Part2
背の高い男であった。
錬司よりも、一回りか二回りは大きい。一九〇センチ近くあった。
しかし実際のサイズ以上に、遥かに巨大に見えたのは、その肉の分厚さが、少年を凌駕する為だ。
錬司と同じように、黒いTシャツに、デニムのパンツという格好をしている。だが、その胸元は張り裂けそうに膨らみ、巨大な岩をそのまま胴体に被せたような肩から、太い樹の切り株に粘土を盛ったような腕が伸びていた。ズボンは特注のようで、裾が未散のシャツの裾くらいはあった。それなのに、太腿の位置は中から張り詰めて、内腿が触れ合って股間に隙間を作らせない。
登山用とも見える分厚いブーツを履いていた。スニーカーでは、男の、多分一〇〇キロは超えているであろう体重を支え切れないのだ。
樽型の括れのない身体であるが、決して肥満体型ではない。脂肪は巨大な筋肉の上に薄く被さる程度に留められていて、数字にしてみれば錬司の方が太っている。
Ψナックルボール程の極端さはないが、頸と肩との境目が分からない。頸が異様に太く、その上に四角い顎が載っていた。
貫禄はあるものの、若々しい顔だ。少なくとも三〇歳には達していない。厚ぼったい唇には薄く笑みが浮かび、左眼は瞑っているが、ぱっちりと見開いた右眼には純朴そうな光が宿っている。
これだけで充分に目立つ容姿である。その上、男には、顔を斜めに分断するような特徴的な傷が付けられており、しかもそれは、頸に掛けて伸び、更にシャツの下にまで潜り込んでいた。
少なくとも顔から胸の辺りまで、その傷は続いている事になる。
その男が、錬司に対して声を掛けていた。
「し……知り合い? 錬司くん……」
不安そうな面持ちで、未散が錬司の背中に隠れた。自分よりもずっと大きな相手に対し、恐怖を覚えるのは自然な事である。ましてやそれが、日常から切り離されたような存在感を放っていれば尚更だ。
「いや……」
錬司が首を横に振ると、男は唇の端を吊り上げた。
「酷い事を言うなぁ、兄弟……」
「兄弟⁉」
「そうさ、俺たちは、言うなれば兄弟みたいなモンだろう、なぁ、兄貴……」
巨大な男は言った。
錬司は、その言い方と男の存在感から、彼の正体を察した。
「ご免、未散さん、少しこの人と話したいんだ。向こうに行っててくれるかな」
戸惑いながらも、未散は頷いて、錬司の事を気にしつつも草原に向かった。
錬司は男に向き直り、
「α……いや、アルフォース、ですか?」
身体能力強化人間――それがαであり、アルフォースの正体だ。それらは、Ψと共にΩの前身である。この男がαであるなら、Σを内蔵し、テンプレートを噛む事によってΩとなる自分を、兄弟と呼ぶ理由も分かる。
「違うな」
「違う? じゃあ……」
では、何なのか。錬司の問いに首を横に振ったのであれば、この男はαやアルフォースについて知っているという事になる。そうなると、益々この男の正体が分からない。このような外見にならば、才能は必要でも、鍛錬を積む事でなる事が出来る。男にはそれだけではない、Ωである錬司に近しい匂いが感じられた。
「Ψ⁉」
錬司が言うと、男は呆れたように笑った。
Ψである筈がない。Ψは、コンセプトからして、人間とはかけ離れた姿でなければいけない。それに、ヒトの言葉を話す事が出来ても、人間として会話をする事が困難である場合が殆どだ。この男は、明確な意思を以て、錬司と会話をしている。
摩耶から、αとΨの実働部隊である一一体の事は聞いている。その内の二体のΨは摩耶が脱走前に重傷を負わせ、彼女を追跡した二体は錬司に斃された。三体のαと一体のΨは、中東に傭兵として派遣されているが、人の姿を留めている一体のαの他は、怪物然とした容姿をしているという。
摩耶の追跡と、Σの奪還を任命されたのは、残る三体のΨという事になる。
巨漢は、そのどれとも違っている。敢えて可能性があるならば、中東のα部隊を率いているという人型のαだが、αではないと、男は自ら述べている。
「鈍いんだな、兄貴……いや、弟よ」
巨大な男は、ズボンのポケットに手を入れ、中に入れられていたものを握って、取り出した。チンパンジーのような手だった。その掌に、ケースが載せられていた。
馬のペニスのような指だ。勃起前の大きさの親指が、ケースのロックを外し、蓋を開けた。
中に入っていたのは、Ωの形をした、シリコンと針金で出来た物体だ。
テンプレート。
「まさか⁉」
「摩耶……と、名乗っていたらしいな。あいつから聞いてはいないのかい、この俺の事を……」
「花果さんから⁉」
「そう、お前さん以前に、Σを移植され、Ωとなった男の事さ」
「――」
「お前の持つΣの試作品だ。俺はプロトΣに適応する事が出来ず、拒絶反応を起こして、一度は死んだ。だが、俺の遺体は冷凍保存され、新しく造られたΣを得て蘇ったのだ。俺がお前を弟と呼び、兄と呼んだ意味が分かったか?」
錬司以前にΩになった男であり、そして、錬司がΩとなった後に造られたΣでΩとなった男――錬司Ωの兄であり、錬司Ωの弟である男だった。
「俺の名は、蓬田竜成。悪く思うなよ、兄弟――」
蓬田竜成は、口の中にテンプレートを放り込むと、奥歯を噛み締めた。彼の身体に移植されている新しいΣ――
蓬田竜成の巨大な身体に眠るパワーが、閃光のように弾ける。錬司は自身の身体を真っ直ぐに立たせているΣが、竜成のΣΤに呼応して震えているのが分かった。肌が泡立ち、血管の中を巡る液体が煮立ちそうになる。感覚がΩ状態の時のように鋭敏化され、全ての時が止まった感覚を味わった。
その凍て付いた世界の中で、黄金色に輝く巨大な肉体が駆けた。蓬田竜成は、錬司に肉薄すると、少年のボディに向かって巨大な拳を打ち上げた。咄嗟に両腕で胴体を庇った錬司であったが、竜成のアッパーカットに吹き飛ばされてしまう。
錬司の身体がぽーんと宙に浮き、五、六メートルは後ろに飛ばされて行った。
「何だ⁉」
「どうしたの⁉」
「喧嘩?」
「ショーかな?」
草原と丘の麓を繋ぐのは、一本の橋だ。橋は、歩行者と遊覧バスが移動するのと、自転車が走るのとで、二車線に分けられている。橋の下はサイクリングロードになっていた。錬司は、自転車と歩行者とを分ける橋の中央の花壇に落下する事となった。
その様子を見ていた周りの観光客たちが、錬司の異様な飛距離に驚いたのである。
「お前の背骨を引っこ抜いてやるぜ」
蓬田竜成はそう言うと、錬司の転がった橋に向かって歩を進めた。花壇から抜け出し、サイクリングのレーンに立った錬司は、ポーチからテンプレートを掴み出して、上顎に装着した。かちりと頭蓋骨と頸骨とが直線化し、ムーラダーラからパワーがせり上がって来る。
錬司は、時の止まった世界にいた。あらゆる情報を処理出来るように、大量の神経伝達物質が分泌される。だが、その時の世界は、いつもと違い、音も光もなくなっていた。
同じく凍て付いた世界を動き回る事の出来る、もう一人のΩがいるからだ。彼の情報を集めるのに錬司の肉体全てが必死になっており、その他の情報を全てシャットダウンしてしまう。
にぃ、と、蓬田竜成の唇が吊り上がった。
錬司は素早く右手に跳んだ。竜成の、閉ざされた左眼の死角から、攻撃を仕掛けようとしたのだ。
だが、出来るだけ身を沈めて、死角から膝を破壊しようとした蹴りは、竜成に呆気なく躱されてしまう。斜め下から跳ね上がった錬司の蹴りを、竜成は脚を持ち上げて避け、その足で錬司の胴体を蹴り付けた。
ごついブーツの踵が、錬司の脇腹を捉える。
今度は低空に錬司の身体が浮き、橋の手摺りにぶつかった。
背中を強打し、悶える錬司に、竜成が歩み寄る。ぬぅっと右手を伸ばして錬司の頸を掴むと、ボールでも放り投げるかのように、錬司を軽々と扱った。
錬司は集まった人の群れに落下した。突如として始まった超常的な謎の対決を、面白がって写真や動画に収めようという者たちだった。彼らは落下して来た錬司を避けながらも、少年と巨漢にカメラを向けるのをやめなかった。
「すげぇ!」
「頑張れぇ、男の子!」
「ファイトーっ!」
分かりもしないのに、アトラクションの一種だと思って応援する人々。錬司が地面に手を突いて立ち上がり、膝をかくかくと笑わせていると、身勝手なコールをし始める。
錬司の額から赤い液体が滴っていた。頸には竜成の太い手の痕が残っている。
「ギャラリーはお前さんの頑張りをご所望だ。さぁ、もう少し気張ろうぜ!」
竜成はそう言って錬司に躍り掛かる。ローキックを放った。錬司が真上に跳んで躱すと、虚空を丸太サイズの鉄塊が唸る音がした。
「うぉぉっ!」
錬司は空中から蹴りを繰り出した。竜成の頭を横から脛で薙ごうというのだ。それを、ひょいと顔を沈めて回避した竜成だったが、次の瞬間、その巨大な踵が、錬司の顔面を払った。身体を斜めに回転させて、右の後ろ廻し蹴りを放ったのだ。
蹴りを浴びた錬司の身体は、錐揉み状に激しく回転し、橋の地面に打ち付けられた。コンクリートの上に落下した錬司は、二度、三度とバウンドし、草原側の地面で漸く止まった。
そこに、赤いシルエットがやって来る。園内を一蹴する遊覧バスだ。バスは、眼の前に転がっている血まみれの錬司に気付いて、ブレーキを踏んだ。錬司の二、三メートル前に止まったバスの運転手が、窓から身を乗り出して、錬司に対して怒鳴り付けようとする。
竜成がその運転手の顔を掴んだ。頬を左右から圧迫され、ひょっとこになる。
「客を全て降ろすんだ。でなきゃ、お前の所為で何人も死ぬ事になるぜ」
蓬田竜成は低く言い、次に客席に向かって降りるように指示を出した。だが、運転手の事は降ろさなかった。
「お前は駄目だ、運転を続けろ。俺と坊やの貸し切りにさせて貰う」
竜成はズボンの尻ポケットから、ぱんぱんになった長財布を取り、その中から一万円札の束を抜き取った。帯封がされた、常人の指二本くらいの幅のある札束だ。その帯封とお札の間に、一番細い小指――それでもサイドブレーキの先端程の太さはある――を入れて、帯封を破り、運転手の口の中に突っ込んだ。運転手は涙目になって頷き、ハンドルを握る。
竜成は窓枠に左手を引っ掛け、左脚をバス側面の微妙な曲面に乗せると、運転手に走り出すよう指示を出した。眼の前には錬司がまだ転がっているが、運転手は構わなかった。
錬司がバスを避けると、その手首を竜成の右手が掴んだ。徐々に速度を増してゆくバスに、錬司は、竜成に手を引かれて付いてゆかねばならない。それくらいならΩとして不可能ではないが、竜成はその錬司を、片手でひょいとバスの屋根まで放り投げた。
落ちないように、屋根の上で姿勢を低くする錬司。その眼の前に竜成が登攀した。バスの上で、錬司と竜成が向かい合っている。
「楽しもうぜ、兄弟!」
竜成は血走った眼で錬司を眺め、豪快に笑った。
錬司の顔は出血と擦過傷で真っ赤に染まっている。擦り傷は全身に渡っており、服を着ていない所の表皮が花びらのように捲れ、服の内側にも内出血の痕を刻んでいた。だが、痛みは感じていない。苦痛を掻き消す高揚感と、憤怒を抑える冷静な感情を、少年は同居させていた。
「楽しむ心算はない……でも、あんたは潰してやる!」
錬司は吼えた。
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