Part3

 バスの事故を経て、漸く単なるアトラクションではないと知って、しかし呆然とする事しか出来なかった観光客たちは、入場ゲートを飛び越えてやって来た異形の少年に悲鳴を上げる。


 竜成が、錬司の前に降り立った。鱗の棘を生やした右手でシャツを引き裂くと、見事に発達した上体が陽の光を浴びて輝いた。竜成はすぅと空気を吸い上げ、大胸筋を鳩のように膨らませた。獣のように姿勢を低くしている錬司に迫る。


 黄色い悲鳴が上がった。錬司に駆け寄る竜成の身体を、瞬く間に黒い獣毛が覆ったのである。走り寄るその動きに応じて尻尾がしなり、明らかに人とは異なる何かに変貌したのが分かったのだ。

 少年の異形が、着ぐるみや特殊メイクでない事がはっきりとしたのだ。


 竜成が右の拳を打ち下ろす。錬司が左に飛び込み、尻尾を潜りながらバックに回り込もうとする。竜成の左足が跳ねて、ブーツの底が錬司の頭を狙った。蹴り足の側面に両足を乗せ、足場に跳躍する錬司。空中で縦に回転しながら右の踵を蹴り下ろす。骨肉の斧を毛むくじゃらの左腕で受けた竜成は、右のパンチを錬司の腹に打ち込んだ。紙一重で躱そうとした錬司であるが、拳の棘が臍の上を通過、内臓には辛うじて届かない深さまでを斬り付けられながら、地面に落下する。


 得体の知れない二人に怯えながらも、逃げ出すよりも興味を優先してしまった野次馬の中に、錬司が血を撒きながら突っ込まされた。少年を避ける野次馬の波が、更に左右に展開される。竜成がずんずんと人垣を掻き分けるのだ。


 その間にも、竜成の肉体は変化を続けている。右手だけでなく、左手もその表面に鱗と棘を纏わせた。分厚い大胸筋がむくむくと流動し、その表面が何か所か盛り上がる。せり出して来る突起は、皮膚を薄く纏いながら巨大化し、山岳地帯に住む山羊の角のように、ねじれながら伸長した。


 先程、錬司の左手に刻み込まれた脇腹の傷を覆うように、硬質な体毛と鱗が交互に生えた、歪な皮膚が張られてゆく。その内の、特に長く伸びた獣毛の束に、鱗が混ぜられてゆく。新しく生じた不気味な尻尾であった。


 左腕を支えに立ち上がって来た錬司に、パンチを叩き込んだ。右手でブロックするも、そのブロックごと転がされる錬司。人垣は錬司と竜成の為に左右に分かれ、しかし決して逃げ出さない。最早、アトラクションやエンターテイメントの類でない事は分かっている筈だが、どうしても眼を離せない。観光、遊覧という非日常によりも、更なる常軌を逸した世界観――怪物による暴力に、人間が持つ残酷性が悦びを感じているのだ。


 寧ろ、到底現実とは思えない光景にヒートアップして、歓声さえ上げて、戦いを囃し立てた。


 竜成は分厚い唇を捲り上げ、鋭く尖った牙を剥き出した。見るからにその鋭さが増している。口中にも、サイサリスによる変化が表れているのだった。


 錬司が苦し紛れにはなったラッシュを受け漏らし、顔面にスニーカーの爪先を叩き込まれる。歯茎から吹っ飛んだのは、石器時代の包丁のような歯だった。唇を裂くように滴る血液を舐め取る舌は、さっきまでよりもずっと長くなっている。


「腕だけで良いのかい。それじゃあ、俺には勝てないぜ」


 竜成の廻し蹴りを、ジャンプして避けると、錬司は左腕を振り下ろした。竜成の鱗の腕と、錬司の腕の鱗がぶつかり合い、互いに鱗を剥がし合った。鉄と鉄の軋る音に眉を顰めつつ、錬司は右脚を横に薙いだ。蹴り足を左手で掴んだ竜成は、そのまま錬司を振り回し、放り投げた。


 錬司の身体が向かった先に、メリーゴーランドがあった。白馬を吊るした棒を圧し折り、中央で回転する柱に背中から激突する。錬司は、自分の身体が折った棒を握った。無理に折られた為、両端がささくれている。


「つまらん事をするなァ」


 竜成は、鱗で尖った指で、左のこめかみを掻いた。ぞりぞりと皮膚が削れ、指先は頭蓋骨にまで達している。指の第一関節までが頭の中に埋まってしまい、引き抜くと黒い鱗の隙間に、溶岩のように血の色が伝った。


 しまった――と、頭を破った事を悔いている竜成に、錬司が棒を構えて迫った。左の剛腕が振るう棒は、人間の骨くらいならば、簡単に折ってしまう。だが、鎖骨に斜めから振り下ろされた棒は、竜成の筋肉の硬さに敗けて、くの字に折れ曲がってしまった。


「もう一回言うぜ。それじゃあ、俺には勝てない。もっとΩの力を使わなくちゃな」


 未だに人間の身体に執着する少年を、竜成が嘲弄した。錬司はバックステップで距離を取って、棒を竜成に向けて放り投げる。ブーメランのように、くるくると回りながら進む棒を、いとも容易く弾く竜成。錬司は、投擲した棒の影に隠れて竜成の下半身に肉薄し、股間――絶対急所である金的目掛けて踵を繰り出した。


 緩く開いた両脚の間に潜り込んだ錬司の蹴りであったが、ひたりと密着し合った太腿に阻まれて、睾丸を叩くに至らない。竜成は前蹴りで錬司の胸を蹴り飛ばそうとする。身を翻した錬司は、後ろ廻し蹴りで竜成の横腹を狙った。


 ふん――竜成は右膝を持ち上げ、振り下ろした右肘と共に、錬司の左脚を迎えた。子供の頭蓋骨くらいはある膝頭と、鱗の肘に挟まれ、錬司の足が変な方向を向く。しかも、その間にも竜成の肉体の変化は続き、肘の先の骨が返しを持った棘のようになって、錬司の足首に喰い込んだ。


「しゅ――!」


 竜成は開いた左手を突き出し、蹴り足を挟んだ右足を後ろに踏み込んだ。ブーツがコンクリートを砕く衝撃が、返した手首の先の掌底に伸びてゆく。幾重にも重ねた柔らかな筋繊維が、鉄の硬度を持って錬司の胴体を貫いた。左を前にした前屈立ちの姿勢になった竜成の前から、少年はヒット性の当たりとなって飛んでゆく。


 何度目とも分からない飛翔感を覚える錬司、その左足の先から、燃料切れのジェット機が最後に見える炎のように、血が点々と飛沫を上げる。スニーカーが左右に裂けており、その内側は赤いペンキに浸けたかのようだった。足首から爪先まで、真っ二つに切り裂かれている。


「坊や、武器が使いたいなら、こうするんだぜ」


 竜成は、錬司の足を裂いた右肘の棘を見せ付けた。その棘が、内側から段々と屹立し始める。折れてもいないのに、細胞が暴走したかのように増殖してゆく骨を、外に流しているようだった。骨に押し出されて伸びてゆく皮膚の上に、同じ分の鱗が生えてゆく。気付けば竜成の右肘には、四、五〇センチはある歪んだ刃のような突起が出現していた。


 胸の角や、脇腹の尻尾状の器官は、存在意義や使用方法が分かり難い。だが、右肘の突起は、明確な殺意を孕んだものである。


 竜成が腕の刃を、上体を起こした錬司に打ち下ろす。刃物のような切断能力は有していないように見えるが、対生物のものとしては充分に危害を加え得るものだ。


 錬司が本能的に身を縮める。腹の方に引き上げた脚、偶然にも、竜成の棘に作られた左脚の裂け目に、竜成の刃が入り込んで来た。しかも、竜成の体重によって喰い込んでは来たものの、それ以上のダメージを防ぐ事に成功した。足が左右に裂けたまま、断面が硬化して、刃を挟み込んだのだ。


 錬司は、刃を挟んだ足を開いて、そのまま跳んだ。竜成はすぐには追って来なかった。右足で着地しながら、左足に絡み付いたスニーカーを振り払った。足首の先から二つに分かれていて、親指から中指までのものと、薬指と小指の側、それぞれが独立した一つの器官のように、皮膚にくるまれている。内側の硬度は寧ろ高く、カサブタがそのまま鱗になったようであった。


 不気味な感覚だった。足の指を動かそうとすると、それに伴って、足の甲から足首までの新たな器官が、別々に動く。人が持っているべき部分ではない筈なのに、錬司の身体は既に適応しようとしていた。


「慎ましいな。もっとはっちゃけても良いのに」


 竜成の顔の半分が、赤く染まっている。自身の指がほじくった、こめかみの孔からの出血だ。頸の辺りまでこぼれた、脳漿交じりの血液は、もう凝固して、皮膚の上に重なった二層目の皮膚になっている。傷口が塞がった訳ではなく、血はほろほろと流れ落ちており、外気に触れると間もなく固まっているのである。だから、顔の半分は、血が作り出す層で、左右で厚みが変わっていた。


 むぅ……と、血の仮面を被っていない右の眉根に皺を作った。右側のこめかみが、ぴくぴくと蠢動する。それに呼応して、左のこめかみに開けられた孔から、火山の噴火口でマグマが煮え立つように、血だまりがごぼりと音を立てて盛り上がった。


 そうすると、泥を攪拌する調べと共に、赤い色を纏った、硬いものが飛び出して来た。それは、竜成の左上に伸びながら、正面に向かってねじれ、バッファローの角のようなものとなった。皮膚が角質化したのか、それとも、再生を始めた頭蓋骨の余剰分がそうなったのか、又は、流れ出した血液の凝固作用が、そうした器官を形成したのか、それは不明である。


 だが、角を持った赤い仮面は、竜成の素顔が剥き出した右半分と比べて、鬼のようだった

 竜成は、分厚い唇と、赤い仮面の顎を開閉させた。


「お前もΣを持つものならば見せてみろ。Ωの力をな……」


 第三ラウンドだ――竜成は言った。


 むぅぅ……と、竜成が、咽喉の中で低い唸り声を上げた。それは、獅子が獲物を威嚇する時のそれに似ている。或いは、クジラが自らの存在を誇示する時のような。又は、猛禽類がつがいを求めて上げる啼き声にも似た――


 捲り上げた唇の内側から、テンプレートを噛んだ牙が剥き出している。奥歯同士が強く噛み合わさって、絶え間ない電流が迸っていた。そのスパークが、鋭く尖った牙の間から見えるようであった。いや、肉体の内側を走る生体電流が、傷口から血液に交じって漏れ出しているようでもある。


 竜成の全身がスパークに包まれた。そのように見えたのは、人間には捉えられない肉体の動きを感じ取る事の出来る、鋭敏な感覚を持つ錬司だけであった。錬司の眼は竜成の起こすスパークに眩み、自分と竜成以外のものが、ネガフィルムのように黒く認識されていた。


 その反転した世界で、彩を保ったままの竜成の下腹部が黄金色に輝いていた。正確に言うのならば陰部の下――尾骶骨の位置だ。眩いばかりの金色は、竜成の引き起こす電流の輝きが増すに連れて巨大化し、続いて腹部の辺りに同じような光が生じ始めた。


 同じ事が、合計で七度、起こっている。


 尾骶骨から始まった輝きは、丹田、脾臓、心臓、咽喉に到達する。頸骨から頭蓋骨にまで光が及ぶ際、テンプレートが起こす電流と融合し、眉間の位置に這い上がった。


 錬司はぞくぞくとしたものを感じた。光が眉間に至った瞬間、竜成の肉体が、内側から溶解してゆくのが見えたのである。そして同じだけのスピードで、溶解した細胞が強化再生されてゆくのだった。


 ――分かるか、坊や。


 竜成の声が聞こえた。しかし、それは空気を振動させて届く音ではなかった。錬司の脳内、言うなれば精神に響く意思であった。だから錬司にとっては、竜成がそのように言ったのではなく、錬司の脳に届いた竜成の意思をそのような言葉に解釈し直したという事になる。


「何の事だ⁉」


 錬司が言うと、竜成は精神で笑う。その表情は全く変化していないのに、竜成が微笑みを浮かべた意思を、錬司が受け取ったのである。そしてそれと同じ方法で、竜成は錬司に声を掛けた。


 ――これがΣの境地……Ωの到達点さ。


 Ωの⁉


 今度は、言葉に出さなかった。蓮司が言葉に出すより先に、龍茂は恋司の言葉に頷いた。


 ――Ωを極める事によって、俺たちの意識はより高位の次元に到達した。


 互いの生体電流を読み、思考を探る事が出来るようになったのだ。


「な……」


 錬司が声を上げた。竜成の言葉を脳内で解釈し、更にそれに対する返答を自ら用意したのだ。竜成が告げるべきであった答えを、錬司自身が出してしまっていたのである。恐るべき思考の速さ――否、思考の混濁であった。錬司と竜成の思考が、混じり合っていたのである。


 脳……


 竜成の脳が、果てしのない進化を遂げていた。Σが発生させた電流が、ムーラダーラを刺激し、分泌された大量のホルモンが脳にまで逆流して、神経組織の塊である脳の進化を大きく早めたのである。その果てにあったのが、生体電流を読み取る事が可能な、新しい器官なのだ。


 そしてそれは、一方的に思考を読むだけではない。普通の人間に対してはそれだけで済むのであっただろうが、相手は同じΣを持つ錬司である。通常のΩでさえ、人体を流れるほんの僅かな電流を読んで、相手の動きを予測する事が出来る。その読み取れる以上の情報を強制的に叩き込まれてしまったのだ。


 錬司の思考を読んだ竜成に、錬司の思考を竜成のものとして送り込まれ、それが自身のものであったように錯覚したのである。


 それをきっかけに、竜成の脳との間に、思考のトンネルのようなものが開通した。自身の思考が竜成の頭の中に流れ込み、それが竜成のものとなって逆流して来る。同じように竜成の無意識の思考、記憶さえも錬司の脳の中に伝わって来るのである。


「や……やめろ」


 錬司は耳を塞いだ。意味がない。竜成の思考は、直接、脳内に注ぎ込まれて来る。眼を閉じても、竜成の輝きながら変貌する肉体が良く見える。瞼を透過して来るのですらない、自然と脳内で像が結ばれてしまうのだ。


 それと同じように、竜成が奪い、そして送り返して来る思考が、錬司の脳内をパンクさせんばかりに複数の映像として表現されていた。


 自分の姿が見えている。Ωとなってからの、二度に渡るΨとの戦い。未散を田上たちから奪い返した事。未散の身体の柔らかさや温かさ。今までの自分からは考えられない早さで解けてゆく公式、ノートに刻まれる文字の羅列、誰も追い付けない速さ、針に糸を通すような正確なコース取り……


 それ以前の事も思い返された。


 全ての始まりとなったあの事故、謎の転校生であった摩耶、陰気な自分に他の者たちと何の隔たりもなく接してくれていた未散、駄目な自分、背中を曲げて生きていた自分、背の高さを妬まれて虐められていた自分、林の中で見たセミ、命溢れる森、飛び立つ蝶、日に日に固くなる蛹、不気味に蠢く芋虫……


 そればかりではない。


 思い出す事さえ憚られる過去や、思い返す事もないような奥底に封じられていた記憶、些細なメモリーに交じって、覚えのない光景が蘇って来る。竜成の過去だ。竜成の記憶だ。


 誰よりも優秀だった。勉強も運動も誰にも敗けなかった。身長が高かったが妬まれる事はなかった。妬まれたとしても実力が備わっていたから誰をも黙らせる事が出来た。そしてその高い実力で文武両道の超人として君臨し続けた。孤高の超王には、才能もあっただろうが、決して努力を怠らなかった。


 推薦を蹴って一般入試で難関大学に入った。友人たちと遊ぶ事さえせず、鍛錬と研究とに明け暮れた。そこで摩耶と出会った。摩耶と共に研究をし、摩耶に見守られて鍛錬を積み、摩耶と信頼し合い、唯一の理解者として愛し合った。


 ホイル製薬に引き抜かれた二人は、知らずにα計画に加担し、それが明らかになった後も研究を続けた。特に竜成は研究に積極的になり、Ψ研究の成果が出るたびに、昏い喜びを感じていた。自分たちを利用したホイル製薬、その親会社、そして戦争を起こす者たち、更にはその研究を愉しむ自分を含んだ研究者たちへの怒りを巨体にたわめ続けた。Ωが完成した暁には、文字通り自身がその全てに終止符を打つ……


 錬司は、孤独であった。

 竜成は、孤高であった。


 錬司は挫折し、竜成は戦い続けた。

 惨めな自分と、誇らしい竜成を見せ付けられるように比較された。


 そして、思考と記憶のカオスの中、同じ瞬間が重なり合う。


 自ら望んでΩとなろうとした竜成――

 望まずとΩになってしまった錬司――


 共にΣを埋め込まれた二人だ。

 その瞬間が、映画のワンシーンのように浮かび上がる。


 Σは背中に埋め込むものであるから、手術の際には台の上にうつ伏せになっており、周りの景色を記憶している訳がない。だが、肉体に刻み込まれた情報を、Σが集積し、再構成する事で、その映像を脳裏に浮かべる事が可能なのだ。


 竜成にも、錬司にも、摩耶が移植手術を執刀した。

 竜成にはホイル製薬の実験室で、錬司には病院の手術室で。


 培養液に浸された人工の背骨を、シリンダーから取り出し、切り開いた被検体の背中に埋め込んでゆく摩耶――


 そのアングルも自在であった。まるで、その場にいて、その光景を見ているかのようだった。見たいなどとは思っていない、しかし、錬司の脳内では、手術着を纏った摩耶の、その表情を覗き込もうという動きが起こっていた。


 マスクとキャップから覗く、同じ屋根の下で暮らした女性の眼――


 その瞳には、明確な好奇の色が浮かんでいた。

 とても、Σを埋め込み、結果として生体兵器を造り出してしまった事に、罪悪感を覚える人間がする表情ではなかった。

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