第五章 覚醒
Part1
駅からでも、蒼い空に浮かぶ観覧車の姿が良く見える。この辺りには高いビルなどがない事もあって見通しが良く、海の風が道路や街路樹の間を突き抜けて吹き付けて来ていた。
夏休みと言うだけあって、平日であるが駐車場には空きスペースの方が少ないくらいで、幾つかある入り口の入場券販売窓口は様々な人たちでごった返していた。
親子連れ、カップル、友人グループ、外国人観光客……という数々の組み合わせの中に、錬司と未散の姿もあった。
錬司は、黒いシャツにデニムのズボンを合わせている。シャツは新しく買ったもので、今まで錬司が来ていたものであると、発達した少年の身体には小さかった。腰に財布やペットボトルくらいのものを入れて置くポーチを巻いており、それとは別に、薄手のパーカーを持って来ていた。
未散は、上下をデニムで揃えている。蒼い七分丈の上着に、ミニスカート。胸ポケットの前にキャラクターものの缶バッジを安全ピンで留めている。インナーには黒地に、煌びやかな英文とマスコットキャラクターが刺繍されたシャツを着ていた。白と蒼の水玉柄のハイソックスを履いており、スニーカーも白と蒼を基調としたものである。同じ色遣いのヘアバンドを付け、前髪が眼に掛からないようにしていた。
夏休みに入っている。お盆前、未散の部活がなく、錬司が助っ人を頼まれていない日に、二人で遊園地に遊びに来ていた。
電車で数十分ばかり揺られてやって来た。最寄駅から二、三駅は、殆ど人が乗り込んで来なくてがらがらだったのだが、四駅目を越えた辺りからじわじわと人の数が増えて来て、遊園地の近くの駅で半分以上の乗客が降りた。
地元の人間ばかりではなく、東京などの都会からもやって来る者が多いように見えた。
「春は、もっと凄かったらしいね」
錬司の妹の中学生に間違えられながらも、慣れていると言った様子で訂正した未散が、手を繋いだ錬司と共に入場ゲートを潜りながら、言った。
「春?」
「ゴールデンウィーク。綺麗な花が、丘にいっぱいに咲くのよ」
入り口の前で配っていたパンフレットを、未散が錬司に見せた。
海沿いの丘には、季節ごとの花が植えられる。ゴールデンウィークに直撃する春から初夏に掛けては、ネモフィラの蒼い花が咲き誇るのだ。
「凄いね」
写真ではあるが、盛り上がった海のような蒼い花に、錬司が息を漏らした。夏から秋に掛けての季節はコキアが緑から赤に色付いてゆくが、ネモフィラの咲く春の方が、錬司は好きだった。
「さ、行こっ」
未散が言った。
ゲートから少し歩くと、アトラクションのある小屋や、メリーゴーランド、ジェットコースター、観覧車などが集中したエリアになっている。それらを横に見つつ進めば、広い草原が視界に飛び込んで来た。親子でサッカーをしていたり、大学のサークルか何かでシートを広げていたりする草原を突っ切ってゆくと、人がたっぷりと集まった、花の咲く丘に行き付いた。
「ひゃあ、凄い人……」
未散が口に手を当てた。
盛り上がった丘には、蛇のように曲がりくねった坂道が作られていて、その麓には焼きそばやお好み焼き、アイスなどを売っている店が出ている。買ったものを落ち着いて食べる為の木のテーブルやベンチが用意されているが、その何処を見ても、人でいっぱいだ。人の頭が連なって、花の丘を登っては、反対方向に下ってゆく。
「はぐれないようにね」
錬司が、未散の手を強めに握った。未散が頷きながら、手を握り返して来る。
二人は、人波の中に、歩き出して行った。
あれから――
摩耶と言い争いになり、その話が決着を見ない内に、角鱗会と田上たちに拉致され掛けた未散を助けに向かってから、錬司の人間関係に大きな変化が訪れた。
先ずは、未散と結ばれた事だ。
田上に角鱗会の車に連れ込まれた未散を安心させるべく、錬司は彼女を抱いた。優しく頭を撫でながら、慰めと愛の言葉を囁いてやり、お互いを堪能した。
事故から蘇り、暴力団の手から少女を救い出す程に成長した錬司に、未散の心は惹かれていた。その錬司から、自分の事を好きだったと告白され、未散は彼に身体を許したのである。
その直前、摩耶と彼との関係を邪推したが、そんな思いさえも塗り潰す程、錬司は未散を愛した。
高架下に、壊れた車と、倒れた田上たちを放置して、二人でホテルにゆき、そういう事になった。
一晩、二人は家に帰らないという事になったが、未散の両親には、彼女が角鱗会に誘拐され掛けた事と、錬司が彼女を救出した事を合わせて、二人が交際を始めたと告げている。
錬司が家に戻ると、誰もいないリビングに帰宅した母からの書置きが残っていた。
“あんたに女を連れ込めるだけの甲斐性があって、母親としても嬉しい限りです”
そういう文章であった。
錬司は未散の事を知っているかも怪しい母が、どうして自分と未散がそういう関係になった事を知っているのかと驚いたが、そうではない事に気付いた。
摩耶だ。
摩耶の洗濯の終わった下着か何かを、母は見たのである。それで、錬司が女性を家に連れ込んだのだと解釈したのだ。
そして同時に、昨夜、言い争いを中途にしてしまった摩耶の事を思い出し、彼女が家に戻っていないのに気付いて、家を出た。摩耶を探す為だった。
その日の夜まで、錬司は町中を駆けずり回って、摩耶の姿を探した。
見付からなかった。
日が暮れて、家に帰ると、ポストの中に一枚の手紙が入っていた。
“貴方を巻き込んでご免なさい。お世話になりました。
花果摩耶”
それだけ、書いてあった。
錬司は胸にぽっかりと孔が開いたような気分だった。
摩耶に対して、未散に抱いていたような感情はなかった。だが、自分の所為で錬司が事故に遭った事や、Σを移植して普通の人間とは違う身体にした事を悔やみ、淡々としながらも献身的に錬司の生活をサポートしてくれた。そんな摩耶に、友情や愛情という普遍的な言葉では言い表せない、不思議な絆を感じていたことは事実だ。
その彼女と最後に交わした会話が言い争いだったというのは、とても哀しい事だった。
しかも、摩耶は錬司が憎くてなじったのではない。錬司自身の気持ちが本物か、それを確かめるべく厳しい言葉を使ったのだ。
それなのに錬司は、摩耶が一番言われたくない事を――少なくとも錬司にだけは言って欲しくなかった事を、言ってしまった。錬司にはその言葉を言う権利はある。だが、正論であると考えられる事でも、それまでの摩耶の心情を鑑み、その行動を見れば、錬司は絶対に口に出してはならない事であった。
ましてやあの言葉は、錬司の本心ではなかったのだ。
以前、摩耶が錬司に、Σを移植した事を謝罪した時、自分が摩耶に感謝している旨を告げた。
結局、Ψナックルボールの乱入に遭って、摩耶にその真意を伝える機会はなくなってしまった。
錬司はあの時、摩耶に、自分を救ってくれた事――それ以上に、自分にΣの力を与えてくれた事を、感謝していたのだ。
何故なら、Σを得て、錬司はそれまでの自分と決別する事が出来た。
いつも背骨を曲げて、自信なく過ごして来たのに、ぴんと背筋を伸ばして、この上ない恐怖の対象であった田上にも怯える事がなかった。
それがΣの影響で、Σを与えてくれたのが摩耶であれば、摩耶のお陰という事になる。
摩耶が錬司の傍にいたのは、責任感からだ。自分の行動が結果的に錬司を危険な目に遭わせ、しかも兵器として開発されたΣを、一介の高校生である彼の身体に埋め込んでしまった。その責任感は、しかし、錬司が得た自信や力からすればお釣りが来るくらいだ。
偶然ではある。
肉体が、戦争の為の武器に作り替えられてしまったという怖さはある。
けれど、今までの弱い自分を変える事が出来たのだ。その要因となった摩耶に感謝こそすれ、憎んだり、怨んだりする事は、出来ない筈だった。
それなのに、一瞬の苛立ちからあんな言い争いになってしまい、言ってはならない言葉を言ってしまい、そしてそのまま別れてしまった。
錬司はその事を、後悔していた。
「錬司くん?」
未散が、ソフトクリーム越しに顔を覗き込んで来た。
コーンの上でとぐろを巻いているのは、薄い紫色のソフトクリームだ。葡萄ヨーグルト味。
「あ……何?」
錬司が訊き返した。
花の丘を登って、中腹の広場にある鐘を鳴らした。海が見えるように建てられた一対の柱の上端に、梁が渡されて、そこから鐘が吊るしてある。紐を引くとからんころんと鐘が鳴り、それが何やら縁起が良いとかで、登って来た者がどんな意味があるかも分からず鳴らすのに並んだりする。
普通は、一人ずつ紐を引き、それを一緒に来た誰かが写真に撮る事が多いのだが、一人では紐に手が届かない子供や、敢えて二人で鳴らしたい者は、親や友達や恋人と一緒に紐を手に取る。
錬司と未散は、後ろに並んでいた若い女性にスマフォを渡して、二人で鐘を鳴らしている後ろ姿を、写真に収めて貰った。
画面の中心には、背の高い少年と背の低い少女が、柱と梁の作る枠の中で背中を向けている。左右には天と地と海とが分かれていて、蒼い空と蒼い海、丘に咲く花がフレームに入っていた。
「ここが残念よね」
と、未散が言っていたのは、海辺のクレーン車などの事だ。無限にも見えるような広がりを見せる海の、丘から見下ろす浜との境目に、何の工事をするものか重機が運び込まれ、足場が組まれている。彼らにも仕事があり、依頼をされてやっているのだろうが、些か景観を崩していると言えなくもない。
丘を頂上まで登り切り、遊園地の敷地内を見渡した。広がる草原の向こうに、人工的なアトラクションの集中した地帯がある。自転車の走るコースが作られているのが見える。園内をゆっくりと走る汽車型の遊覧バス、イベント会場となっている大きなホールなど。そして、頂上を目指して登って来る人間たちの波と、逆方向に下ってゆく人の群れ。それらを一斉に見下ろす事が出来た。
錬司と未散もその群れに交じって丘を降り、麓のベンチに腰を落ち着けたのだった。
出店で、昼食を買った。
県産の豚肉を使った焼きそばと、イカの入ったお好み焼き。相場にしてみれば少し高いラーメンに、たこ焼きや、大判焼き。コロッケ、メンチカツなどの揚げ物もあった。
「こんなに美味しそうなんだもの、ダイエットなんてする人の気が知れないわね!」
錬司程ではないにせよ、その小さな身体にぱくぱくと吸い込まれてゆく食事の量を見て、少々ぽかんとしていた錬司に、未散が言ったのだ。
「ほら、あんなに細い女の子より、私の方が可愛いでしょう?」
未散は眼に付いたスレンダーな女性を差して、錬司に言った。身長もあって顔立ちも整っているが、ミニスカートから伸びる脚が妙に細い。やたらに腰が括れてしまっていてモデル体型だが、そう言うよりは、体調の悪そうなマネキンと言った具合だ。
錬司は勿論と頷いた。他の女性に触れた事はないが、未散のもちもちとした身体は、それを経験してしまってはもう逃げられない。
大量に栄養を摂るようにΣに指示されている錬司は、それらを平らげて、出たごみを捨てにゆく帰りに、デザートとしてソフトクリームを買って来た。未散が練乳いちご味で、錬司が葡萄ヨーグルト味だ。
そのソフトクリームを食べている時に、未散が声を掛けて来た。
「何だか、ぼーっとしているけど……」
考え事? と訊かれて、錬司はどきりとした。摩耶の事を考えていたのだ。
ご飯を食べている時ばかりではない。丘に登っている時も、草原を歩いている時も、それ所か夏休みに入ってから、ずっと摩耶の事を考えている。
自分が摩耶を傷付けてしまった……それをずっと後悔している。
摩耶の言い方が鋭過ぎたとか、幾らなんでも唐突だったとか、摩耶を悪い事にして自分を正当化する為の言い訳を考える時もある。しかし、摩耶に感謝している自分が、摩耶を貶める言い訳を考えていると気付いて自己嫌悪に陥り、又も自分を正当化しようとする――そのループに陥っていた。
未散という自分の恋人の前で、別な女の事を考えるとは、何と不誠実な事かと思う。一方で、摩耶との間にあんな諍いを起こしっ放しにしてしまった自分が、未散と付き合っているのは単なる現実逃避なのではないかとも思う。
肉体は未散の事を愛していると叫ぶのに、心の片隅にいる摩耶がじわりと膨らんで来る。
そんな自分を見抜かれたようで、胸を鋭い針で刺されたような気分になった。
「ううん、何でもないよ」
「そう? じゃあ、お腹いっぱいになって、眠くなっちゃったのかな?」
未散は、ふふっと、悪戯っ子のように笑った。
「レジャーシートは持って来たから平気だよ? あっちで少し寝る? 膝枕して上げる!」
未散に手を引かれ、ベンチから立ち上がる錬司。
そうして二人で草原の方に向かう。
「――良いご身分だな」
と、そう声を掛ける者があった。
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