Part2

 錬司が、二体目のΨを倒したのは、七月の頭の事であった。


 牡丹坂高校では、六月末から七月初めに掛けて、期末テストが行なわれ、それから間を置かずにクラスマッチという小規模の体育祭が執り行われる。


 男子、女子、男女合同で競技が分かれており、


  男子:一〇〇〇メートルリレー、バレーボール、サッカー

  女子:四〇〇メートルリレー、バスケットボール、ドッヂボール

  男女合同:大縄跳び


 が、その種目になっている。


 クラスマッチは、隣町の運動公園を借りて行なわれるので、そちらまで各自で移動する事になる。家から直接、徒歩や自転車、身内による送迎がある者もあれば、学校や駅から出るバスで向かう者もあった。


 錬司、摩耶、未散らは、駅で待っていた学校のバスに乗り、運動公園に向かう事になった。


 その運動公園に、Ψが潜伏していたのである。


 競技を行なっている間中、錬司は、何処からか自分たちを監視している視線を感じていた。各競技でスタメンに選ばれ、活躍していた錬司は、自分が出場しない女子の競技中に、こっそりとΨを探索し、そして発見した。


 運動公園には、芝生のグラウンドと、リレー用のトラック、そしてドーム状の体育館があり、Ψが錬司――正確に言えば摩耶になるのだろうが――を眺めていたのは、そのドームの屋根の上であった。


 白い、四対の翼をもったΨだった。

 蝙蝠がぶら下がるようにして翼を折り畳んでいると分からないが、胸の辺りが巨大に膨らんでいると見える一方、胴体は棒のように細い。


 両脚の筋肉が異様に発達しているのに比べて、両腕は酷く退化しているように見えた。ティラノサウルスのような小さい腕が、脇腹から生えていて、手首から先は鼠のそれに見えた。手の先は、牛の太腿を引っこ抜いて来たかのような赤い肉がホールドされており、それを、嘴で啄んでいた。


 摩耶によれば、高所に適応する為に肺活量を増している代わりに、体重を減らす為に内蔵が収縮しているのだと言う。太い脚は、飛行に必要な助走を付けるものだ。常に肉を食べているのは、身体の大きさに反して小さい胃袋に絶え間なく栄養分を取り込まなければ、すぐにスタミナ切れで活動が出来なくなるからだ。


 Ψイーグラットというのが、その個体のコードネームだった。


 鷲のような翼を持ちながら、鼠のように卑しくならざるを得ない習性を持つ為、そのように名付けたという。


 そのイーグラットを、錬司は密かに始末した。


 テンプレートを噛み、Ωとなった錬司は、イーグラットの空中戦に苦戦を強いられた。だが、食料を切らして体力が危うくなったイーグラットに対し、戦いの中で流した血を見せ付けてやると、鳥の怪物は錬司の肉を喰らおうとした。


 これにカウンターを合わせて、頸をねじり折り、細い胴体に手を突っ込んで、内臓を引きずり出したのである。


 栄養補給が出来なくなったイーグラットは、そこで絶命した。


 錬司は、そうして何でもない顔でクラスに戻り、チームの優勝を見届けたのだ。


 Ψが隣町にまで迫っていた事――


 摩耶は、それが偶然であると考えた。


 摩耶の居場所を、ホイル製薬は掴み切れていない。Ψたちは、監視されている研究員たちの指示で動いているのではなく、闇に紛れるように隠密な行動を強制されている。又、摩耶の匂いだけを覚えさせられて、何処にいるとも分からない彼女を探しているのだ。


 ナックルボールに関しては、摩耶が最後に確認された牡丹坂に送り込まれたとみても良いが、イーグラットの場合は、偶然の可能性が高い。


 だが、この場でイーグラットが死んだ事がホイル製薬に知られれば、残る三体のΨに新たな命令を与えようとするだろう。


 それを隠蔽すべく摩耶は、野良犬の身体にイーグラットの脳髄から取り出した人工知能を括り付け、遠い町に荷物を運ぶトラックにこっそりと乗せて、捜査を攪乱しようと考えた。


 それから半月程が経って、牡丹坂高校は夏休みに入ったのである。






 その能力の高さを示し始めてからの錬司は、頻繁に部活動の助っ人を頼まれていた。


 購買の弁当やおにぎり、サンドウィッチを助っ人の条件として同級生や先輩たちに奢って貰い、山のように積み上げられた食事をぺろりと平らげてしまう。


 幕の内弁当を掻っ込みながら、玉子でコーティングされたカツを噛み千切りつつ、ハムとキャベツを挟んで塩辛いマヨネーズをたっぷりと塗ったサンドウィッチを食べる。


 乱暴に包装を剥がしたおにぎりを、具の中身も見ないで口の中に放り込んでゆく。鮭、おかか、ツナマヨ、昆布、辛子明太子と様々だが、お気に入りは、ネギトロと、焼肉だ。ネギトロは、ねっとりとしたトロに、醤油の味が絡み、ワサビがつんと刺して来るのが好きだ。焼肉は、塩を振った韓国海苔で包まれていて、ご飯の中には甘じょっぱいタレで味付けした細切り肉が入っている。


 サンドウィッチは、具材を共有しながら、別の印象を持つものを楽しんだ。同じ玉子でも、オムレツを挟んだものと、ゆで卵を潰して挟んだものがある。ハム全体に辛子マヨネーズを塗ったものには輪切りの胡瓜が一緒になっており、左右からトマトとレタスで挟んでいるのは、三枚のパンを使っている。


 惣菜も美味しかった。レトルトご飯と一緒に、麻婆豆腐の辛さと、肉じゃがの和風の味付けを同時に楽しむ。天ぷらに付いて来た大根おろしを、パックに入ったシラスと混ぜて、寿司のセットに入っていた醤油を掛けて食べた。


 魚や蟹や牛肉の缶詰を、缶切りも使わずにめりめりと蓋を裂くようにして開けて、中身を掴み出した。口元を汚しながら、じゅるじゅると汁まで飲み干すのだ。長いソーセージをスナック菓子のように噛み砕いてゆき、ボンレスハムは歯で紐を千切ってごりごりと削いでゆく。


 濃厚な蜂蜜が付属しているヨーグルトを、プラスチックのスプーンで掻き混ぜる。バナナと一緒に食べた。フルーツは他にも、カットされた状態でパック詰めされたスイカやメロン、水道で洗って瑞々しく光る林檎、グレープフルーツは食べる部分を指で抉り出した。


 二リットルパックの牛乳を、三本開けた。飲み終わった内の一本は、口を広げさせ、一〇個で一パックの生卵を、三パック分、割り入れた。濁ったゼリー状の白身に包まれた卵黄が、牛乳パックの中に重なってゆく。それを、一気に咽喉に流し込んでゆくのだった。


 そこまでやって、錬司の昼食は終わる。


 六限まで授業がある時は、昼休みと放課後に半分ずつの食事をし、半ドンの日は授業終了と共にそれだけの量を消化する。


 食事を終えると、三〇分ばかりを、準備運動に費やした。

 最初の一〇分は、余り激しい運動はせずに、柔軟体操やマッサージをやる。


 次の一〇分で、校庭をランニングする。本人は緩々と走っている心算なのだが、他の生徒たちからすると充分に速いらしい。陸上部でさえ、ランニングとしては出さないスピードで一〇分間を走り続けるのに、その速度が緩まないのだった。


 最後の一〇分は、瞑想をやる。摩耶が教えてくれたヨーガのポーズだ。と言っても、片足で立ってその姿勢を維持したり、胴体をひねって足を頸に掛けたりする訳ではない。胡坐を掻いて、両手を左右に落とし、決まった呼吸を繰り返す事だ。


 それで、蓄えた栄養を、運動によって砕き、エネルギーを回収するという作業が終わる。


 準備運動で滝のような汗を掻き、心臓を温めてから、各部活の助っ人に入る。


 野球部。

 サッカー部。

 バスケットボール部。

 バレーボール部。

 柔道部。

 剣道部。

 陸上部。

 卓球部。

 テニス部。

 水泳部。


 一緒のチームになって試合をしたり、仮想敵として練習相手になったり、フォームの確認を行なったりする。


 日が暮れるまで部活の助っ人として活躍した錬司は、それから深夜に掛けて、バイトをした。

 日々の食費が、持たないのである。


 ジムと工事現場だ。

 ジムではトレーナーとして指導する傍らに、自分の身体を鍛えるのに器具を使わせて貰っている。誰よりも重い負荷を身体に掛けているのに、子供用のダンベルでも扱うかのように平然とメニューをこなしてゆくのは驚異的であった。


 ジムの営業時間が終わると、工事現場に入った。大きな麻袋に詰めた土を、両肩に担いで運ぶ事を繰り返す。こちらも、誰よりも量をこなし、しかもその動きが迅速であった。


 家に帰るのが深夜の〇時過ぎになっている。それから自宅でしこたま食事を摂り、風呂に入って、寝る。


 起き出すのは四時半から五時に掛けての間だ。早めの朝食をこちらもたっぷりと摂ると、ランニングや筋トレをして、シャワーを浴び、二度目の朝食を摂る。


 そんな日常を繰り返して置きながら、何食わぬ顔で登校するというのが、当たり前になっていた。


「呆れた食欲ね」


 と、同居人である摩耶は言った。最初の頃は、食事を用意してもいたのだが、今は調理が追い付かないので、半分近くは出来合いを買って来ている。


「睡眠時間も減ったようだし」


 やはり呆れて言うのだが、これも原因ははっきりとしている。Σの影響だ。Σは、宿主を常に軽い興奮状態に保ち続けている。睡眠から覚醒した直後にテンプレートを噛んでも、即座に行動が出来るように、である。


「花果さんのお陰で、助かっています」


 錬司は摩耶と、いつかそんな話をした。


「家の掃除までして貰っちゃって……」

「お世話になっているんだもの、これくらいはしなくちゃ申し訳ないわ」


 いつの事だったか、錬司は未散に、自分が出来る精々の事は簡単な家事程度だと言った事がある。しかし今はその時間が余り確保出来ないのと、摩耶がいてくれる事で、殆どやっていない。


 そしてこの日、終業式を終えてからも、錬司はいつもと同じように、大量の食事をして、部活の助っ人に入った。



 陽が落ちている。

 蒸し暑い風が、坂を這い上がって来ていた。錬司の身体はそれ以上に火照っている。


 独りで、坂を下りていた。

 バイトがない日もたまには入れる。それが今日だった。

 そんな日は、家に帰った後、ご飯を食べて、少し身体を動かし、入浴して、寝る。


 と――


「竜胆くんっ!」


 坂の上から、声が降って来た。振り返ると、未散が坂を駆け下りて来る。


「はぁ、はぁ……間に合ったぁ」


 錬司の手前で止まった未散は、肩を上下させていた。


「間に合った?」

「うん、部活が長引いちゃって――」


 未散は、肩に、細長いケースを担いでいた。ブラスバンド部での彼女の役割は、クラリネットだった筈だ。

 と、その未散の顔が、坂道を駆け下りたのとは違う色に、赤く染まった。


「間に合ったって、何に――」


 そう問おうとした錬司の言葉を、何でもないよと遮って、今度は歩いて、坂を下り始める。


「何だか、こうして歩くの、久し振りだね」


 未散が言った。


「そう言えば、そうだね」


 復帰から暫くは、未散と一緒に帰っていた。クラス委員の自分には、まだ本調子ではない錬司を見守る義務があると思っていたようだ。又、彼の事故の原因が自分を庇った事にあると、未散は今でも言っている。


「何だか、すっかり変っちゃったみたい」

「何の事?」

「竜胆くんが、だよ」

「僕が?」

「うん、だって、皆の人気者だもの」

「そうかな……」


 錬司は、こめかみの辺りを指で掻いた。


 確かに、事故以前とは変わったと、自分でも思う。Σの影響ではあろうが、身体的に能力が跳ね上がったのは事実だ。内分泌系の変化によって、知識の吸収さえ容易くなった。それらを利用して校内での地位を上げていたのも事実だし、この事によって、クラスメイトたちばかりか先輩や教師にまで好かれるようになった。


 だが――


「そんな事はないよ」


 それらを求めていなかったと言えば嘘になる。誰だって一度は、自分を特別な存在として見て貰いたいと思う。若しもプロ野球選手のように一挙手一投足がニュースで扱われたりしたら、難関国公立大学を首席で卒業してクイズ番組で優勝したら、スクリーンに映る主演の顔が全部自分のものだったら……とか。


 学校に現れたテロリストを、自分一人で制圧出来たなら。

 突然異星人との戦争に巻き込まれ、秘密裏に開発されたロボットに乗り込む事になったら。

 技術発展が遅れた別の世界に移動させられ、こちらでの知識を生かして現地の人々を率いるような役割を得られたなら。


 誰だって持っている、自分がヒーローだったならという願望。今の自分は、その願望を叶えたに等しい人間であるという事が出来る。


 それでも、錬司が本当に欲しいものは、手に入っていない。


 羽生未散――


 錬司はずっと、彼女の事を思って来た。


 彼女とこうして話している……それ以上の関係になりたいと願って来た。


 彼女の傍にいて、手を握り、腕を組み……


 今まで錬司がその願望を表に出さなかったのは、自分が未散に相応しくないと思っていたからだ。

 文武両道で、性格も明るく、誰にも分け隔てなく接し、人から嫌われる要素がない少女。

 彼女に、陰気で、根暗で、運動音痴で、頭も悪い自分が、相応しい訳がない。


 逆に言えば、それらから脱却した今の自分ならば、未散に相応しいと言えるのではないか。


 思いを告げるのならば、今だ。

 そう思う一方で、今の自分が本当に自分なのかと、考える事もある。


 今の自分があるのはΣのお陰だ。

 Σがなければ、事故から復帰しても、陰気で、根暗で、運動音痴で、頭も悪い自分のままだったに違いない。


 Σは言うなれば劇薬だ。

 人に凄まじい力を与える兵器である。


 それによって過去の自分を切り捨てた自分は、本当にあの竜胆錬司なのか。


 誰からも好かれるスーパースターである竜胆錬司が抱く羽生未散への想いは、それまでの竜胆錬司が持ち続けて来た思いと同じなのか。


 ――お前も俺が好きなんだろう。


 そんな、傲慢な事を考えてはいないか⁉


 誰もが今の錬司を認めている。

 自分の女になれと言ったのなら、少なくともクラスの女の子は二つ返事で頷くだろう。


 それを、この羽生未散に求めてはいないか。

 そうだとすれば、そんな事を考える自分に嫌気が差す。


 又、未散の方が、自分に対してその思いを抱いていない事を、恐れる気持ちもある。

 未散に思いを告げた時、彼女に否定される事が怖かった。


 少なくとも前の錬司ならば、断られて当たり前だ。では今の錬司ならどうか。

 断られるのは嫌だ。だが嬉々として頷かれても、妙な気持ちになる。

 うじうじとした、複雑な恋心であった。

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