第六章 王冠
Part1
鉄の棺桶の中に、その男は眠っていた。特注の棺には、常に冷気が送り込まれ、その男の肉体が、それ以上細胞を死滅させてしまうのを抑え込んでいるのだ。
身体の大きな、老人であった。箱の一部に四角い孔が開けられ、その上にガラスのカバーが被されている。冷気に曇ったガラスの内側に辛うじて見える老人の顔には、斜めに分断するように傷が走っている。その傷は顎の先にも続いており、胸の辺りまで伸びているのではないだろうか。
その鉄の棺――冷凍保存装置を、一人の女が見下ろしている。胸元に車輪のマークが刺繍された白衣の上に、防寒ジャンパーを着て、厚手の手袋を付けている。髪は長いが、花果摩耶だ。
ホイル製薬の生化学研究所――α計画を始めとした、身体能力強化人間製造計画が行なわれていた場所である。その地下に設けられた冷凍室だ。
男の名前は蓬田竜成。元々は十種競技の選手であった。小学生の頃から体格が良く、天性の運動能力に恵まれ、中高と同年代の記録を塗り替え続け、有名国立大学から推薦を貰っている。実際、竜成は国内トップのエリート大学に入学したのだが、これは推薦ではなく、一般入試を受けての合格であった。竜成は学力の面でも優れており、高校の頃には模試で全国一位を取っている。
研究室では生物学や遺伝子工学について専攻する傍ら、考古学や宗教学、美術、音楽の面でも才能を発揮した。運動面では十種競技に加えて、中学から始めた柔道や空手の大会にも出場する事も多くなり、その人間離れした能力は、竜成に注目を集めさせた。
その時に出会ったのが花果摩耶であった。摩耶は竜成と同じ研究室で、同じ題材で実験を行なう事が多かった。万能細胞と呼ばれる、外部からの刺激によって形状を変化させる細胞の実用化を目指して、研究をしていた。
他の学生たちと遊んだり酒を飲んだりする事なく、研究と競技にのみ没頭した竜成は、ただ一人の仲間であった摩耶と自然と恋仲になり、卒論を提出し、大学院に進んでから間もなく、卒業したら一緒になる事を約束した。
ホイル製薬から声が掛かったのは、その頃であった。
“二人の論文を読んだ。是非、自分たちの所で研究をして欲しい”
そういう話を受けて大学院を出ると、ホイル製薬に就職する事になった。
住む場所や、着る服や、食事など、生活に必要なものは全て会社が用意してくれて、研究の為にもあるだけの資金を使う事が出来る。二人にとっては夢のような職場であった。
α計画は、その二人の研究を応用したものだ。二人には、単に身体能力を復元、補助、或いは拡張する為の実験だという事だけを教え、生体兵器としてのαの事は秘密にしていた。
幾たびもの動物実験を経て、とうとう人間を被検体にした実験が行なわれた。その副作用……ホルモンの異常分泌による細胞の暴走によって、人体が変化するというβ作用が露呈し、二人が実験の中止を訴えると、研究者たちはα計画の実体について開示した。
多くの失敗例の中から生まれた、選び抜かれた成功事例であるα・アルフォースは既に実戦に投入されており、摩耶たちが戦争による殺人の片棒を担いでいるという事実を突き付け、のっぴきならない状況に追い込んだ。罪悪感で、二人を縛り付ける為だった。
その時期から竜成は変わった。実験に寧ろ積極的になり、今まで以上に肉体に負荷を掛ける鍛錬を行なうようになった。竜成は人間の域を超え、完成度の高いαであっても歯が立たない程の身体能力を手に入れた。
Ψ計画が提唱され、その欠点が明るみに出ようになり、Σが開発されるようになると、竜成は自らその被験者に名乗り出た。
竜成の狙いは、究極の兵士であるΩとなる事で、自分たちを騙して兵器の研究をさせていたホイル製薬、そしてその上にいる死の商人たちを皆殺しにしようと画策したのだ。竜成が実験に積極的であったのも、摩耶がそれまで告発の機会を見送ったのも、全てはその復讐の為だ。
だが、竜成はプロトΣに適応する事が出来ず、命を落とした。竜成はプロトΣによる細胞の過活性によって異常な細胞消滅と分裂を繰り返し、それを一時的にではあっても停止させるべく液体窒素を浴びせられてコールドスリープ状態に入ったのである。あっと言う間に老化した姿で眠り続ける竜成は、その後も貴重なサンプルとしてデータを提供させられる事となった。
摩耶は竜成のデータから新しく造られたΣと、Ω発動の鍵となるテンプレート、強化人間計画のデータを持ち出して、逃亡を図った。本当ならば、コールドスリープに入った竜成を殺してから逃げ出す心算だった。だからこそ、逃亡の前に冷凍睡眠装置の前に訪れたのだ。だが、出来なかった。摩耶は他のチェンバーで待機していたαやΨのみに打撃を与える細工をして、ホイル製薬の研究所を脱走した。
この一件と、一般人である竜胆錬司との交通事故という不祥事が続いたホイル製薬は、親会社に研究室を停止させられていた。しかし、秘密裏に進行していた新しいΣの研究は、蓬田竜成の蘇生という形になって現れたのである。
では、何故、竜成は、ホイル製薬の刺客として、錬司を狙うのか――愛した女である摩耶を傷付けたのか。
竜成の拳が唸り、錬司のボディに打ち込まれる。両腕を身体の前で重ね合わせて受けるが、単純なパワーと体格で劣る錬司は、後方まで吹っ飛ばされてしまう。
宙を舞う錬司の身体は入場ゲートを潜り、駐車場に投げ出された。コンクリートの地面に落とされ、生け垣に突っ込んで、全身の小さな緑の葉っぱを絡ませ、枝でシャツや皮膚を切りながら、停められた車の前に転がった。
怯える係員の横を、ずんずんと歩いてゆく竜成は、錬司と生垣を挟んで対峙すると、近くの地面から生えていた車止めのポールを掴んだ。並べられたタイルの中に打ち込まれた白銀の楔を、竜成は片方の掌だけで包み込んでしまうと、
「むぅっ」
と、力を込めて引き抜いてしまった。ぽろぽろとこぼれるタイルの破片を落とし切ると、そのポールを錬司の身体に振り下ろそうとした。
錬司は横に転がって逃れるが、生け垣と、それまで錬司のいた地点に、巨大な亀裂が入っていた。当然、ポールもいびつに曲げられて、熱を反射しながら吸収する銀の表面はひび割れる事となる。
使い物にならなくなったポールを投げ捨てた竜成は、逃げた錬司に近付いてゆくと、立ち上がろうとする少年の頭部目掛けて、丸太のような足で蹴り付けてゆく。
ガードしても、錬司は文字通りサッカーボールのように打ち上げられ、誰のものとも分からない乗用車の屋根に落下した。屋根は凹み、その所為で窓ガラスにひびが入る。
「やめて、竜成……」
弱々しい声がした。見れば、ゲートから、未散に肩を貸された摩耶が声を上げている。
「もうやめて⁉ 何故……どうして貴方が、彼を狙うの?」
「ふん……」
竜成は肩越しに冷たい微笑を浮かべた。摩耶と付き合っていた頃、一度たりとも浮かべた事のなかった表情だ。どういう性質のものであれ、竜成が浮かべる笑顔は、常に陽射しや炎の温度を保っていた。その氷のような微笑みは、一度、死に瀕した肉体を冷凍保存されたというだけでは説明が付かない。
摩耶に意識を向けた竜成に、錬司が躍り掛かる。膝に真横から蹴りを叩き込んで、関節を破壊しようとした。
だが、錬司の蹴りは直撃したにも拘わらず、竜成の肉体はびくともしない。錬司の脳裏に浮かんだのは、テレビでしか見た事のない千年の時を生きて来た大樹だった。
竜成は無造作に手を伸ばし、錬司の頸を捉えた。錬司の体重が、決して重量級でない事を鑑みても、竜成自身の頭よりも高い位置にまで、片腕で持ち上げるのは驚異的な膂力という他にはない。
虚空に浮かされた身体を、錬司は竜成に掴まれている頸だけで支える事になるが、それではいつ頭骨が頸骨か外れてもおかしくない。錬司は竜成の手首を掴み、頚椎に掛かる負担を減らそうとした。
「竜成! お願い、もうやめて……! 彼は仲間よ、一緒に、ホイル製薬と戦いましょう⁉ 貴方はその為に蘇ったんじゃないの⁉」
「ふふん、笑わせるなよ、摩耶」
竜成は、摩耶に背中を向け、空に掲げた錬司に向かって語った。
「あれは酷い女だぜ、坊や。何せ、俺たちが化け物になるのを、楽しんで研究を続けていたんだからな」
「な――何を言うの、竜成⁉」
「何故、あいつがα計画を知った時点で、会社を告発しなかったか分かるかい。何故、Ψなんていう化け物を許容したのか……何故、Ωという究極の兵士を造るのに協力したのか……」
「……っ、……!」
錬司は答えられずにもがいていた。咽喉を掴まれているのだから当然だった。
「簡単な話さ。要は、楽しかったんだよ、α、Ψ……そしてΩ計画に携わるのがな。自分たちの手で、人間が、人間以上の存在に変わってゆくのを見るのに興奮して、股まで濡らしていたんだ」
竜成は錬司を解放した。地面に尻もちを付いた錬司は、息苦しさから解放され、空気を求めて重い音の呼吸を繰り返した。
「そんな事……花果さんは、そんな人じゃない……」
掠れた声で錬司は言った。摩耶は、錬司の身体にΣを移植した事を後悔していた。その為に錬司が普通とは違う力を手に入れてしまった事を。自分の過失の所為で、錬司を日常生活から切り離してしまった事を悔いていたのだ。
そんな彼女が、人間を人間ではなくさせる研究を楽しむ訳がない。
「貴方に、どうしてそんな事が言えるんだ!」
錬司の言葉を、竜成は冷笑した。
「分かるさ、俺がそうだったからな」
「――」
「摩耶と俺は同じだ。優れた能力を持って生まれた故に、誰にも理解されなかった。だが俺たち同士は通じ合った、お前たち凡人には分からないだろうがな。俺は摩耶の事なら、ほくろの数から
「――」
「口ではどんな事でも言える。俺たちだっていっぱしの道徳観や倫理観は持ち合わせている。そいつに沿った言動や思考をするなんて簡単さ、凡人を装う事なんて訳ないぜ。だからな、同時に分かるんだよ、俺たちは狂人だってな。人間の細胞をこの手でこねくり回し、別のものを創造する事が出来る、その悦びを……その狂気の深淵を見る事を許されたのが俺たちだ」
「――」
「誰だって今の自分を変えたいと望んでいる、
「――」
「それを受け入れる一方で、俺にも人並みな所があったらしい。俺を裏切って、実験材料にしたあいつを許せないって思いだ。だから、
全てをこの世界から消し去ってやる――
竜成は唇を歪めてそう言うと、錬司に拳を叩き付ける。両手と両足で地面を蹴って、パンチから逃れる錬司に、竜成は素早く追い縋った。錬司が繰り出すパンチや蹴りを全てガードしてしまうと、竜成は伸ばした手で錬司の左手を掴んだ。
「見せてやろうぜ、兄弟。あいつが何を産み落としたのかを……」
「何⁉」
竜成は錬司の手首に対し、掌の力を全て注ぎ込んだ。錬司の左手首は、軋む暇さえなく、竜成の手の中で粉砕された。錬司が、大量のエンドルフィンやアドレナリンでも掻き消す事の出来ない痛みに悶絶する――その時間さえ、巨大な死神は与えない。
竜成は錬司の左手を潰した右手を手前に引き、前腕を錬司の前腕に沿わせ、肘を逆関節に折り曲げた。錬司の腕が、通常ならばありえない山なりを作る。鶏の手羽を引き抜く音がした。
それだけでは終わらなかった。竜成は左手で錬司の上腕を掴むと、ひねりを加えながら錬司を放り投げた。錬司の身体が宙でくるりと回転し、地面に叩き落される。その時、蒼い空に向かって、赤い噴水が迸った。おぞましい調べが噴血と共に奏でられる。
「ひ……⁉」
言葉を失っていた未散が、咽喉を引き攣らせた。錬司の身体が、風に吹かれるコーラの空き缶のように、茶褐色の液体を撒きながらやって来たからである。未散はその光景に腰を抜かして地面にへたり込み、彼女に支えられていた摩耶も同じく崩れ落ちた。
「れ、れん、錬司……くん、う――うで……腕が……」
錬司が立ち上がろうとしている。だが、どういう訳か、身体を支える事が出来なかった。どうしても、錬司は左側に傾いてしまうのだ。どうにか膝で支えて身体を起こす事は出来ても、その時は右側ばかりがやけに重く、そちらに手を突いてしまう。
錬司にはその理由が分からないようだった。自分が立てない不思議と、迫る竜成から未散と摩耶を守らねばという焦りが、現実を見つめる力を奪っていた。
「くぅぅぅぅっ」
錬司は腹から声を出し、力を振り絞った。膝をみりみりと軋ませながら直立する。竜成がその様子を見て、感心したように太い笑みを浮かべた。錬司は竜成のボディに、拳を放った。だが、錬司の身体はくるくるとその場で回転し、竜成の足元に無様に転倒した。
その時、竜成は錬司の前にそれを差し出した。棒状をした、肌色の何かである。錬司は最初、それが何か分からなかった。しかし、激痛を和らげ、思考をクールダウンするホルモンがΣから分泌されると、その正体を知ると共に、自分の身体の異変を理解していた。
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