と獣毛で覆われており、頭の左右からは、巨大な角が突き出している。
そして、その背が、歪に曲げられていた。極端な前傾姿勢になっており、両手を前に突いている方が楽であるように思えた。
もう、人間ではない。
しかし、単に怪物と言い切る事も出来ない。
α以上に怪物で、Ψよりも研ぎ澄まされている肉体――
蓬田竜成は、Ωの最終地点を、その鬼の姿に定めたようであった。
竜成は人間の肉体の表面を、ムーラダーラから分泌されたサイサリスで硬質化させると共に、内側で細胞を消滅させつつ増殖させ、Σとテンプレートの連携によって起こる電流によって脳の活動を活性化させた。この事により、脳から全身に伝わる指令をより強いものとし、人間の形をした蛹の内側で、この鬼の身体を形成したのである。
錬司の拳が砕いたのは、その蛹だったのだ。
「こ……ぃ」
怪物の口が開き、黄色く濁った牙の間から、空気が擦り抜けて来た。
「お前も、来い……」
酷くしゃがれた声であった。怪物が人間の言葉を話す……その光景はΨと同じだったが、Ψの眼に人間的思考がなかったのに対し、この怪物・Ωの眼には、寸前まで竜成が見せていた理性の光が湛えられていた。
「お前も、オメガの力を、使いこなせ……」
錬司は、Ωとなった竜成の尻尾によって追ったダメージに顔を歪めながらも、膝を起こす。今、まさに降りて来た観覧車のゴンドラに手を掛けて姿勢を正すと、かぶりを振った。
「嫌だ……僕は、貴方みたいには、ならない」
そう言った瞬間、竜成が襲い掛かって来た。それまで以上の速さで肉薄すると、アッパーカットで錬司の身体を大きく浮かせた。上空に数メートル舞い上がった錬司を追って、竜成も跳ぶ。
観覧車を支える柱の、建物の二階か三階くらいの高さの位置に、錬司の背中を左手で押し付けた。ぐぃと右脚を伸ばして、錬司の顔の横にまで持ち上げ、柱に爪を突き刺して固定する。
「お前もΩになれ」
Ω竜成が言った。
「でなければ死ぬぞ」
「嫌だ……ッ」
Ω竜成の広い左手に、頸を掴まれ、掠れた声で錬司は拒否した。
「何故、Ωの力を否定する。これは生きとし生ける全てのものの夢だ。人間の願望だ。全てを破壊し尽くし、新しい力を手にしたいという人間の願望を叶える力だ。お前だってそれを望んでいた筈だ。お前を軽んじて来た奴らを見返してやりたいと。俺には分かるぞ、お前の心の内の暗い闇が……。それが、お前の夢だったのではないか!?」
竜成は錬司の頸をぎりぎりと絞め上げる。錬司の顔が赤くなり、すぅと血の気を引かせてゆく。酸素を求めて口を開こうとすると、竜成の左手の虎口(人差し指から親指に掛けての部分)によって顎を閉ざされてしまう。顎を強く閉ざされて、ばりばりと発生する電流が、ムーラダーラを刺激する。Ωのパワーでも、聖痕を刻んだ真のΩである竜成の力を振り払えない。
「受け入れろ……ヒトでない事を、獣となる事を、鬼に変じる事を!」
Ω竜成の額に、自然と切れ込みが入ってゆく。傷口が自然と開いてゆくと、血が顔の鱗に沿って滴り始めた。切れ込みから覗いたのは、水晶体――三つ目の瞳であった.
その眼に睨まれると、再び、錬司の世界が止まった。Ω竜成の第三の眼から、錬司の脳に、強い信号が発せられる。竜成自身が時を止める時にしてみせたのと同じだ。ムーラダーラに大量に打ち込まれた電気信号がオーヴァーロードし、上へとエネルギーが昇ってゆく。
錬司は、Ω竜成を通して、Σの構造を理解していた。Σの底部であるムーラダーラには、強過ぎる刺激に耐え切れなくなった時、その余剰エネルギーを逃がすルートが設けられている。ムーラダーラを含めて、五つのポイントが用意されているのだ。
本来、それらは、サイサリスの効果を抑制するホルモンを分泌する。だが、ムーラダーラからのサイサリス分泌が、会陰の分泌腺の抑制ホルモンを凌駕した時は、その上の丹田にある分泌腺が、それでも駄目ならば脾臓の位置の分泌腺が、それでも駄目ならば心臓近くの、そしてそれらでも抑え切れなかった時には、咽喉にある分泌腺から抑制ホルモンが分泌される。
最初に造られたΣ――即ち、竜成が初めに移植されたプロトΣには、この機能がオミットされていた。と言うよりも、テンプレートによるスイッチの切り替えが可能であるという利点に驕り、緊急措置を取り付けるのを怠ったのである。
錬司のΣから新たに備えられた機能だ
だが、咽喉の位置、Σの上端にあるその分泌腺が機能した時点で、ムーラダーラからの分泌はαの副作用としてのβ作用、サイサリスの発現を意味するだけの量となっている。そうなれば、テンプレートを外そうとも、関係がない。
錬司のムーラダーラから、大量のサイサリスが分泌され、全身に漲ってゆく。最後の抵抗に、テンプレートを吐き出そうにも、竜成の手が顎を押さえ付けており、口を開く事さえ出来ない。奥歯を無理矢理に噛み締めさせられ、電流をスパークさせられ続けている。
錬司が左手で、竜成の右の手首を握り締めた。獣の腕が、鬼の腕に力を加えてゆく。錬司の腕の鱗が、肉の内側から、もぞもぞと波打ち始める。
竜成が、錬司の顎から咽喉に掛けてを握る手に、更に力を込めた。掌に生じた鱗がささくれて、錬司の咽喉の肉に喰い込んでゆく。その手に向かって、何かが動いた。錬司の腕で脈打つ鱗が、急激に外側に張り出したのだ。肉の隆起に伴って、鱗も同じく増殖し、縄状の何かを作り出した。吸盤のない蛸の触手、骨格がしっかりとした獣の尻尾、蛇の躯体。
錬司の左腕から、眼と口のない蛇が、何体も突き出していた。それらが独自に動いて、竜成の腕に絡み付いてゆく。そうして強い力で締め上げると、竜成の獣の腕の内側から、太い枝を手折る音が聞こえて来た。竜成の指先から力が抜けて、錬司を掴む手が緩んだ。
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