Part2

「うわああぁぁぁぁぁっ⁉」


 それは自分の左腕だった。見慣れている筈の自分の身体は、しかし、自分の肉体から切り離されていた。自身から独立した自身の部分を、錬司はすぐに受け入れる事が出来なかった。だのに、Σによって冷却された脳は、自分が左腕を奪われた事をすぐさま受容しているのだった。


「あ……あ? うあぁっ……あぐぅぅぅっ……?」


 痛みはない。それがどれだけの重傷であろうと、Σは錬司の生命を守る為、痛みを緩和する。だが、すぐに痛みに変わる感覚に襲われた。痒みだ。しかも、身体のある部分が痒いのではない。ない筈の左腕がじくじくとした痒みを覚えているのだ。


 錬司の右手が、左の肘から先があった筈の場所を掻く。右手には勿論、ものを掻いている感触はない。左腕が掻かれている感覚もない。あるのは失われた部位が放つ幻の痒みだけだった。


「腕を失くしたのは初めてかい。何、すぐに慣れるさ」


 竜成はそう言うと、自分の太い右手首を、左手で握った。ぎりぎり、と、力を込めると、それまでピンク色に発色していた右手が、見る見る蒼白くなり、細くなってゆく。血が止められているのだ。そして見て分かる程に、腕と手の色が変わった時、竜成は自身の右手を、左手で引き抜いていた。


 手首の血管に押し留められていた血液が一気に噴出し、足元の錬司に降り掛かった。竜成の血を浴び、頭から真っ赤に染め上げられる錬司。血の脂を絡めた眼で巨漢を見上げると、竜成は余裕たっぷりの様子で、引き千切られた右手の断面を錬司に突き出した。


 すると、錬司の眼の前で、竜成の赤々とした肉がもぞもぞと蠢き、その表面から繊維のようなものがミミズの如く這い出して来て、互いに絡み合い始めた。肉ミミズは蛇の交尾のように身体を絡めつつ膨らみ続け、やがて、赤い色の五本の触手を作り出した。それは手だった。驚くべき速度で、竜成の右手は再生しているのだ。


「そんな……」


 それを見て声を上げたのは摩耶だった。竜成は摩耶を眺めて、


「驚く事はないぜ。Σが分泌するホルモンは、サイサリスの改良型だ。蛹を形成し、その内側で細胞を溶解させ、同時に猛スピードで細胞分裂を行なう……Ωである俺がそれをやっても、何もおかしい事はない」

「な――」

「要は、失敗だったんだよ、Ω計画は。αも、Ψも、そしてΩであっても、細胞が暴走し、人間ではない姿に変わってしまうのさ」


 ものの数十秒で、竜成の右手は、骨格や表皮こそ形成されていないが、はっきりとそれと分かる形にまで再生を終えていた。


「こんな風にな」


 と、竜成は再生したばかりの右手を持ち上げ、そちらに意識を集中した。すると再生が追い付いていなかった表皮が、再生スピードを増し、右手全体を覆うと、その下に別の皮膚の層を作り始めた。内側から堆積してゆく皮膚の層は、段々と黒く染まってゆき、やがて、細胞増殖の速度は表皮が膨張する速度を越えて、表に突き出して来た。


 皮膚を突き破って手の甲に表出したのは、幾重にも重ねられた、鱗のようなものである。魚のヒレにも似た硬質な棘……有機的なメリケンサック。少なくとも未散の常識では、人間の身体に生じるタイプのものではなかった。


「お前にも出来る筈だぜ、兄弟」


 竜成は言った。


「人間は誰もが花だ。生命の花だ。しかし、人間は花を咲かせる力の使い方を忘れてしまった。しかし、その進化力……DNAの根底に眠るエネルギーを、俺たちは目覚めさせる事に成功したのだ。俺たちは、全ての人間が見ていた夢を実現したのさ! 夢を叶える力、Σを伝わる二重螺旋の力を、お前は知っている筈だ。奥歯を噛み締めた時に漲る、超常の力を……」


 錬司が、竜成を見上げた。脳内麻薬でも抑え込めない激しい幻肢痛を堪えるべく、歯を喰い縛った鬼の形相で、自分の腕を奪った男を睨み上げていた。


「来い……」


 竜成が囁く。


「来い、俺の所へ――」

「――駄目ぇッ!」


 摩耶が叫んだ。

 錬司の左肘の付け根が、小さく蠢いた。





 頭の芯が、びきびきと痛みを孕んでいる。脳天から鉄の棒を挿し込まれて、それが常に電気を発しているかのようだった。


 錬司が、痛みを堪えるのに奥歯を噛んでいるからだ。テンプレートを被せた奥歯を強く噛み合わせて、きりきりと軋らせている。

 噛み合わせる事で微弱な電流を発するテンプレートを、強い力で長い時間押し付けていれば、次第にその電流が大きなものになるのは当然の事だ。


 アドレナリンでさえ抑制し切れない怒り……自身の一部を奪われ、命の恩人を謗られ、愛する人を傷付けられそうになった事への、どうしようもない感情の渦が、痛みさえ伴う電気のパルスとなってムーラダーラを刺激する。

 過剰に溢れたホルモンが、錬司の細胞を活性化させ、失われた部位でさえ、蘇らせようとしているのだった。


 錬司は、触れてもいないのに動き始めた左肘の付け根に、右掌を押し付けた。掌に伝わるのは、無数のミミズがうねるような不気味な感触だ。血漿を絡め、細かく蠕動する肉の群れが、錬司の手をこそばゆくさせる。


 摩耶が、「駄目ぇッ!」と叫んだ理由が分かった。この動きは、人間の身体にあるべき動きではない。仮にそうした働きをするとしても、その速度は緩慢であるべきだ。竜胆錬司という人間の肉体には、起こってはならない現象であった。


 では、何故、眼の前の巨漢……蓬田竜成はそれを行なえたのか? 簡単な話だ、奴は人間ではないからだ。奴は、あのΨと同じように人間ではないから、人間ではない細胞の働きを支配する事が出来るのだ。


 普通の人間の身体ではなくなった――だから摩耶は、錬司に対して罪悪感を抱いていた。しかし、その肉体の構成要素として、人間ではない部分というのは存在しない。

 粉砕された背骨を、人工のものに入れ替える……それを人間でないと言うのなら、義手や義足、義眼、人工肛門などを使っている人間はどうなるのか。


 事故前と、何ら変わる事なく、錬司は人間であると摩耶は言っていた。だから、人間としてそぐわない行動を、錬司の肉体はしてはならないのである。引き千切られた片腕を、手術をする必要もなく取り戻せてしまうのは、錬司の認識の中の人間とは、大幅に異なってしまっている。


「つまらん男だ……」


 竜成が呟いた。


 錬司は、彼らしからぬ憎悪の表情で、竜成を見上げた。視界が真っ赤に染まっているのは、眼球に被さった血の脂の為ばかりではないような気がした。痛みと共に湧き上がる怒りのエネルギーが、赤色に世界を染め上げているようだった。


「れ……錬司くん……」


 そこではたと、未散が気付いた。それまで現実離れした光景に、面喰らうしかなかった未散だったが、錬司が幻肢痛と、その他の何らかの痛みに悶えているのを見ていられなくなり、彼の傍に近付いた。


 未散が錬司に駆け寄ろうとしたが、ぬぅと伸びた巨大な獣の手が、少女の後ろ襟を掴み上げ、自分の方へと引き寄せてしまう。


「無粋な事はするもんじゃないぜ、お嬢ちゃん。坊やは今、新しい誕生を迎えようとしているんだからな」

「な……何を言ってるんですか⁉ さっきから、全然、意味が分からない……頭おかしいんじゃないの⁉ このままじゃ、錬司くんが……」


 そう言い掛けた未散の口を、顔ごと、竜成の左手が覆った。指の隙間から髪の毛が僅かに覗く程度で、何を握っているのか分からなくなってしまいそうだ。竜成の、何もせずとも巨大な手は、それだけで人間の少女の頭を、豆腐のように握り潰してしまえるに違いない。


「や……やめ、ろ……」


 錬司が立ち上がろうとした。片腕がなく、重心が異なっているので、歩く事さえ困難だ。


 竜成の手から、少女の身体が生えている。未散の身体は、暫くもぞもぞと抵抗の意思を見せていたが、やがて鉤爪状にして反り返らせていた手からふっと力が抜け、糸の切れた操り人形のように垂れ下がった。


 錬司の中で、何かが切れた。激しい怒りが脳幹から放出され、噛み締められた奥歯が発する電流と和合して、プラズマが少年の肉体の中で爆ぜた。Σの底に宿る龍の力が、螺旋となって少年を駆け巡ると、その肉体に大きな変化が現れた。


「うぐ――があぁぁ……ッ」


 錬司は左腕から、右手を退かした。竜成に奪われた左肘の断面――ねじれた肉と骨が、更にその方向にひねられつつ盛り上がり、肉と骨の混じり合った、まだらの蕾を生じさせる。ビデオの早送りのように成長してゆく肉の蕾は、錬司が失っていた左腕の長さを超え、垂直に立っているだけで地面に落ちる程に肥大化した。


 その表面の色が、段々と浅黒くなってゆく。肉螺旋の表面が見る見る角質化してゆき、小さな無数の棘を作り出しているのだ。その棘によって硬質化した蕾の先端が、コンクリートに突き立った。そして、そのコンクリートから逆さまに生えた肉花の蕾が、今度は逆向きに回転しながら、開き始める。


 ぱきぱきと乾いた音を立てて繊維が剥がれてゆくと、その隙間から粘着質な液体がこぼれ始めた。勝手に開いてゆく肉蕾の内側に尾を引く白く濁った体液。蕾が開き切った時、錬司の左腕は、瑞々しく艶めく、生じた鱗を刃のように鋭く尖らせた、通常の二倍の長さのものに変わっていた。


「それで良いんだ」


 竜成がうっとりとした様子で言う。未散の身体を足元に落とすと、錬司に向かって歩を進めた。


 錬司は激痛と憤怒に眼を赤く潤ませながら、歩み寄って来る竜成に対し、飛び掛かってゆく。手にした凶悪な巨腕を、袈裟懸けに打ち下ろした。


 敢えて避けず、竜成は腕でガードした。自分よりも高い位置にある竜成の頭を、ほぼ横から薙ぐようにして襲って来る錬司の腕は、ブロックした竜成の右腕の表面をこそぎ取ってゆく。


 錬司の左腕は、振り抜いた勢いのままに身体の右側に落下した。ずぅん、という衝撃と共にコンクリートが陥没したが、同時に、錬司の腕も、中頃より手首寄りの部分から先が、変な方向に曲がっていた。


「けぁっ!」


 錬司は左腕を右手で支えながら、腰を振り出した。左足で斜めに踏み込み、右足で身体を支え、腰をぎゅるりと回転させると、砕けた巨腕が唸りを上げて竜成に迫る。今度も竜成は避けなかった、ガードさえしなかった。竜成の脇腹に、錬司の腕刀がぶち当たる。


「ぬぐ――」


 ここで初めて、竜成が小さく唸った。錬司の折れ曲がった腕の先端が、竜成を打撃した瞬間に内側に反れ、腰の辺りを直撃した。それだけでなく、釣り針のような形状に変化した指先が、竜成の腰に喰い込んで離さなかったのである。


 ちぃ――と、舌を鳴らしながら、竜成が錬司のボディに前蹴りを喰らわせた。竜成の腰の肉を、シャツの繊維ごと引き剥がし、前面に回り込んで巨大な引っ掻き痕を作りながら、少年が飛んでゆく。


 巨大な左腕の為、錬司の身体は余計に回転しながら吹っ飛ばされる。だが、その先で、左腕の先を入場ゲートの屋根に引っ掛けると、飛ばされた勢いを利用して屋根の上に跳ね上がった。猿が枝から枝を伝うような、軽やかな動きである。


「愉しくなって来たな」


 竜成は、腰から臍の辺りまでを伝う傷を、左手で撫で上げた。どろりとした血液が、既に硬くなって掌にこびり付く。その赤い手で顎を擦り、顔の半分に血の化粧を施すと、すっと身を沈め、たわめた膝を解放した。巨大な身体が嘘のように跳ねて、錬司のいる場所まで到達した。


 錬司が横に跳ぶ。直前まで、その足があった場所に、竜成のブーツがストンピングをかます。屋根が大きく陥没した。しかし竜成はそのまま落下する事なく、横に逃げた錬司を追う。


 錬司は、ジャンプした竜成に、横から左腕を叩き付けた。竜成は、何と空中で身体をひねって錬司の腕を回避する。体操選手が見せる動作であるが、ジャンプの途中、しかも竜成のような巨体がそのように動くとは信じられなかった。そして竜成は、既に次の攻撃に移っている。


 錬司の顔面を、強力な風のようなものが叩いた。再び入場する事となった錬司は、落下の瞬間に回転して身体の側面をコンクリートに擦り付けながら体勢を立て直すと、竜成の攻撃の正体を理解した。

 竜成の背面に、鞭状の武器――ナックルボールにも存在していた尻尾が出現しており、それが錬司を襲ったのだ。

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